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ゆず香るおでんと、運命の散歩

人は偶然が重なると、それを「運命」だと思うことがある。

私がその店を見つけたのも、本当に偶然だった。

その日は、打ち合わせのために取引先の会社へ向かったのだが、思ったよりも早く目的地へ着いてしまった。とはいえ、カフェに入ってコーヒーを飲むほどの時間はない。

「さて、どうしよう…」と考えた末に、その会社の周辺をちょっとだけ散歩することにした。取引先が入っているビルは、わりと大きな道路沿いにある。その道を離れ、裏通りへ行ってみる。

「あれ?こんなところに、日本酒のお店があるんだ…」

飲食店が建ち並ぶ繁華街というほどではないが、ぽつりぽつりと店がある。その一角に、白い看板に「酒」と書かれた居酒屋らしき店があった。まだ時間が早いから、営業はしていない。

「よし、あとで寄ってみよう」

そう思ったのには、理由があった。店の前に貼り出してあった料理のメニューが、いかにもおいしそうだったのである。日本酒にもおいしいおつまみにも目がない私は、打ち合わせが終わったら、この店に立ち寄ることを決心した。

「早く来ると、いいことあるなぁ」

まだ、店に入ってもいないのに、その店のメニューがすっかり気に入った私は、偶然の出会いにうれしくなった。

それから1時間半ほど後。無事に仕事を終えて、ウキウキしながらその居酒屋へ入った。

「いらっしゃいませ」

スタッフは男性2人と女性1人。店内はそれほど広くなく、カウンター席から見える厨房から、お出汁のいい香りが漂っている。もう、その香りを嗅いだだけで、「この店、あたり!」と私は思っていた。

日本酒のメニューを見て、1杯目はすっきりと飲みやすそうなタイプのものを頼んだ。さて、おつまみは何にしよう…。

「あ、おでんもあるんだ」

メニューの一番上に「おでん5種盛り」とあり、その下に大根やこんにゃく、玉子、はんぺん、さつま揚げ、ちくわなどの具材が書いてあった。どうやら、この中から5種を選ぶらしい。

「あの~、おでんをお願いします」

「はい、かしこまりました。どれにしましょう?」

男性スタッフが、あまり愛想がいいとは言えない感じで私に尋ねた。そして、カウンターの端っこにあるお鍋のふたを開けた。

それが、おでんの鍋であった。店中に漂っているお出汁の香りは、この鍋が発生源のひとつだった。

「う~ん…。あいにく、はんぺんはまだですねぇ」

菜箸を持ち、具材の様子を見る手つきから察するに、この人が料理人らしい。

「あ、それじゃ、大根とちくわと、こんにゃくと…」

私は、希望の5種を料理人に伝えた。本当は、はんぺんも食べたかったのだけれど。

料理人は片手に和皿を持ち、私の希望を聞きながら、手早く具材を盛り付けていく。5種を盛り付け終えた時、「やった!おいしいおでんを食べられるぞ!」とワクワクしている私をヨソに、料理人は何やら作業を始めた。

な、なんだよ…。煮込んであるから、アツアツをすぐ食べられると思ったのに…。私は内心そう思ったが、その言葉をすぐに打ち消した。

なぜなら、料理人の作業は、煮込んだおでんをさらにおいしく食べるため、仕上げに必要なことだったからである。

料理人は小さなおろし金を手に持つと、おでんが入った和皿の上で、黄色い物体を二、三度こすった。おでんの上には、細かな黄色い粉のようなものが、ぱらりぱらりとふりかけられた。

それは、ゆずの皮であった。

粉のように細かなゆずの皮は、あたたかなおでんの上にふりかけられ、さわやかないい香りを放った。それは、店内に漂うお出汁の香りとマッチして、さらにおいしそうな香りとなった。

「はい、お待たせしました」

「うわ~!いい香り~。最後のひと手間、大事ですね!」

ついさっきまで「早く食べたい」としか思っていなかったクセに、ゆずの香りを嗅いだ途端、私は感激して料理人にそう言った。料理人はぼそりと「あ、そうですね」と言っただけだった。彼にとっては、仕上げのゆずのひと手間は当たり前のことなのだろう。

ゆずの香りで仕上げられたおでんは、もちろん、どの具材もおいしかった。とりわけ、丁寧に面取りされた大根はとてもやわらかく煮込まれており、箸を入れると、力を入れずともフッと切れるほどだった。

「ああ~、おいしかった!また来ようっと」

またひとつ、お気に入りの店が増えた私は、大満足でその店を後にした。

“あの日、あの時、あの場所で、キミに会えなかったら”

とは、有名なシンガーソングライターの歌の一節だ。その日、打ち合わせのために取引先へ来ていなかったら、そして、少し早めに着いて散歩をしていなかったら、この店に出会うことはなかったかもしれない。

そう思うと、あの散歩は「運命の散歩」だったといえなくもないのである。


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