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#RTした人の小説を読みに行く をやってみた【27作目〜32作目】

 Twitterをやめてから気がかりだったのは、多くのひとから後押ししてもらっていたこの企画「#RTした人の小説を読みに行く をやってみた」が継続できないということだった。
 これはもともと、小説読者だけでなく、アマチュアで小説を書いているひとたちにとって「批評」というものが遠い存在、かつ「忌むべき対象」であるかのように扱われているという体感が(ぼく個人には)あって、それに対して一人の文筆家として、作家として、なにかできることはあるんじゃないか? というモチベーションではじめた。
 そして炎上など大きな問題も(いまのところ)なく、たくさんのひとに見守ってもらっていた。なかには飛浩隆さんのような大先輩作家からの応募もあって、個人的にはもっとたくさんの批評をここに残していきたい。

 しかし、この企画には想像以上の体力と精神力がいる。
 そしてぼくが認知されればされるほど、ぼく自身の「自由な読み」が損なわれているような息苦しさもなくはない。「常に監視されている」とまではいかないけれど、それに近い緊張感も実はある。それは「技術的に未熟な作品」を批評対象とするときほど大きくて、個人の純粋な創作への衝動・情念を冷酷に切り捨てることになってしまう危険性が常に隣り合わせにある。
 技術と情熱・切実さはまったく別の問題だ。しかし、批評をおこなうという行為は徹底した「技術」の希求に真価があると思う。批評対象が抱えた情熱・切実さに確固たる実在を与える……というとおこがましいけれど、読ませてもらった作品とともに互いの「強さ」を育んでいきたい。そうおもう。なんとなく。

 今回、Twitterで匿名アカウントを作り、小説の募集をかけた。応募は全部で41作、そのうち短編小説6作品の批評を行った。

【27作目】千代田白緋「嘘つき先輩はサクラを想う」──「ペダントリー」と「アフォリズム」

 恋とはある種の不条理なのかもしれません。とりわけ初恋については、あたかも前もって結果が用意されているのか破局がやくそくされているようで、その不可能性はそうした意味でフィクションたる特殊な想像力を宿しています。本作「嘘つき先輩はサクラを想う」はその不条理ともいえる想像力に抗する物語で、そして同時にその行為じたいが恋になる。読み始めてすぐに、円城塔による恋愛小説「BOY’S SURFACE」が頭をよぎりました。

 これは多分、「僕たちの初恋の物語」。それとも矢張り「初恋の不可能性を巡る物語」。手垢にまみれた表現ながら、あまりにもありふれているためにかえって何かの意味でもっともらしい。何も始まっていない以前から、他の記憶へ手を伸ばすことなく単独でそれらしく響き、当然のように気恥ずかしい。「ぼくたちの初恋の不可能性を巡る物語」と二つをまとめるべきかの判定は、各自にお任せすることにしたい。
––––円城塔「BOY’S SURFACE」

 もちろん、本作と「BOY’S SURFACE」は似ても似つかない作品です。しかしながら両者には一部おなじ問題を抱えていて、作品のオリジナリティはその問題へどの角度から・どの距離から・どのように接近するかによって決定づけられます。
「初恋の不可能性」とはなにか––––本作の大きな課題はこの部分についての思慮が浅いこと、あるいは「初恋の不可能性」が世界の真理として自明なものとして扱うにしてもその特異性を際立たせることに失敗しているということだったように感じます。フィクションとしてもっとも創り込まなければならない部分においてその技巧を使われた形跡がなく、それゆえに過度なご都合主義的なカラーが現れているように思われました。
 一人称の語り手は、ライトノベルでいうところの「やれやれ系主人公」になるかとおもいます。目の前で繰り広げられる物事に対する分析的なまなざしを向け、シニカルなユーモアを交えるこの種の語りでは、2つの感覚が重要です。
 ひとつは「ペダントリー」。たとえばこんな言葉があります。

 偶然というものは存在しない、私たちが偶然と呼んでいるのは因果関係の複雑な仕組みにたいする私たちも無知である。
––––ボルヘス「神曲」(『七つの夜』より)

 ここで重要なのは、おそらくひとの手によって書かれるというのは、ある次元において「ご都合主義」であることを否定できないということです。しかし、それとはまたちがう次元で「リアリティ」という概念もまた存在しえます。ボルヘスが指摘するのは、リアリティとは「筋書きのもっともらしさ」ではなく「物語構造の複雑さ」であるとも解釈できます。ペダントリーとは、その構造設計における意匠です。事象から事象へ飛び移る曲芸的な文章展開によって「語られる世界」は複雑さを増します。もちろん、ペダントリーのみによってこの複雑さはつくられるわけではないですが、分析的な語りによってリアリティを作るならばこの扱いは非常に重要だとおもいます。

 もうひとつが「アフォリズム」。
 ペダントリーによって複雑で巨大なネットワークを作るだけではただ衒学的で、難解な印象だけを与えるだけになってしまう恐れがあります。どこかで「わかりやすさ」を担保する、あるいは「わかった気分にさせる」必要があります。特に、「よくわからなさ」を楽しませたいならば後者の技術は重要です。それについては最初に引用した円城塔も文章を参照すれば、言わんとすることはわかるのではないでしょうか?
ともあれ、アフォリズムは構築物である作品のつなぎ目で「ネジを締める」役割を果たします。

 いまの状態では、リアリティと呼ぶべき作品世界の複雑さを感じることができません。もちろん、それを担保する方法はペダントリーやアフォリズムでなくてもいいし、もっといえば「複雑さ」である必要すらないのかもしれません。ただ、都合が悪くなると数ヶ月とか1年とか適当に時間を飛ばしたりいているように、細部においての「手抜き」が多数みられます。そうした「面倒臭さ」に流されず、ディテールへのこだわりが生まれれば読み応えは大きく変わるのはないか、とおもいました。

【28作目】及川輝新『クラスの女子が、「メシビッチ」だった件。』──「バカ」と「真面目」のバランス

 荒唐無稽な想像をかたちにするコメディ作品は古くからたくさんあり、とりわけSFの分野では「バカSF」という言葉で言及されることもあります。本作『クラスの女子が、「メシビッチ」だった件。』についても、「食物に性的興奮を覚える」というアイデアをかたちにするコメディ作品で、「食べ物に〝食べられる〟」という倒錯による笑いを志向しているとおもいました。
「笑い」についての議論は文芸に限らないさまざまな分野で展開されています。2019年12月には早稲田文学増刊号『「笑い」はどこから来るのか?』が発売され、そこではお笑い芸人、YouTuber、作家、研究者などさまざまな人物による「笑い」の論考が掲載されています。とりわけ、近年はフェミニズムが大きく取り上げられるようになり、笑いにおける「性」の扱いもより深く議論にあがるようにもなりました。個人的には、「笑い」をもたらす普遍的な構造は存在すると同時に、「なにが笑えるか」という構成要素については時代や社会の影響を受け、変わり続けるとおもいます。ひとつのアイデアを「笑い」という表現へと昇華させるなか、作り手自身の想像力の強度をひたすらに高めるだけでなく、動的に変わりゆく外的要素には常に目配せし、客観的にどのように位置付けられるかを精査する必要はあるでしょう。

 本作を読むにあたってキーとなったのは、ヒロインである飯野さんが「食物を食物として(性的な意味で)愛する」のではなく、「食物を人間として(性的な意味で)愛する」ということだとおもいます。飯野さんが「人間を人間として(性的な意味で)愛する」ことができるのかの言及はありませんが、食物を人間としてあ(性的な意味で)愛することができる以上、彼女が人間に(性的な意味で)恋をするのは性的な意味でありえると性的な意味でいうことができます。それは語り手である主人公とのあいだに性的な意味での恋愛が生まれる予感をももたらし、それがラブコメとしての牽引力にもなります。
 しかしながら、彼女にとって食物が「人間」であり、そして食事が「性行為」を意味すると考えると、ぼくにはどうしてもカニバリズムのような暗い性欲を感じてしまいます。これは良い悪いの問題ではなく、エロティシズムに潜んでいる〝はず〟のさまざまな情感が過度に単純化されている点を、どう捉えるかという問題です。「理想化された恋愛」への惑溺(いわゆる「恋に恋する」)、あるいは彼女の性的な快楽への無知による幻想かもしれない。ただ、食による性感の開発には届かないだろう、と感じます。というのも、彼女は食を食として性的に認知しているわけでなく、一度「人間」を経由して快楽を得ているからです。

 本作には「食→擬人化→性的快楽」という構造が根本的に存在していると読みましたが、その独自の因果律を駆動させるにたる物語が、小説として必要だったのではないかと思います。現状では、「食べ物に興奮するおもしろい女の子」という一発ギャグでしかなく、それがもったいないと感じました。

【29作目】稀山美波『幽霊彼女とラストファーストキス』──物語の双極子

 本作の設定は物語装置が多数配置されているという特徴があると思いました。たとえば、もっとも単純なものでいうならばラブストーリー。これには「男↔︎女」という対極に位置する2つのキャラクターが存在し、出会い、衝突し、最終的にあるひとつの状態を目指します。つまり「A↔︎B」という双極子のような存在が、物語を駆動させる装置になる。本作においてそれは、「男↔︎女」「生者↔︎死者」「キスをしたい↔︎キスをしたくない」そして「子ども(の世代)↔︎親(の世代)」というかたちで作品世界を動かしていると感じました。

 物語装置となるこの「双極子」ですが、基本的にこれがうまく噛み合えば「物語が破綻することはない」はずです。起承転結構造はそれだけで勝手に生まれ、勝手に話が進み、勝手に話が決着する。いわば「絶対にスベらない」作戦であると同時に、「ベタで先の展開がすぐわかってしまうお話」に陥りやすいという欠点もあります。それゆえに、この「A↔︎B」とう構造じたいを解体しようとする装置もあります。「男↔︎女」という構造を破壊する装置として、「ゲイ」や「百合」があったり、SFでは性別が可変である世界が描かれたりします。
 物語の基本装置はさまざまにあり、特にエンターテイメント志向が強い作品ではその組み合わせによる世界構築が重要な技巧であると見られます。新規性が高すぎる装置であれば、(かなしいことに作品の良し悪しとは無関係なところで)リーダビリティの確保はかなりむずかしいというのが現実です。

 本作を読んでいて、最初は赤坂アカ『かぐや様は告らせたい』のようなものを想定していました。キスをひとつの論点とし、それに対して真逆の位置から男と女がそれぞれの論理をつくり、実践・攻防するというものです。しかしながら、そうしたものは本作で見られず、印象としては「なんかいきなりテンションあがってキスして〝???〟となった」というのが正直なところです。これは、前述の物語装置である複数の「A↔︎B」を満足に使えていない結果だとおもいました。定型的な物語を破る前に、基本となる物語をまず作れていない、あるいは「物語る体力が育っていない」のかもしれません。

 ネタとしては悪くない、アニメとかで見たらおもしろそうだな、とはおもうのですが、まずは物語の基本構造について面倒臭がらずに丁寧に検討してみてはいかがでしょうか?

【30作目】綾瀬アヤト『最強エルフの女暗殺者は奴隷少女との明日を見る』──「映像的な表現」と「映像を文章にした」のちがい

 どこかの偉い作家かなにかのひととかが「映像的な描写を〜」とかよく言っている気がしないでもないのですが、特になろうやカクヨムなどのネット小説を読んでいると、このことばはあまり良い影響を与えていないのではないか…とさえ思えてきます。躍動感のある描写とか、展開のなめらかさとか、そういうことが意味されたり、あるいはそのように解釈されているのかはさておき、この議論において「映像的な表現」というものに対する考察がじゅうぶんになされていないのではないか、とぼくは危惧しています。

 本作『最強エルフの女暗殺者は奴隷少女との明日を見る』は、ネットで見られるファンタジー小説や学園ラブコメ小説と同様に「アニメ動画を文章にした」というような書かれ方がされていると感じました。重箱の隅をつつくようで気がひけるのですが、あえて本文の文章を参照しながら検討してます。たとえば冒頭。

 金色の髪を夜闇に揺らす女性。
––––綾瀬アヤト『最強エルフの女暗殺者は奴隷少女との明日を見る』

 世界観もわからない物語の第一文でこう書かれると、どうしても「待って、髪が発光しているの?」と思ってしまう。別に夜闇のなかで髪が光っていてもいいのだけれど、そういうふうに読ませたいのではないんじゃないかな、とおもいます。(邪推になり恐縮ですが)おそらく、Fateでもなんでもいいのですが、ファンタジーアニメでよくあるようなワンシーンが頭のなかにあって、それを文章に起こしたようなそういう書き方をしたのではないかとおもえてしまう。もしそうだとしたら、それはぜったいに成功しないと断言できます。
 根本的なものとして、そもそも「映像」と「文章」では表現の次元が違います。その次元の違いを考慮しなければ、映像表現を散文表現に落とし込むことなどできません。このシーンの描写ひとつでも、「金髪」がこれほどに印象的に見えてしまう原因というのが物理的あるいは心象的に存在しているはずであり、そこへのアプローチは映像と文章では同じになりえません。それを、情報の次元が異なる映像表現と同様の見せ方をそのまましようとしても、そもそも存在している「次元の断層」というものは超えられないし、超え要素がない。これをいかに超えるかの試行錯誤が散文表現としてのオリジナリティであり、そこにもっと力を割いて欲しいと、ひとりの小説ファンとしておもいます。

 同様のことは、「」のセリフの扱いにもいえます。

「――はっ……はっ……!」
 路地裏を走る少女。歳の頃は十を超えた頃だろうか? 幼さがありありと残る彼女は息を切らせ必死に駆けていた。
––––綾瀬アヤト『最強エルフの女暗殺者は奴隷少女との明日を見る』

 この一説では、「」のセリフと地の文で「息を切らせて必至に」という形容が完全に重複しています。そしてそれ以上に気をつかってもらいたいのが、音の聞こえ方です。映像ではこのシーンはたしかに登場人物が「」で書かれたような発話を行うでしょう。しかし、小説でそれを「」でそのまま書いてしまうと、そのように書かれた音が前景化しすぎてしまいます。息遣いなどの意味をなさない発声は情景として背景に相当するもので、特別な理由がない限り主役にはなりません。しかし「」でセリフとして処理してしまうと、そのシーンの中心的存在になってしまいます。映像と文章とで情報の次元が異なるゆえに、音の配置の処理方法は変わってきます。本作では一貫して、映像と文章がどのように違うのかが検討されていない表現であふれているため、描写の奥行きともいうべき質感が痩せてしまっているのがもったいないと感じました。
 表現形式が異なれば見せ方は変わる、というよりも、表現形式が異なれば同じ表現などぜったいにできません。しかし、その溝を埋めるための意匠というのは存在していますので、それについて徹底的に考え、この小説を抜本的に改稿して欲しいなとおもいました。読み応えが劇的に変わるとおもいます。

【31作目】花田春菜『僕は僕を君へ届ける』──神なき時代の異類婚姻譚

 意識を電子化し、肉体にとらわれない生が中核に据えられた作品は数多く存在します。たとえばグレッグ・イーガン『ゼンデギ』は本作『僕は僕を君へ届ける』とほぼ同様のアイデアが使用されていて、こちらでは余命宣告を受けた父親が息子のために自身を構成する情報をゲーム内に存在させること(作中では「サイドローディング」と呼ばれる技術)で、死後も息子のために生き続けようとします。そうした題材をあつかうと連鎖的に生じる問題はやはり電脳化以前と以後の自己同一性で、もっとも有名なところでは『攻殻機動隊』の「ゴースト」の問題になるでしょう。また、フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』のように、人間とアンドロイドを区別する指標の有無もまた、アイデンティティの所在として根源的にはおなじ問題を抱えていると思われます。

 人間か、あるいは〝それ以外か〟––––この問題をそのように一般化して捉え直すと、それは神話の時代から反復されてきたものかもしれません。ギリシャ神話でも古事記でもそのほかのさまざまな国での神話や民話の類において、それは異類婚姻譚というかたちで語られ続けてきました。常にそこにあり続けたのは人間と〝それ以外〟の身体的差異に起因する問題です。それは単純な醜美の問題でもあれば、寿命の違いでもあります。そして本作でもこれは後者のかたちで現れていると読みました。
 現代において「人間とロボットの差異」というのはいまや実生活レベルでも「シンギュラリティ」という胡散臭いことばとともに議論されるようになりました。人間と機械の処理能力において、そもそもの特性の違いを加味したうえで、いかに「共生」するかがその主たる議題になっているようにかんじます。身体のちがいは寿命だけでなく思考様式そのもの、そして価値観さえも致命的というレベルで変化を与えうるもので、それにコミットした人間とOSの異類婚姻譚としてスパイク・ジョーンズ監督の映画『her/世界でひとつの彼女』は重要な作品だと言えるかもしれません。

 本作を批評するにあたって重要なのは「現代の異類婚姻譚」としてどのように位置付けられるか、だと思いました。かつては存在の多様なありかたが「神」という存在に大きく依存していたのに対し、技術的な発展を大きく遂げた現代において、「異類」である根拠は自然科学的な現象としてある程度の説明が可能になり、かつそこに現実感すら受け止めやすくなりました。この感想の題として「神なき」ということばを使用したのはその点の指摘のためです。説明不能のものがある程度説明できるようになった時代において、異類婚姻譚としての普遍性は保たれながらも、その問題の具体的な現れ方はより複雑に、より現実的になるでしょう。そうした領域へ踏み込むためには、恋するふたりが「人間」か「それ以外」かという外見的差異よりも先立つ「かたちとして視認できない差異」の徹底したディテールが重要かと思われます。
 この分野はプロアマ問わず多くの作家が手をつけているだけに、「現代の神話」として読みうるものにするための成熟した思考があって欲しいと感じました。

【32作目】あさぎかな『イヒ・リーベディヒ 〜世界を滅ぼした魔王の恋〜』──語りの分離

 ジャンルというのは一種の村みたいなもので、そこの住人にならなければ満足に楽しめないというのはあるとおもいます。それはなにもハイファンタジーや異世界転生などに限らず、十九世紀ロシア文学にしろ、日本近代文学、ラテンアメリカ文学、現代SF、ポストモダン文学にしろなんでも一緒です。読書をじゅうぶんに行うためにはそのための「トレーニング」としての読書が必要で、ぼくにとって本作『イヒ・リーベディヒ 〜世界を滅ぼした魔王の恋〜』のような作品を楽しむには、正直なところまだまだそのトレーニングが足りていないことを自覚しています。

 本作の初読では「24話完結のアニメの最終話だけ観てしまった」というかんじでした。最終決戦と物語の最初の場面が提示され、特に〝異世界〟とされる場所で展開される戦闘は、世界観の体系的な描写や説明が与えられないまま固有名詞が大量に使用されて進んでいきます。
 これによって大きくつまづいてしまったのですが、「ゲームのラスボスにふさわしい」、「テンプレも良いところの」など、このジャンルのセルフパロディをおもわせる記述があり、この場面そのものに作品の核はないのかなと感じていました。しかし、ラストの展開は敵味方両陣営の布陣が大きく変わるため、カタルシスを生むためには緻密な伏線なり世界設計が必要なものに思われます。どこをどこまで「ジャンルあるある」として読めばいいのかわからず、一度作品「ノリ」から振り落とされると復帰するのがたいへん難しい構成になっているかもしれません。

 また、この作品でそれ以上に気になったのが文体です。
 この本作の文章の大きな特徴として、一人称か三人称か判別できないところにあります。文章のほとんどが魔王である主人公の一人語り(一人称)である一方で、魔王になる以前のじぶんについては「和田信也」として三人称で叙述されます。これが意図的に行われているのか、それとも初歩的なミスなのか判別できませんでした。
 実際に、「一人称と三人称が混在する文体」というのは日本の現代文学で多用されていた時期がありました。そしてそうした小説は複数ある世界を「ひとつの魂」とでもいうべき意識によって接続するのに大きな効果をあげることに成功しています。この小説もまた「元の世界」と「異世界」を主人公の意識が横断する構造をとっているため、「魔王であるじぶん」と「和田信也であるじぶん」の分裂と統合に軸を置いた文体作りを意識しているなら合理性があります。ただ、それを無理なく読ませるためには、その語りが成立しうる特殊な空間を散文表現として丁寧に構築する必要があるとおもいました。

 ともあれ、異世界系ファンタジーにしろ、ソード・アート・オンラインのようなゲーム的世界観の作品にしろ、多世界的な世界観を土台とした作品群は、それじたいがひとつのジャンルとみなせるほどの人気があり、大きな市場となっています。その世界構造を受けた新たな表現の誕生を楽しみにしたいとおもいます。

お知らせ

 大阪で作家の澤西祐典さんと「芥川賞受賞予想イベント」をします。

「芥川賞受賞作を予想する。」
出 演:大滝瓶太 × 澤西祐典
日 程:2020年1月11日(土)
時 間:開始/18:00~(開場/17:50)
入場料:500円(税込)
定 員:20名
場所:toi books(大阪府大阪市中央区久太郎町3-1-22 OSKビル2F)
問合せ:mail.to.toibooks@gmail.com
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出演者のプロフィールはこちら

大滝瓶太(おおたき・びんた)
1986年兵庫県生まれ。主にWEBメディアで文芸書評や自然科学コラムを執筆。2018年、「青は藍より藍より青」で第1回阿波しらさぎ文学賞を受賞。同年、たべるのがおそいvol.6(書肆侃侃房)に短編小説「誘い笑い」を発表。著書に『コロニアルタイム』(惑星と口笛ブックス)、『エンドロール』(PAPERPAPER)。
澤西祐典(さわにし・ゆうてん)
1986年生まれ。作家、文学研究者(専門は芥川龍之介)。2011年、「フラミンゴの村」で第35回すばる文学賞を受賞。その他の著書に『雨とカラス』、『文字の消息』、共編訳書『芥川龍之介選 英米怪異・幻想譚』(柴田元幸との共編訳)などがある。龍谷大学国際学部講師。毎年、ゼミで芥川賞予想を行なっている(戦績は2勝2敗)。

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