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城好きの書くことって大体似たような内容になる説:1

前回の続き、史跡や文化財巡りの具体的なお話。

「城跡」「神社仏閣」「遺跡その他」に大きく分けて、少なくとも3回は記事数を稼ごう笑
まあどうせそれぞれに無駄な余談が多くなるだろうから、一つにまとめ切れないのは確か。

子どもの頃から、家族で遊園地やカラオケに行く代わりに、各地の歴史的/文化的なスポットを連れ回されていた。
家族でしょっちゅう観光旅行とかいいじゃん、と思うかもしれないが、実態は日帰りのドライブで、旅行の雰囲気などカケラもない。行った先で美味しい外食をするわけでもなく、明確な目的地が毎回あるわけでもない。田舎道をパンを齧りながら2時間走っておしまい、もザラ。

遊園地やカラオケに行きたかったわけではないが、結果として十代後半になるまで遊園地やカラオケがどのような場所なのか実際に経験しなかった、というのは情操教育偏ってんなと率直に思う。
まあ自分が運転免許を取ってからは、前回書いたように結局自分も全く同じことを続けている。蛙の子は蛙。

コロナ禍とGotoなんちゃらで、世間では現在マイクロツーリズムとやらが流行っているようだが、そんなものウチでは30年前から実践しているというわけだ。

近代以降の普通の公園や自然景勝地もそれなりに行っていたが、やはり大別すると冒頭に挙げた3つ、「城跡」「神社仏閣」「遺跡その他」が圧倒的に多い。

なお神社と寺を一緒くたにするのは個人的にも抵抗があるのだが、それは後の記事で書く予定。

今回は、中でも一番好きな城跡について。

長い端書き

その頃はまあ、前回書いたような理屈をこねなくとも普通に歴史が好きで、鎧兜の戦国武将とかカッケーじゃんというかSD武者ガンダムのガンプラを買い漁っていたので、歴史=戦国時代という認識だった。

まあ戦国武将や戦国時代に興味がなくとも、立派なお城が好きじゃない小学生以下男子もそうはいまい。むしろ年齢とか性別に関わらず、お城に行くとテンション上がるのは全人類共通の価値観じゃないのと思いたくなるが、封建制度や軍事主義を想起させる等、イデオロギーが引っかかる大人もいるかもしれない。

もちろんそんなイデオロギーの存在など知らず、何なら江戸時代の近世城郭と戦国時代の実戦的城塞の区別もついていない僕はテンション上がりっぱなし、正直寺や神社に連れて行かれても「つまんねぇな」と拗ねている、文化観光の点だけで言えば、かなり普通の子どもの反応だったと思う。

関西に住んでいるため、姫路城や大阪城という巨大名城をいつでも気軽に見に行ける環境もよかった。よすぎて贅沢になり、「何で我が町には城がないんだ」とか不平を漏らしたりする(次の記事で書くが、いくらでもあることを後に知る)。
関西には他にも、現存の彦根城を始めとして和歌山城や岸和田城、福知山城など比較的古くから天守閣が再建されている名城が多く、そういうお城然としたお城を日々眺めながら暮らせる町の人は幸福である。

日本の城と聞いて九分九厘の人が想起するのは、この天守閣のあるお城然としたお城で、つまり一般的には「城=天守閣」という認識なのは間違いないと思う。

普通の城好きの子どもだった僕ももちろんそのクチで、天守閣がカッケーから城が好きなんであって、天守閣のない明石城や篠山城に行っても「は?  この城壊れてるやん」と、物足りなさを通り越した理不尽を覚えていた。天守閣のあるなしで「城」と「城跡」に明確な区別があると思っていて、天守閣のない城跡は廃寺のような遺跡扱いしていたのである。
これも結局、「姫路城や大阪城が身近すぎた」弊害の一つであろう。

なので、少し後になって「明石城や篠山城は元々天守閣が建てられなかった城」だと聞いても理解できず、「じゃあどこに住んでたん?」とか
「西南戦争の時、熊本城兵は戦の邪魔になる天守閣を自ら焼いた」に至っては狂気の沙汰、「城って何???」と混迷を深めることになる。

先にちらりと書いたが、江戸期の近世城郭と戦国期の城塞の区別が全くできていないのが原因としてあり、「姫路城のような立派な近世城郭(天守閣)を巡って戦っている、戦国の合戦光景」というのが、子ども向けの絵本やアニメに氾濫していたのが諸悪の根源である。

俺がアホだったんじゃない、社会が間違っている。



近世城郭について

だいぶ物心がついてから、
「今まで自分が血を血で洗う戦国時代の象徴だと思っていた城(天守閣)はほとんど全て、太平の江戸時代に完成した近世城郭である」
「近世城郭は施設機能的には単なる『お役所』であり、やはりそのほとんどが実戦を想定した構造にはなっていない」
「代わりに華美的/権威的な装飾が多くなり、天守閣はその最たるモノで、西南戦争のように実戦を行う時には(熊本城のように実戦的な要塞ですら)無用の長物でしかなくなる」

といったことを理解した時の衝撃は深かった。
僕が好きなのは鎧兜の武将が群雄割拠して合戦を繰り広げる戦国時代であり、チョンマゲに着物一枚とかいう軽装でチャンバラを行う江戸時代ではない。
近世城郭は、いかに圧倒的な存在感や建築美があろうと、所詮「お役所」なのだ。血湧き肉躍る合戦の舞台とは対極の世界である。

まあ、それで近世城郭そのものに対する熱が冷めたわけではない。今までの価値観が覆され(勘違いしていただけだが)、新しい価値観で見るようになった。
今書いた存在感や建築美を改めてそのまま受け止めることや、江戸期自体には興味が薄くとも、「歴史を伝える史跡や文化財」として、極めて保存状態がいい好例としての価値観である。

言ってみれば、今の僕の「伝える歴史ではなく、史跡や文化財そのものを主体とした歴史文化観光」という趣味は、近世城郭に対してこの価値観を持ったことから始まったのである。

それゆえ、その保存状態/形態については、まことに口うるさい。
他の史跡についてもある程度の嗜好の境界は持っているが、近世城郭に限れば、未だに根強くある例の一般的な価値観、「城=天守閣」という認識との兼ね合いが無視できなくなる。

これは記事のタイトルに繋がる論題の一つで、多くの城好きが抱えるジレンマである。
「多くの近世城郭跡に建っている、復元天守や模擬天守をどう扱うか」

普遍的な答えの出ない問題なので、ここでは僕個人の扱い方/主観を、「史跡とは“形態に関わらず”『歴史』を伝えるものである」という定義を論拠の中心に書くことにする。

なお、現存天守については言うまでもなく別格で、ほとんどの城好きの一致するところだと思うが、「城に関係する概念」の中で至高の存在である(「城そのものの至高」としなかった理由は後述)。
「城=天守閣」という一般認識からも、僕の重視する史跡的価値からも、現存する天守閣はこの上ない効果をもたらしている。

世界遺産姫路城を始めとして、現存12天守のうち5棟が国宝建築物に指定されている。
しかし、全国に数百あった近世城郭の中で、僅か12城なのである。規模の大小や歴史の深浅に関わらず、その希少価値のみを持って全て国宝とすべきである(同時に特別史跡にも)。

12城のうち、僕は弘前城にだけ行けていない。死ぬまでには絶対に行かねばならない。



再建天守について

まず、ここで扱う各再建天守の定義を、Wikipediaから抜粋。

・木造復元天守は、文献・絵図・絵画資料・古写真・遺構などを元に当時の工法・構法を用いて忠実に復元したものをいう。

・外観復元天守は、文献・絵図・絵画資料・古写真を元に外観を復元したものをいう。

・復興天守は、天守は過去に存在し、同じ場所に現存する城を参考に、または想像して建てられたものをいう。

・模擬天守は、存在が確認できないまたは、特定に至らない状態で建てられたものをいう。主に以下3種に分類に属するもの。
1.天守は実在したが、異なる場所(城敷地内もしくは常識的な近隣)に再建されたもの。
2.天守台は実在したが、天守が建てられなかった城に建てられたもの。
3.城は実在したが、天守は存在しなかった、もしくは存在したか不明な城に建てられたもの。

1・木造復元天守
大好きである。一次史料としての価値がないだけで、史跡的価値は充分に有している。
天守の再建は全てこうあるべき、むしろまだ再建されていない天守も全て、即刻この形態で復元して欲しいと思っているが、まあ図面等の資料がない城はどうしようもない。
否定派がいるとするなら、天守を再建する行為を全て否定する、「天守が失われたことも『その城の歴史』の一部である以上、ないままで保存するべきである」という原理主義/放任主義的な考えだろうか。
各地の城跡をただ「史跡」としてのみ評価するならその考えも理解できるが、現実には多くの城跡は公共の公園や観光資源となっている。天守再建の目的がそれらの側面の充実であったとしても、「歴史を伝える」史跡としての本質を損なわないのであれば問題ないと僕は考えている。

2・外観復元天守
木造復元天守は非常に数が少ないので、単に「復元天守」とだけ呼ぶ時はこれ。内装や構造まで復元できなかったのは、資料が残っていないという他には建築技術や予算、「資料館にしたいから」などという復元する側の事情がある。
その現代的な都合を優先したことや絶対的に史実と異なることを重く見て、「その城の天守」としてはあまり評価しない人は意外といる印象。
史跡としての本質を損なうものではないので、僕的にはOK。まあ外観以外は史実という形態を採っていないので、史料/史跡的価値は低いが「往時の景観」という視覚情報も「史実」には違いない。それを再現したいという価値観は評価できる。

3・復興天守
上2つの復元天守と厳密に区別されることは少なく、僕自身も外観復元天守との差異はあまり感じていない。
「天守がそこにあった」という史実だけでも再現したい、という価値観は伝わるし、外観すら再現できなかったのは資料がなかっただけで仕方がない、資料があればもちろん外観復元はしていただろうし、という立場。
あまりにも現代的な意匠が目に付いたり、本来の城の規模とは不相応に巨大なものだったりするなら別だが、現在建っている復興天守に、そこまで時代考証から外れたものはない。
何より僕が強調したいのは、Wikipedia引用にある模擬天守1との違い、「天守を建てた場所は動かしていない」という点である。
模擬天守の項で書くが、僕はこの「場所を移してまで再建した」模擬天守を嫌悪していて、それをしていないだけで史跡や城跡としての本質を理解し、保守していると好感が持てるのである。

4・模擬天守
論外である。
と一言で切り捨てて、即刻全て取り壊して欲しい衝動に駆られるが、まあもう少し詳細に書く。
本当に論外なのは3で、これは多くが(ほぼ全てと言っていいと思う)近世城郭ではない戦国時代の山城や小さな砦に無理やり天守閣風建築物をぶっ建てている、町興しである。墨俣一夜城なんかがその代表で、時代考証や史実を伝える云々などと書くのも馬鹿らしい、本当になくなって欲しいもの。
1についても、好きにはなれない。建築場所を移して天守を再建することには、天守の存在を伝える史跡的価値は残っているとは言えるが、それ以前に「城跡」としての本質を失っていると判断する。
何度も書いた「城=天守閣」という一般認識を優先しすぎ、「天守以外も城である」「天守は城の構成物の一つに過ぎない」という原則を蔑ろにしている。
天守を移した場所は本来、その城の他の機能を担当する場所だったはずである。例え単なる庭であったとしても、だ。それを無視して、「どこでもええからとにかく天守閣があればええんやろ」と建てた姿勢には、3に近い嫌悪を感じる。名城として名高い伊賀上野城や最近再建された尼崎城まで、非常に多い模擬天守のケースだが、そこまでして建てなくていい。
2については数が少なく、富山城や郡上八幡城が該当する。天守台だけ造られた城は他にも明石城や福岡城など結構あるが、模擬天守は建てられていない。
そもそも天守がなかったのにわざわざ建てる点では3と同じで、1よりも史跡的価値を貶めてはいるのだが、「時代考証的には矛盾しない(天守があってもおかしくない城)」「城跡としての構造/本質は変化しない」点で、意外と嫌いではない。
史跡が伝える歴史とは、それを史跡として保存し後世に残そうとした人の価値観でもある、と前回書いた。1や3はその価値観が時代考証や史跡本来の目的からかけ離れた独断的な天守だが、2はそれよりは史跡や城跡としての本質を尊重しているものと映っている。



最高の城:近世城郭編

ふう。長い。めちゃくちゃ長い。
本当はこの後、近世城郭ではない戦国期の山城なんかのことも書こうと思っていたのだが、流石に長すぎる。
やはり城は総論的なことでも書きたいことが膨大で、一記事では無茶だった。
近世城郭についてだけまとめ、他はまた記事を分けることにする。

結局、「城=天守閣」という価値観を捨てた僕が、「近世城郭の史跡とは何か」の答えとして見いだしたのは、「城とは縄張りである」ということ。

堀や各郭、櫓等の建造物とその配置がどこまで史実に忠実に現存、あるいは復元されているか、という量的な評価をより重視している。
その上で、前段で書いたように天守閣については質的な評価が付随する。

近年積み直された石垣だろうと、復元された建造物だろうと、それが「その城の往時の縄張り」を再現しようとしているものならば、その価値観に対してほとんど現存に等しい感動を覚えるのである。

天守閣以外の現存する櫓や門を、城内外に移築して保存している例は多いが、上の理由で単純な評価は難しい。
文化財保護の視点からは最大限評価できるが、それを優先して「城跡という史跡の完成度」は下げているためである。

同じように、「天守閣だけは現存だけど他の縄張りの保存/復元にはほとんど無頓着」という城、松本城や犬山城についても「城跡」という視点からはあまり評価していない。いずれも国宝であり、文化財としての最高評価は言うまでもない。
しかし、その感動は極論すれば「国宝建造物の寺のでっかいやつ」を見た時のものと同質であり、「いい城に行ってきたな」という満足は、他の良好に縄張りが保存された城には及ばない。
先に「現存天守なだけで最高の城になるとは限らない」と書いた理由である。質的には最高だが、量的に不満が多いのだ。

では量的にも質的にも最高、良好に縄張りが保存された近世城郭の中での最高峰はどこか、となると、これは当然姫路城……にはならない。

誰もが挙げる城だから奇を衒ったとか、見飽きたとかではない。
単純に、質は同等(現存天守)で、量的に上回っている、縄張りの保存度がより高い城が存在する。


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高知城。
規模は姫路城には及ばないが、全国で唯一、本丸内の建造物が全て現存している近世城郭である。
この点を持って、自問を含めて「最高の城はどこか」と問われた時に、僕は「近世城郭では高知城」と答えるようにしている。

なおこれは言うまでもなく「城跡という史跡」として最高という意味であり、「史跡としてではなく、歴史上存在した日本の近世城郭の中で最高」は、当然別の城になる。

今度こそ当然姫路城……にはならない。
もはや純然たる好みの問題に回帰して、「パッと見て凄い、カッコイイ」と思う城はどこか、という問題ではあるのだが、現存こそしていないが姫路城より凄かった城は結構あるのだ。


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津山城。
何層にも折り重なって聳える石垣群と林立する櫓群が作り出す景観は、もはや圧倒的とか雄大とかでは形容できず、「凄まじい」の一言である。
姫路城によく似た規模の平山城だが、姫路城は山の高さや石垣群の構造に比して天守閣がデカすぎ、全体としてアンバランスな印象を与える。津山城はこの点、見事に均整がとれていて非常に美しい。
これが戦後まで残されていたならば、姫路城を差し置いて世界遺産登録されていたことは間違いなく、ほぼ石垣しか残らなかったのは残念でならない。


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また、これでもまだ実は相対的な評価である。「城=天守閣」を含めた一般的な認識に拠って、「姫路城みたいなお城然とした近世城郭」、要は「姫路城を基準にして」好きな城を挙げている。

絶対的に、城としての形態で一番好きなのは、姫路城のような平山城や平城ではなく、「近世城郭としての」山城である。
標高数百mの山全体に石垣を張り巡らせて要塞化したその威容、その労力への畏敬もさることながら、城が「お役所」と化した近世においても山城であることを捨てず、「城とは何か」の本質を誇示し続けるその価値観にうたれるのである。

それら多くの近世山城は、戦国山城ほどではないが本丸以外の遺構が自然に埋もれ、俯瞰的な縄張りの把握や史跡的価値の維持が難しくなりつつある。
上に再現CGを貼った高取城がその最たる例だろう。一般人が、この壮観を現在の高取城跡から見い出すことは不可能である。

そのため、近世山城の中でも縄張り全体の保存が比較的良好な岩村城や現存天守の備中松山城は、本当に貴重な存在である。

それらの城に登り、山肌を覆う石垣に感銘を覚える時、僕は近世山城とはどのようなものなのかを知ると同時に、それを伝えようとした「史跡として保存した者の意思」により強く触れているのである。

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