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「ひみつ」


 おはよう。
 目覚めると彼はいつものように私を見下ろしていた。その冷たげな視線から隠れたい、本当は隠れたくない、傲岸不遜な態度で私のことを見下ろしていて欲しい。
 まだベッドを離れたくなかった。タオルケットを体に巻きつかせて、もう一度、目を閉じる。やっぱり彼の視線が気になる。ゆっくりと目を開ける、そして、微かな笑みには精一杯の微笑みを返す。
 そんな目で見ないで。優しくしてよ。でもそんなわがまま、声にはしない。また何か酷い侮蔑を受けてしまうかもしれない。いっそのこと、このバカ、早く起きて朝メシの支度をしろとか言ってくれるほうがいい。命令をくれるほうが何をすれば良いのかわかるし、私のような愚鈍な女は、次の一歩の踏み出す方向を教えてもらえるほうがいい。
 なんどそう訴えても、彼は命令なんかしない。それは優しさ。愛。慈しみ。でしょう? 私はそのことをちゃんとわかっている。理解できない女があなたのことを悪く言ってきただけでしょう? 私はそこらの子とは違う。だから、それをわかって。
 これでも意外と傷つきやすいんだから。少しでいい、優しくして。声にはせず私は思う。どうせ抗議しても相変わらずの冷たい視線でちらっと見てくれるだけ、それ以上のことは起きない。
 時間を確認しようと枕元のスマホをつまむ。そこにもやはり彼がいてくれる。待ち受け画面。せっかくだし、ポスターとは別角度、別衣装、別動画をスクリーンショットさせてもらって、きっと、「好きにしなよ」なんて言ってくれたりはしないだろうけど、私はあなたの恋人。彼女なの。少しくらい好きにさせて。ね、いいでしょう。そう思いながら尊大な表情で私のような下々の民に視線を送る誇り高い獣を眺める。美しい。同じ人間とは思えないほどに美しい。その月明かりに浮かぶ白い肌。夜にも溶けない真っ黒な、しかしは濡れたような瞳。その瞳を飾る睫毛は真冬に葉を落とした森のなかの静かな枝のようだ。尊いという表現がぴったりかもしれない。
「尊い」
 私は彼に告げる。あなたは尊い。追いつける日なんてあるはずもないであろうけれど、肩を並べて歩いてみたい。そんなふうに思いながら、それでも、だめな私を見下ろす彼の視線に寝てはいられず、ようやく朝を始まる決心をした。

 パンでいい?
 なんて言わない。そんな食物繊維もたんぱく質もない、糖質しか含んでいないような家畜の餌を食わせるつもりかよ。そう言ってお皿をひっくり返されるでしょう。でも私はその瞬間でさえ愛おしいの。あなたが私に声をかけてくれるから。ちゃんと、玄米のご飯を炊いて、納豆と野菜たくさんのお味噌汁よね。ビタミンとミネラル、食物繊維、発酵食品を摂れない食事を嫌う、美意識の高いあなたはいつも細くてしなやかで美しい。私はそれをよくわかってる。そのことを思い出して、私は食パン一斤を床に叩きつけて、それを踵で捻じる。おまえなんかのせいで、私が彼に嫌われたらどうする? なによこれ。トースター? そんなものが何の役に立つって言うの。コンセントを引きちぎって、私はその無益な家電を床に叩き落とす。何のためにここに来たの? 私を苛立たせるためにここに来たの? さっさと散って、二度と顔を見せないで。蹴飛ばしてやろうかと思って、でも、足にキズをつくってしてしまっては、きっと、完全主義の彼に嫌われる。彼は美しくないものを嫌うから、私も美しい女でいないとならない。
 落ち着いて。落ち着け私。大きく息を吐く。彼好みになれるよう、今日もきちんとメイクをして、シンプルで飾り気はないのに美しい服に身を包むのよ。冷蔵庫に残っていた、訳の分からない言語のミネラルウオーターを飲み干す。飲み干して、吐き気がして、何もかもを吐き出そうと便座を抱き寄せる。窓の外からバカ丸出しのカラオケが聴こえてきた。うるさい、おまえら、声を出すな。私の邪魔をするな。今夜、あんたらに火をつけてやるんだから。私と彼のためにある世界に邪魔をするな。
 そして、鏡に向かってリップを引く。それから塗りたくる。この色って、彼は好きだろうか。そもそも私はなんでこんな下品な色を選んで買って来たのだろう。こんな唇にはキスがもらえない。きっと、嫌われる。なによこれ。この世界の何もかもが疎ましい。私はそのリップを床に叩きつけてしまう。この世界の何もかもが不愉快でしかない。それから鏡のなかの自分を睨む。誰なのこれ。私って、こんなふうだったっけ。そこにいるのは若くも美しくもない、年齢に合わせて太ってしまった、醜い生き物。
 恐怖を覚えて部屋を飛び出す。一瞬、愛しの彼氏が私を見ていた。
 そうだった。あいつはCMか何かで見ただけのタレントだったっけ。
 この世界は、地獄なんだった。
 もう、愛してはもらえないだろう。あの美しい横顔を思い浮かべる。私は彼の声すら知らない。


本文、ここまで1988文字です。
artwork and words by billy.


 この「ひみつ」は、「ないしょ」と対になっています。朝と夜、生と死。そんなところで。内容は違いますが、テイストは似たものになっています。

#2000字のホラー



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