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短編小説「アプリ」(#2000文字のホラー)


 意外なくらいに呆気なく結婚してしまったあと、おそらく数日で後悔が始まり、しかし、わりとあっさりと私は離婚に踏み切った。踏み切った、なんて言うと高くそびえる壁があったり、あるいは助走をつけてえいやと飛び越えなくてはならない溝があるとか、そんな様々なハードルが待ち受けているように聞こえるかもしれないけれど、別にそんなものはなかった。ただ、必要書類に氏名を記入して、捺印して、提出すれば、ほら、もう元通りの他人。お互い、これからは無関係の他人。しばらくすれば、一時期、お借りしていた姓だって忘れられるはず。少なくとも私はそれを記憶から削除してしまえると思う。なんの愛着も執着もないのだから。
 仕事探さないとね。なんにしても大切なのはお金。別にATMだなんて思ってなかった。限度額が低くて不自由していたし、とりあえずこれからはどうにかお金を工面しなきゃ。そう考えて、私は西日の差し込む9月のアパートでスマホを睨む。生活が組み立てられる最低限の家電は用意してあるし、いまは荷解きをやる気にならない。エアコンの送風口の直前に立って、額を冷風に傾けた。いつまで暑いのだろう。寝室から泣き声が聞こえる。そうだった、そろそろミルクの時間よね。この近くってコンビニあったっけ。室内で火をつかう気になれない。あたたかい生き物を抱きかかえる気にもなれない。ベッドの上で静かに寝てくれていたらいいのに。いつになったら、自活してくれるんだろう。これから20年先だと思うと思いやられる。煩わしい。
 なにか簡単にお金をつくれる方法ってないのかな。バツイチ、子持ちにはなってしまったけれど、私はまだまだ若いし美しいはず。そう思って、鏡の前で腰をひねる。無駄な肉がつかないように、自分で自分を見張ってなくてはならない。まだ若いが、2年経たないうちに30代を迎える。それまでになんとかしないとね。

「一杯、ご馳走させてもらえませんか」
 そう声をかけてきたのは、白髪の目立ち始めた男だった。きちんとしたスーツ。レジメンタルのネクタイ。ブランドはわからないけど、身にしているものは悪くない。袖からちらっと見える時計はいかにも過ぎるけど、お金はありそう。私はそう値踏みした。愛人でも探しているのだろう。
「あの」
 私はスマホを提示する。
「このアプリのアカウント持ってらっしゃいます?」
 住所、氏名、年齢。身長と体重。勤務先。年収。そんなスペックあれやこれやを提示できる、マッチングアプリ、「スキ♡」。おしゃべりしたり、デートをするより早く、相手の価値を知ることができる。
「えっと。SNS的なものでしょうか」
 男はアプリを知らないらしい。年齢的にネットテクノロジーに疎くなる頃だろう。しかし、何度も会うほどにも思えない。一応は連絡先のわかるメモをもらっておいて、私は席を離れた。
「お姉さん、ごはん食べない?」
 背後から声がかかった。振り返ると、作業着の男が私を見ていた。見てくれは悪くない。ないけど、作業着で入れるお店なんてファミレスか居酒屋くらいだろう。居酒屋は好きだけど、男女が最初に行く店ではない。それに小柄な男はあまり好きになったことがない。
「これのアカウントあります?」
 提示したスマホを覗いて、男はうなづく。それなら、と、互いのアカウントをフォローしておこうと、スマホを振り合わせた。きん、と金属音が鳴って、男の情報が流れ込んでくる。身長176センチ? うそこけこの野郎。10センチはサバ読んでるだろ。そんな会えばバレる嘘を記入しているなんて。バカだな、こいつは。またにしてくださいと私は笑顔で手を振って、そのアカウントを削除する。どいつもこいつも、自分を大きく見せようと嘘をつく。
 帰宅と同時にサンダルを脱ぎ捨てて、シャツを脱ぐ。いい加減なTシャツと半ズボンに着替えて、コンビニのサラダとラーメンをすすった。
 私はアプリを立ち上げる。そこには修正された写真の私が映っている。顎のほくろも削除してあるし、バストアップの写真は補整された胸が通常の1.2倍ほど大きくふくらんで見える。
 未婚。一人暮らし。25歳。美術館勤務。趣味は読書とお料理。大学卒。伏し目がちに微笑む私は完全体のはずなのに、とくにフォロワーが増えたようでもない。さすがにこれはハイスペック過ぎたか。経歴を触っておくほうがいいかもしれない。男はハイスペ女を避ける傾向がある。
 そうそう。立ってもくれない、朝昼夕のミルクとおしめの変更が必要な、泣いてばかりの煩わしい生き物は。どこかのポストに置いてきています。私はなるべく、男が求めるような、完璧な女になろうと自分をカスタマイズしてきたんだから。

ここまで本文1912字です。
artwork and words by billy.

#2000字のホラー

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