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「海沿いの椅子」

 その一脚は南を向いて遥か彼方を眺め続けている。
 雨季は終わりを告げ、凪いでいた波は夏の太陽の激しさを映し出して弾けるように砕け、そして、はしゃぐ歓声たちが水を求めて集まる。

 彼は静かで揺れることもない。雨風にさらされ続け、磨り減った脚は僅かに軋むことがある、そう、その椅子は既に老境に達している。
かつて彼の左右に並んでいた彼の友人たちは役目を終えてここにはいない。
 夏が訪れるたびに彼は生まれたばかりであったころのことを思い出すことがある。

 彼らは静寂にして事象の傍観者として、引いては満つる、繰り返しの万象を、数百年間、眺め続けた。

 打ち寄せる波に恐る恐る手を差し出した幼子と彼を見守る穏やかな笑顔を。

 幼子が育ち少年期を迎え、遠くかすむ島まで泳ごうとした或る夏を、そして、逞しくなった少年が、かつて彼を見ていた背中と似たシルエットを描いた黄金の夕陽の時を。

 青年はひとりの娘を連れて歩いた、波音はふたりの声を運んできたが、椅子は聞き耳を立てはしなかった。そのとき、椅子には白髪を混じらせ、永遠の眠りを近くに迎えたある男女を抱いていた。
 痩せて皺の増えた左手と右手が重ね合わされている。背もたれには杖がかけられていた。

 ふたりは若き日の自分に似たふたりの男女を眩しげに眺めているだけだった、そしてまたそのふたりの間には頼りなげでか細い、かつての誰かに似た幼子が波と戯れている。

 椅子として生まれた彼は、その幼子が泳ぎ疲れて濡れた体を拭いもせずに体を預けにくる時を待っている。

 連綿たる繰り返しが続いてゆくことを声にはせず祈る。例え、私の脚が誰かを支えることをできず、あるいは風にさらわれ波の彼方へ連れ去られてしまうとしても、ここで見続けた軌跡のすべてが奇跡であることを椅子は知っている。

 海が騒ぐ季節はすぐそこだ。椅子は今日もすべてを眺めている。太陽や風や光とともに。

photograph and words by billy.

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