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分裂分派の法則

Mood Band Wave それは人の個性それそのものを形成するのに一役を担う

今日は、現在日本の準政治言論空間にちょっと失望し 虚無観に囚われている そのため いつもの自分の意識とは違ったムードが意識を蔽っている

ムードが蔽っている といったが それは文学的表現であり 厳密には 自分の意識状態=ムード=今日は虚無にちかい これが事実であり ムードとは "いつもの" 意識そのものであり マインド空間の色や模様、雰囲気、気分といったほうがいいだろう

つまり このムードこそが マインドといってもいい このムードというマインド空間を思考という主旋律が走っている状態が意識だ

よく 瞑想世界でいわれる 宇宙意識 とは聞こえはいいが 所詮はマインドであり 決してそれは解脱ではない

解脱とは このマインド空間=ムード空間 から確実に離脱した状態を現わしている

従って 宇宙意識なるものは 例えそれがどれだけ心地よく鮮明で広大無辺に感じても 所詮それはマインド内部であり 無色透明でクリアなマインドを現わしているといえるかもしれないが、大方 解脱などという品物ではない

宇宙意識とはいうものの 現実の宇宙の広大さを考えればこの言葉は適切ではなく 拡張意識といったほうが無難だ

そしてその 宇宙意識空間を 球に例えるなら 究極の解脱とは この球の外の世界を垣間みて それの一体感の経験予兆をするまでであり

その世界は 絶対的に言葉で表現できるものではない 人に「気づき」を提供している本体こそがその領域を意味している

なぜならそれ ( 意識空間の外側 ) は もはや 意識ともいえず ただただそういう状態があるだけであり それこそが至高の領域だ

( ※つまり 意識でないものを 意識で現わすことなど絶対に不可能であり そんなものを言い現わそうという態度がそもそも不誠実であり
世の中の全てのその種のものは、完全に智を欠いている )

この領域では静と動が同一にあり カオス(混沌)と完璧な合理性が全く同一であり 時空は展開をみせていない そういった領域だ

そこに至って人間が表現できる要素は何もなく 疑問といえる全てが完全に無い状態であり これぐらいしか表現のしようはない

最近 いとも簡単にこれに至れるような風潮が漂っているが 全くナンセンスであり この領域はそんなものではない

精々が 上にあげた 世にいう宇宙意識 無色透明なクリアなムード まず意識それ自体がそれをみている宇宙意識が良質な状態といえる

この状態でも諦めず 禅定を続けていくとやがては マインドは消え失せる 存在という状態経験だけになるが それさえも解脱状態ではなく

できることは ここまでであり これ以上の技巧は意味を成さない

しかし こういった作業=瞑想を 続けていると いつか それはふぃにやってくる ということはいえる

絶対的直感の気づきの瞬間だ その最後の瞬間は瞑想状態の時とは限らない

ただいえる事は こういった 突然の転変の後やってくる気づきを経験すれば 大方 一切の言葉 一切の理屈 これらに真理なるものは何もなかったことがわかる
したがって 今自分が書いているこの文面も意味を成さずこんなのはただ単なる表象にすぎないのだ

これを予兆経験しながら 言葉や理屈を最重視するなどということは決してありえない もしこの状態を予兆経験しながら それを成す姿は全くもって詐欺師のそれにちかい 自分が現わした文を含め全ての否定のみが唯一のその実態表現といえる

つまりこの後わかることとは 全ての宗教は その開祖が創ったものではなく 後にその域にないものが勝手に編纂したものでしかないとわかる瞬間でもある

これを昔から 無とか空 とか『言葉遊び』のじゃれ事を使い 宗教団体をつくりだして騒いでいるのが娑婆であり 愚の骨頂だ

そんな時間があるなら 少しでも この後の現実世界に 究極の芝居屋であり 芸術の根源であるブラフマンが送り出してくるムードと思考を制御して 1個人1宗教の具現化をするのが 賢い生き方であり 聡明な意志を現わしている


つまりは そういった最後の直感をえたとて 現実世界がなくなるわけでは決してなく 大方健善な暮らしを心掛ける以外 この現実を良くする方法はない

そこで最近 思うのが 人間一人一人の ベースポイント という視点であり これの意味するものだ

これがあるが故に どんな政治組織でも どんな宗教団体でも 必ず分裂分派が発生する

必ず 団体というものの内部には ポジション取りや 派閥が発生して やがては分裂していく 何かに似てはいないだろうか?

そう それはまるで 円や球が∞に広がっていく様である ある大きさの円があり その円周に個人の魂がある

しかし その円はでかくなると やがて円周の任意の1点はいくつにも広がり距離が離れていく

それと同じように 我々の個性は 同じようにみえても 絶対的に違いがあり それは時間とともに顕在化していく

※ここでいう個性とは才能という意味は一切ない そうではなく気質とか性質という意味

いつも 思うのは それが何であれ これは 馬鹿じゃなければ 誰もが最初からわかることであり これからの時代はますますこれが鮮明化していくのではないか? 結局ここに至っていくのではないか? という予感だ

つまり どれだけ 片方で みんな一つにまとまろう みんな一緒に和を大切にしようなどと奇麗事をいっても それは言葉のあやであり

問題の根源はここにある

さて もっと現実的視点に話題を移せば 現在誰もがスマフォ片手に 個人の尊厳を謳歌できる時代だまず ダイレクトに考えてみよう

 『 もとに戻れるか? 』ということだ

この場合の 「もと」とは 主に科学技術がなかった頃の 一致和合の団体精神が主流を占めていた時代の 個は全体のために犠牲になるべきだとする時代のそれだ

また もう一つ もし仮にそれが可能で貴方のみがその力があるとき

 『 貴方は人を無理にそうさせて幸せか? 』

という次の問いも この問いには含まれる

おそらく 今の時代 この2つとも Yesと答える人はめずらしいのではないだろうか 例えふざけ半分でYesと答えた人にさらにいうならば

『 しかし貴方がそうさせた そう望んだことは全ての人にバレますよ 』 とした場合

その人は その思惑がバレた状態でそれをどれだけ続けられるか?

自分はあくまで 直感の世界を無理に言葉に置き換えている 答えは最初からわかっている それは上に示したとおりで そもそも違っていてあたりまえの "それ" や "それら" を例え 一時でも! 一致させることなど最初からできないし 全く無理な話なのである

今までの時代でおいて そんなことが可能であり 一見それが持続しているかのように見えていただけだ

そもそも 青という色を赤には変えれないのであり 無理に変えたからといって 一見変化したかのようにみえるだけで 青という色の本質は決してなくなることはない

それと同レベルで 人の個性を形成するエネルギーは永遠であり 一切変わることはない 例えこの世から消えたとしても!

※個性とは才能とかいう意味ではなく 性格・気質・性質 という意味に限りなく近い

それがわかりながら 人を言葉でしばり 団体に縛るのは馬鹿げた発想以外の何ものでもないのだ

この意味がわかる者にとって 宗教団体とは 狂気の沙汰であり 最初から終わっている

したがって 自分は 1個人1宗教 あるいは1個人1スピを絶対お勧めする

そういう 意味で キャメちゃめ大先生の教えは それこそ人類の英知であり どんな難解な書物に書かれたものさえ超えている

問題は 政治だ これらの考えをまともに捉えれば 団体⇔個人 という次元のみでいうなら究極の左翼になるだろう

しかしこれは 国のみが唯一のまとまりであり 組織とみた場合は 究極の保守であり右翼となる

当然 いくら 個人を重視といっても 自分から距離の近いものは 遠いものより 単純に親近感がわくものであり ごくごく自然にそれはケースバイケースで協力関係が発生する

自然状態に発生する団体こそ 意味を成していて その都度離合集散をごくごく自然にやっていけばいいのだ

当然 その場合 去る者は追わず来るものは拒まずに徹しなければならない

現に今のネット空間はSNSなどを通してそうなっている だから誰もSNSを否定したりはしない 最もネットの世界を全く知らない高齢者は否定的な人がいるかもしれないが

もちろん 上は 哲学の基本をいったに過ぎず 現実の政治場面においては その具体的構築法は また全く別の話だ
そんな箇所をはき違える人は この話は忘れて欲しい

つまり 世の中 なるようにしかならない 自然の理に立ち向かっても虚しいだけで それなら その自然状態において あたりまえに辿り着いていくであろう 世界観を先に見立て それに準じてマインドを形成したほうが 国全体でみた場合も特だということがいいたいわけだ

まして 日本は八百万の神々の世界の多神教の世界だ 中には "変わり者" もたっくさんいる 例えば 家族は重要で大切にしたいが 一緒にはいたくない とか それは いろんなのがいる

 決してそれは おかしな事でも人間性が欠如しているのでもなく
最初からそうなのである 最初から! 人の意識の最も奥にあるものは 最後には顔をだす その点において全ての性質は平等であり人に危害を加える性質以外は認められるべきものだ

そういった全てを受け入れ 新しい可能性に向かうには 過去をただただ言葉で捉え ありきたりの見かけ上の捉え方でみるのではなく

個人の魂の成長が如何様にしたら 最も成しえるか? そのような視点が重要だ 個人の魂の成長がない環境などさして意味を成さない

ここで超重要なのは この成長という単語である またもこの単語を勝手に解釈してはバカをみる

成長というものさえ! 1魂ごとに完全に違っていてあたりまえだ それはそれぞれの個性がその内面の内奥において感じ取れる内奥からの拡張であり 今までのような成長という意味ではない 従って 人がその成長を判定など決してできるものではない それはその人自身がわかるパラメーターだ

例えば「俺は寝ることだけが好きだ! 一生寝てくらせたらそれ以外必要無し!」と宣言するものにはそうさせるぐらいの甲斐性が必要だ
( (^^)こんなの考えればわかることで そんなバカなことは持続しない いやといってもこの人は何かをやりはじめるだろう )

つまり 今まで世の中のそれこそイルミナティみたいな支配者じゃない人で 事あらば 人の堕落を強調し心配する人は その堕落という概念が、人が人を強制しようとする反動世界に生じてくることを学ぶべきなのだ


つまり 究極的 円の全ての円周であるベースポイントの存在価値が均等に働くことで奇麗な円周を描くことができる

そんな世界には 分裂分派の法則が働くことは決してありえない なぜならその必要など全くないからだ

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