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たこ焼きとオバチャン

「たこ焼きとビール、お願いします」

「はい、ありがとうございます。中で食べていきます?」

「はい、食べていきます」

平日の午後、ぽっかり時間が空いたので、散歩に出かけた。駅の近くにあるたこ焼き屋の前を通ると、いつも人が並んでいることが多いのに、そのときは空いていたから、ちょっと寄ることにした。

「お待たせしました~」

「ありがとう」

カウンターでたこ焼きと缶ビールを受け取ると、店の奥にあるイートインスペースへ行き、椅子に腰掛けた。そのスペースには、たこ焼きの容器を2つも置けばいっぱいになるテーブルが4つあり、それぞれのテーブルには木でできたスツールが3~4つある。

私がたこ焼きを食べ始めたとき、そのスペースには私ひとりだった。

プシュッと缶ビールのフタを開け、まずはひとくち。

「ぷは~」

のどを潤してから、割りばしでたこ焼きをつまむ。この店では、たこ焼きにつまようじではなく、割りばしがつくのである。

「アッツ!アツツ!」

外側はそれほど熱そうではなかったのに、中は舌がヤケドしそうなくらい熱かった。あわててビールで口の中を冷やす。それからはたこ焼きをフーフーと冷ましてから食べていた。フーフー、グビグビ、フーフー、グビグビを繰り返す。

しばらくすると、たこ焼き屋の店先がにぎやかになった。学校の授業が終わった学生たちがやってきたのかと思ったが、明らかに声が違う。ダミ声のようだ。

「あら?ここ、店の中で食べていけるの?」

「飲みものとかあるの?」

「たこ焼きだけじゃなくて、たい焼きもあるのよね?」

矢継ぎ早に浴びせられる質問に、店員さんが困った顔で「ちょっと待ってくださいね。おひとりずつお答えしますから」と言っている。

やってきたのは、オバチャンたちであった。60~70代と思しきオバチャンたちが、4人。オバチャンたちは店員さんの話を聞いたのか聞いていないのか、とにかくイートインスペースへやってきて、背負っていたリュックサックをおろし、それを椅子に置いて席を確保した。この時点で、オバチャンたちはまだ、たこ焼きもたい焼きも買ってはいない。

「あ~、アタシはね、たこ焼きじゃなくて、たい焼きがいいなぁ」

「たい焼きもあんこだけじゃないみたいよ。カスタードクリームもあるって」

「ワタシはたこ焼き。マヨネーズ抜きでね」

「ん~、それじゃ、私は……」

てんでバラバラに、自分が食べたいものを言っている。だからといって、誰かが取りまとめるわけでもない。

「ねぇねぇ。じゃあさ、みんなで買いにいきましょうよ」

「そうねぇ。そうしましょう」

オバチャンたちはそれぞれの荷物からお財布を取り出すと、再び店員さんのいる店先へ戻っていった。

私はそのにぎやかさに少々圧倒されながら、静かにビールを飲んだ。

こういうとき、少し前の私なら「うるさいなぁ……」と思うところなのだが、最近の私はちょっと違っている。

つい先日、書店で偶然見かけて買った本のおかげである。

その本は、とある作家さんが書いた「小説の書き方」のような本であった。私は小説を書こうと思ってはいないのだが、原稿用紙のような書影にひかれて、なんとなくその本を手に取ってみたのだった。

その本の一部に、こんなことが書いてあった。

主人公と全く違う人物が登場するから、物語が立体的になる。

これを読んで、私は「へえ~。そういうものなのか~」と思った。言われてみれば、どんなドラマでも映画でも、主人公の他に必ず脇役がいる。敵役だったり、仲間だったり。そして脇役はたいてい、主役と真逆の性格だったり、主役の弱点を補ってくれる役割だったりする。

「自分の人生は、自分が主役」なんてことをよく言われる。そう考えたら、私の人生に登場する “私と全く違う人たち” は、私の人生にとって必要な脇役なんじゃないか。

あの本を読んで以来、そう思うようになった。

私がひとりでたこ焼きを食べながら静かにビールを飲んでいたとき、店に入ってきたオバチャンたちは、複数人のグループで、しかもとてもにぎやかだった。

ひとりが好きな私にとって、明らかに真逆の存在。

けれども、そういう存在がいるからこそ、私の人生は立体的になる。

たこ焼きだって、たこと生地だけでは、たこ焼きらしさが足りない。

ソースやかつお節や青のりやマヨネーズが必要なのである。

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