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短編小説「国境線上の蟻」#1


 鳥の声は聞こえなかった。
 蟻はそもそも啼くことがない。
 啼かない、声を持たないのは佳いのかもしれない。そう思った。その肢体を逆さにして皮を剥いでも絶叫を聞かなくて済む。
 天上にその姿を掲げられるものが啼くのはかまわない。地上にもがくものが何故、声をあげるようになったのだろう。
 蟻と大差ないのに何故、神は俺たちに声を与えたのだろう。
 君はそんなことを考えていた。
 血を吐け。声を吐くな。この車の半分が焦げてしまうまでガードレールに擦り付けてやろうか。そんな金属音を鳴らしてみたいと君は思う。だがヒトの声は聞きたくない。地上に這う者は声なんて出さずに静かに消えてくれ。
 神は何故、俺たちに声を与えたのだろうか。
 声があるからヒトは叫んでしまうんだ。
 
 君はフロントウインドウの先、手が届くほどに近い未来、およそ2秒後の未来を睨みハンドルを片手に掴んでいた。
 やみかけて小さくなった雨粒は再び大きく強くなり、その大粒をワイパーが苛立たしげに跳ね除ける。君は二度、まばたきをして再び眉間にしわを寄せる。
 そのつもりはなくとも、君は右手にその未来を握っている。
 空いた左手は色の煤けたコートのポケットのなかで何かを弄んでいる。
 音は鳴らない。いや、鳴ってはいるが聞こえてはこない。鉄を叩く雨音、タイヤが路面に擦れるノイズ、それから途切れがちに流れるラジオで物音が拾われないように気を払っている。
「くだらない。なんだこの歌は」
 助手席の男がラジオを小馬鹿にする。だが、その男にしても聴いているわけではない。
「他にないのか? なんでもいい」
「ない。俺は音楽を聴かない」
 短く君は応える。そして横目に助手席の男の表情を伺う、対向車のヘッドライトが瞬間、隣の男の顔を夜闇に浮かび上がらせる。
 硬そうな白髪を長く伸ばして後頭部でひとつに括っている。横皺の目立つ額の下の目は眼鏡で隠している。薄いグレイのレンズのウェリントン。頬はわずかにこけ、乾いた唇に続く。
 60歳くらいだろうか。
 年齢のわりには全体的にほっそりとしている。とくに鍛えているわけでもなさそうだが、その痩躯から緊張感を漂わせている。
 君は思う。太っている奴は恐ろしくない。痩せている奴こそが怖い。緊張感を漂わせるから、ではない。緊張しているからこそ太ることがない。どんなときも満腹になるまでは食べないだろう。食後、すぐに走れる程度にしか食べないだろう。 
 そういう奴はいつでも戦闘できるように訓練をしているものだ。腹を満たすための食事をしている者はいざというときの一歩が遅い、初速が遅い者は殺し合うことはできない。
「お前は音楽を聴かないのか」
 表情らしい表情はない。男にぼんやりと光が差す。
 君はなにも言わない。
 声にはせず思う。お前のようにのんびりと歌を聴いていられるような恵まれた生まれじゃなかったってことだ、と。
「ヒトが作ったもののなかで最も美しいのが歌なんだがな。なぜ、お前はそれを嫌う?」
 その問いは君を古い記憶に連れてゆきそうになる。瞼によぎるのは生まれた街、恐らくは生まれた土地でもある、裏寂れた港町の風景だった。
「生まれた街の歌なら聴いたことがある」
 だからと言って好きだったわけじゃない、君はそう思う。
 朝だろうが昼だろうが、仕事にあぶれた人間たちは瓶のアルコールをあおっていた。そして調子外れの歌を歌った。愛だとか恋だとか、涎を垂らしてそんなことを歌っていた。なぜ人は声を持っているのだろうかと君は思った。頭の中で思うだけならいい。声があるから、そんなくだらないことを誰かに聴かせようとする。その風景が、光景が、いつも我慢できなかった。
「美しくもないヒトが、美しくもないことを歌っていた。それが好きになれなかった」
 君はそう返す。
 その風景が網膜に、その灼けた声が鼓膜にこびりついているだけだ。記憶としてとどめておきたいわけじゃない。あんな連中はまとめて殺してやりたかった。焼き払ってやれたら良かった。
 君はそう思う。それから。
 視点が再び僅かな未来を睨む。雨は再び小康しつつある、そして、朝が近づきつつあるらしく、ふと見た左手、東の空には太陽の姿が浮かび上がりつつあった。

続く
photograph and words by billy.


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