短編物語 竜宮磯
初夏、志摩の磯の海女漁が解禁になった。
海で母親を亡くし、男手一つでここまで育ててくれた病弱な父親を支えるため、水絵は今年から海女デビューした。
豊かな熊野灘とはいえ、経験の浅い15歳の水絵にとって、限られた時間内に海底の岩に張り付いた保護色のアワビやサザエを見つけ出すのは、まだまだ難しかった。
先輩の海女さんがコツを教えてくれる。
「アワビはな、アラメが好きやもんでな、まずアラメの多い
磯を見つけてな、岩の隙間で影になった所を探すんやさ。見つけたら素早くノミを差し込んで岩から剥がすのや。」
「海の中には魔物がおるから、ドーマンセーマンを縫い込んだ手ぬぐいを被るのを絶対忘れたらいかん。」
「それと、竜宮磯だけは絶対近づいたらいかん。」
「あそこに潜って帰ってきた海女はおらんからな。この仕事は命がけやでな、昔からの言い伝えはちゃんと守らんと、二度と陸へは戻れんくなるぞ。ええな。」
船の上でも、海女小屋の中でも、幸子さんや先輩の海女さん達は、何度も何度も水絵にそう言い聞かせた。
7月、海神さんの祭りが近づいた日、海神さんに捧げる大きなアワビを採ろうと、水絵はいつもより潮の速い岬の岩場の沖へ船から降ろしてもらった。
親方の赤い旗が振られるのを合図に、若い水絵は10m以上ある水深をものともせず、一気に海底へと潜っていく。そこはアラメの宝庫であり、遠目でわかるほど岩の隙間に大きなアワビがひしめいている。
一気に三つのアワビを採った水絵が海面に浮きあがった時、海面に浮かべてあった木桶が随分流されていることに気づいた。海流が異常に速い。しかし、こんな豊かな磯を見逃すわけにもいかない。
再び海底を目指した水絵が見たものは、先ほどの海底ではなかった。岩の真ん中に穴が開き、周りの海水が渦を巻いて穴に吸い込まれていく真っ白な花崗岩の岩だった。
(あ、これが話に聞く竜宮磯?)
そう気づいた水絵だったが、すでに渦巻の中に巻き込まれた水絵はなすすべもなく、そのまま穴の中に吸い込まれてしまった。
溺れる!そう思った瞬間、誰かが水絵の腕を強く引っ張り、引き上げた。
しばらく気を失っていた水絵が目を開けた時、そこは見たこともない海辺の景色だった。
浜に打ち寄せる水は限りなく清く美しく、周囲の山は小鳥たちが歌い、その間の里には、教科書で見たような古代の茅葺の丸い家がいくつも並んでいる。そして水絵の横には腰蓑をつけただけの真っ黒に日焼けした若者が微笑んでいた。
「ここは・・・・どこ?」
「竜宮城。といっても、昔からあるただの漁師の村や。遠い昔、ヤマトの国に追われて逃げてきたんや。」
若者の顔には額と目じりに魔除けの刺青があり、腕と背中には鱗のような刺青もある。
それは海女さんたちが大昔にしていたという海人族の魔除けの刺青で、ドーマンセーマンよりもはるか大昔の風習だと聞いたことがあった。
ハヤトと自らを名乗った若者は、水絵に問われるままに自分たち一族に語り継がれる由緒を話した。
遥か遠い昔から、熊野から伊勢にかけての海沿いに、素潜り漁を生業にする海人族が暮らしていた。長い間、平和に暮らしていた海人族だったが、ある時、遠い国から渡ってきた異民族たちが、山を越えた里にヤマトと名乗る立派な王国を作った。
国家統一を目指すヤマトの兵士たちは、米や鉄といった宝物と引き換えに、海人族たちの多くをヤマトに併合した。
しかし、最後まで抵抗した一族は海の底に逃れ、そこに新天地を求めた。
ハヤトたちはその末裔だと言い、「竜宮磯」は、この海底の別天地と地上とをつなぐ数少ない通路だという。
ここは卑弥呼から代々続く巫女が治め、争いもなく、税も取られず、自然と共に生きる平和な土地だった。
水絵はすっかりこの地が気に入り、そして、あたりまえのように若者と恋仲になった。
二人はしばらく仲睦まじく暮らしたが、水絵の心には志摩に残した父親のことが、どうしても抜けないトゲのように残っていた。
水絵はその気がかりをハヤトに正直に打ち明けた。ハヤトは一瞬悲しい目をしたが、思い直したようにやさしく微笑むと、水絵と共に、村長のヒメミコの元へ申し出た。
高床式の社のような建物の中で、ヒメミコは二人の話を聞き、しばらく思いあぐねていたが、微笑みの中、刺すような目線で水絵を見つめると、口を開いた。
「一度ここに来た者は死ぬまで戻れないのがしきたりです。でも、あなたの父親を想う気持ちも無下にはできません。
ここの事は一切口にしない、と誓うなら、許しましょう。」
ハヤトは水絵の手を引き、村の「やらずの井戸」まで連れて行った。そして、哀しい目で水絵を見つめると、虹色に光る宝貝を手に握らせ、この井戸に飛び込み、息の続く限り泳ぐように、と告げた。
水絵は意を決して、井戸に飛び込んだ。
令和5年7月、志摩の磯に一人の老いた海女が打ち上げられた。手に宝貝を握りしめたその海女は、70年前に行方不明になっていた、水絵という海女だった。
記憶と共に言葉をも失ってしまっていた水絵だったが、その後100歳まで、穏やかに余生を過ごしたという。
※三重県南伊勢町に伝わる言い伝えを元にしたフィクションです。 birdfilm 増田達彦
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