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短編小説「ないしょ」(#2000字のホラー)

 おやすみにはまだ早いでしょう? ねえ、もう一度しようよ。次はもっとがんばるから。
 私は彼の鼻にキスをする。彼は細くて尖った、かたちの良い鼻をしていて、私はいつもそこに唇を寄せる。冷たい。かじりたくなる。甘く噛む。かすかに潮の味がする。生きている。生きているんだもん、当然よね。私は唇を尖らせて追撃する。逃がさないんだから。そう言って彼の上に乗りかかる。下着をつるんと剥いで、その小さな布地をベッドから追い出そうと放り投げた。空気を含んでふわふわとパラシュートのように転落してゆく。
 重くなんてないでしょう?
 私はとても軽いの。知っているよね。彼は何も言ってくれない。かまうもんか。唇を重ね合わせる。冷たい。ねえ、君、ちゃんと生きてる? なんて、怒らないで。裸の胸に頬を寄せて、そこに鳴るはずの心音を確認した。聞こえる。とくん、とくん。それは何かに似ている。真冬の湖。そう、凍りついた湖が、日光を浴びて徐々に溶けて、表面から崩れてゆくときの、氷がわずかな音を鳴らして水に還る瞬間によく似ている。私はその美しい光景を眺めていたことがある。
 愛してるって言ってくれないのかな。そう耳元に打ち明けてみる。それから吐息を吹きかけた。ねえ、触って。手を取る。それから左胸に誘う。私の心音をその手で感じてもらいたかった。
 ねえ、柔らかいでしょう。私、柔らかいんだから。この体すべて、君が知っているこの世界のなによりも私が柔らかくて、気持ちがいいはず。そうよ。私は軟体動物にだってなれる。一緒に気持ち良くなろうよ。ふたりで天国に行こう? 
 さあ、始めましょう、もう一度、夜を。
 サイドテーブルの上のランプが明滅する。スプリングが軋む。エアコンの作動音に紛れて、私たちは呼吸まで重なり合う。カーテンが揺れた気がした。私は窓の向こうの景色のことはずっと前に忘れてしまった。相変わらず、酷く晴れたり、雨に打たれて、それからパトカーや救急車がうろうろとして、まったく不愉快なくらい騒がしいんでしょう。人間の世界は相変わらずだけど、私たちは静かな暗闇を用意して、そこでだけ別の宇宙だってつくれるのよ。
 
 鳥が泣いて、夜が明ける。昨日によく似た現実かしら。きっとそうよね。ねえ、そろそろ起きる? それには応えず、彼は立ち上がって背中を向けた。白い、細い背中。浮き上がる中央の軸。背骨。男は美しい背中を持っていないとだめよね。君は合格。首筋から背骨まで、何度見ても見飽きない。そのあたりに落ちていた黒のニットトランクスを拾い上げ、やはり、昨夜、脱ぎ捨てたTシャツをかぶる。それから君はかすかに拾えるほどの小さな欠伸を噛み殺して、部屋を抜けてゆく。冷蔵庫からミネラルウオーターを取り出して、細い喉仏を上下させて、一気に飲み干すのだろう。
 パンでいいなら焼こうか。それと、スクランブルエッグと、なにかサラダでいいよね。そんなに食べないよ、なんて言うのかな。それだけ細いんだから、あんまり食べないよね。それともコーヒーだけで済ませるのかしら。朝はしっかり食べろ、なんて、大きなお世話よね。好きなときに好きなものを食べるほうが楽しいよね。私はそのことをちゃんと知ってる。人はあれやこれやとルールを作ってすぐに忘れる。健康がどうしたって言うの。どんなふうに生きたところで、避けようもなく死んでしまうのよ。余計なルールなんて要らないの。
 君、日中はお仕事だっけ。なんの仕事をしてるのかな。きっと頭脳労働だよね。少しは返事してよ。ねえ、私は君の彼女でしょう。こっち向いてよ。
「気持ち良かったでしょ。今夜も続きしようね」
 隣部屋の彼に届くように声をあげた。窓の外が不快なくらい眩しい。何月だっけ。きっと、外は溶けるくらい暑くなっているのだろう。きちんとしたスーツに着替えた彼は冷蔵庫に残していたサンドイッチをかじり、ペットボトルのコーヒーをすする。私のぶんもあるかなー? 気怠げにスマホをなぞり、ほどなく彼は部屋を出てゆく。なんだか知らないけど不機嫌だった。お仕事なんてつまんないよね。わかるよ。私も働いていたことがあるから。つまんなくて死んでしまいそうって毎日思ってたよ。生きてるって無駄が多いのよね。
 でも、大丈夫。
 君はもうすぐ死んでしまうから。知ってるかな。あの世って言われてる。天国かな。地獄かな。
 ずっと、昔ね、私は生きることをやめてしまいたくて、湖に出かけたの。真冬の湖にね。そのときのことをよく憶えてる。美しい景色に溶けて消えたの。
 ふと気づく。テーブルには雑な文字のメモが残っていた。
「生きることに疲れました。僕のことは探さないでください」
 行き先も決まっているみたいね。ふうん。思ったより早かったね。ここだけの話、ないしょにしてね。
 私は君を迎えに来たの。


↑ここまで1972字です。

「ひみつ」とは対になっています。
artwork and words by billy.

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