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短編小説「ノー・サプライゼス」


 振り返ると揺れる茶色の髪。潮風と水平線。空も海も、無条件に青い。一切の留保もなく、ひたすらに青かった。ずいぶん遠くまでやって来た気がする。目の前の海は太平洋だろう。記憶に間違いがないなら、初めて見たはずだ。轟音に気づく。真上を航空機がゆく。その白い腹。プロペラ音。ボンバルディアと言うんだっけ。確か、すぐ近くに空港があったはずだ。
 後部席の子供はよく眠っていた。初めて試したが、ずいぶんよく効く眠剤らしく、橋を渡っても、山道を駆けても、悪路に跳ねても、まるで起きる気配がない。いい子だ。僕はそう思う。もうしばらく眠っていてくれ。いただきものの車を降りた。ずいぶん古そうだが、シートは心地良いし、足回りはよく整備されているらしく、安心して遠距離を走ってくることができた。コーナーに吸い付きながら、しかし、直線では一気に速度をあげることができた。加速しても騒音らしいノイズもなかった。どこのメーカーなんだろう。僕はこのエンブレムを見たことがない。国産ではなさそうだが、しかし、欧州車というふうでもない。アメリカの最新車だろうか。ボディカラーも不思議だ。シルバーのようだが、光の当たり方で別の色のようにも見える。角度を変えて観察する。傍目にはシルバー。緑のようにも見えるし、あるいは紫のようにも映る。玉虫と言うのだろうか、ボンネットとドア、バックハッチとルーフがそれぞれ別の色に見えた。
 しかし、この車なら、子供は安心して眠っていられるだろう。加速も減速もスムーズで、粘着質な液体のように波打ちながら、まるで振動を感じなかった。瞬間移動のように、日本海側から太平洋側にまで走ってきた。逃亡につかえる。こいつは手放したくない。僕はそう思った。
 再び、後部席に目をやる。
 ぐっすり、ではない。ぐったり、とでも言うのだろうか。眠っているというよりは、停止しているとでも言うべきだろう。半身で寝そべって、口を開けている。声はない。呼吸はしているのだろうか。起こしたくない。近寄らないほうがいい。思わず、僕は、呼吸音やため息を潜めた。
 いくつくらいだろう。10歳くらいだろうか。子供の年齢はよくわからない。つやのある頬。瑞々しく光沢のある髪。細長い体。数年もすれば、ずいぶん美しく育っているだろう。そのころは僕の顔を忘れていてくれればいいが、おそらく無理だろう。誘拐犯の顔なんて、生涯忘れない。悪いことをしたとは思う。だが、少女性愛の趣味はない。危害は加えない。大人しく寝ていてくれれば、どこかで解放するつもりだ。コートのなかを探る。タバコ。まだ残っていてくれたか。火をつける。乾いた空にふかすタバコ。それなりに疲れたらしい体に、その毒が駆け巡った。思わず咳き込む。
「大丈夫?」
 背後から声。思わず振り返ると、いつの間にか、少女は目覚め、車外であくびをしていた。青白い顔色。上下左右をくるくると何周か見回して、正面の海に焦点を合わせたらしい、緑色の瞳。なんだこの子は。日本人じゃなかったのか。内ポケットの刃物を握る。
「ここは……」
 僕に訊いているわけではなかった。左手首に巻きついた楕円からグリーンの光柱が立ち昇っている。その光のなかに、画面らしい何かが明滅していた。モニタのなかに浮かぶ白い顔。あれは、腕時計じゃなかったのか。
「ここは海。太平洋という海」
 海は地球の表面の約70%、面積は約3億6106万平方メートル。それは地球の陸地、約1億4889万平方メートルの2.42倍になる。海か。初めて見た。
 誰と話しているんだろう。僕には注意すら払っていないようだ。自分の置かれている状況がわからないのか。なんとはなく、苛立つ。
「おい」
 君。それはなんだ? 誰と通信しているのか知らないが、すぐにやめろ。左手のそれを渡せ。
「これが欲しいの?」
 不思議そうに首を傾け、手首を握る。光柱がその腕時計らしきもののなかに吸い込まれて、消えた。するりと抜き取って、それを僕に投げる。
「どうぞ」
 生体認証が必要だから、あなたには使えないけれど。それでいいなら。少女はにっこりと笑った。まるで怯えてもいない。なんだこいつ。一歩。二歩。躊躇いながら三歩目を踏み、切っ先を額に向けた。
「悪いけど。君は連れ去られたんだ。大人しく、僕の言うことを聞いてもらう」
 べったりと嫌な汗が滲む。額を、頬を、首を、手のひらで拭った。
「連れ去られた? 誘拐したってことかしら」
 少女の表情は変わらない。感情が揺れない。恐れてはいないし、怯えてもいない。何かおかしい。
 少女? ちょっと待て。落ち着いて思い出せ。いまの声は、この子の声は、少女なんかじゃない。まるで機械音声だ。
「君は一体……?」
 こいつは、僕たちとは違う。ナイフが揺れていた。怯えて、震えているのは、僕だった。
「ねえ」
 唇を舐める赤い舌。潮風に揺れる髪。コートのポケットから光が漏れていた。取り上げたつもりだった、少女の腕時計。謎の通信機器。
「連れ去られたのは、あなたのほうなのよ」
 少女の背後の、メーカー不明の自動車はその形態を変えていた。どこかで見たことがあるぞ。銀色の円盤。
 あれは。UFOじゃないか。そのとき、僕は意識を失って倒れた。少女の眼から放たれた、赤い光線が僕の額に届いた、その一瞬のことだった。
「検体の捕獲、完了」
 少女が言った。

 #宇宙SF
#眠れぬ夜に
artwork and words by billy.


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