この一枚 #23 『Phoebe Snow』 フィービ・スノウ (1974)
4オクターブの声域を持つと言われていたフィービ・スノウ。合わせて卓越したソングライティングやギターの才能を持つ孤高の存在。ブルース、フォークさらにはジャズやゴスペルのフィーリングを合わせ持つジャンルレスな歌姫。ヒット曲Poetry Manも含むデビューアルバムにして、唯一無二の名盤『Phoebe Snow』を深堀りしつつ、彼女の人生に想いを寄せます。
ベルリンで見つけた「詞華集」
2週間ほど海外に出掛けていてこの連載も更新が途絶えました。
ヨーロッパの2カ国を訪問したのですが、スイスからドイツのベルリンに入りました。
ベルリンのRecord Store Berlinというレコードショップで見つけたのが、このアナログでした。
「詞華集」という邦題が名付けられた1978年に発売されたフィービ・スノウ(Phoebe Snow)の5作目「Against the Grain」。日本では中々見つけられない貴重なこのアナログを即断で購入したのでした。
1974年ピーターバラカン氏、初来日の思い出
そして帰国した翌日に放送されたピーター・バラカン氏の担当番組NHK-FM「Weekend Sunshine」は1974年の音楽特集でした。
バリー・ホワイトの愛のテーマがオープニングを飾ると、その後は
Sweet Home Alabama / Lynyrd Skynyrd 、Rikki Don't Lose That Number / Steely Dan、Whatever Gets You Through The Night / John Lennon、Band On The Run / Paul McCartney & Wings 、Forever Young / Bob Dylan、Black Water / Doobie Brothers 、The Best Of My Love / Eagles 、 Help Me / Joni Mitchell、Before The Deluge / Jackson Browneと立て続けに、自分好みの懐かしい曲が流れました。
1974年と言うと自分が洋楽に接し始めた頃で、ジョンやポールの元ビートルズが元気で、またアメリカンロックの隆盛期でもありました。
イーグルスやドゥービーが初の全米1位を飾ったのも1974年です。
その後、ゲストを迎えたコーナーではバラカン氏より、1974年に彼が初来日をした時の思い出が語られます。
「74年7月1日、初めて東京に降り立った僕は、その足で新しい仕事場である音楽出版社に向かいました。そして用意されたデスクに着くと、たまたまそのデスクの上に未開封のまま置かれていたのが、このレコードでした。」
それはその日に発売されたフィービ・スノウのデビュー作『Phoebe Snow』 と明かされます。
サム・クックのカバー
番組ではここで本作のオープニングGood Timesがかかりました。これはサム・クックのカバーです。いきなりスノウのギターが鳴り響く、レイドバックしたブルースナンバーへと変貌しています。黒人アカペラグループのPersuasions (パースエイジョンズ)のコーラスが加わりゴスペルテイストも加味されます。彼らは後にジョニ・ミッチェルの「Shadows and Light」にも参加して知られます。
フィービ・スノウが続くなあと感じつつ、今回はこの『Phoebe Snow』を紹介することにしました。
邦題は『サンフランシスコ・ベイ・ブルース』と付けられたこのアルバムは、1974年7月にリリースされたものです。
シェルター・レコードとの契約
バラカン氏も話していましたが、彼女をアフロヘアのルックスからブラックと勘違いする人が多いようですが、ユダヤ人で1950年のニューヨーク生まれです。(ユダヤと黒人のハーフという説もあり)
そして本作をリリースしたのが、シェルター・レコードでした。
シェルター・レコードと言うとレオン・ラッセルですが、クラブで演奏していたスノウを共同で運営するデニー・コーデルが見出したのでした。
コーデルはレオンとシェルターを設立し、レオンの他に、JJケイル、トム・ペティなどと契約していました。
本作は当初シェルターのディノ・アイラリという人がプロデューサーとなります。ナッシュビル、LA、そしてタルサとスタジオを転々と移動しますが、上手く録音をこなせず、フィル・ラモーンが共同プロデュース、エンジニアとして途中から助力し、ラモーン所有のNYのA&Rレコーディングで録音し、1年以上の制作期間をかけて世に出されます。
なお、ラモーンは翌年ポール・サイモンの「時の流れに」でグラミーの最優秀アルバム賞を獲得するのですから、やはりその手腕が本作を名作たらしめたと考えます。
Poetry Manの大ヒット
本作は全米アルバムチャートのトップ4に到達しミリオンセラーになります。また自ら作曲したPoetry Manも最高5位のヒットとなり、グラミー賞の最優秀新人賞ノミネートされたのです。
5年後にグラミー賞の最優秀新人賞を獲得し、チャート4位となったリッキー・リー・ジョーンズのChuck E.'s in Loveを思い起こさせ、さらにデビュー作でグラミーを獲得したノラ・ジョーンズの「Come away with me」まで繋がる共通項を感じるのです。
レコードでは、ズート・シムズがサックス 、ボブ・ジェームズがオルガンを担当しています。大物ジャズ・ミュージシャンのシムズの招聘などは、ラモーンの功績でしょうか。
またラモーンがパーカッションの名手ラルフ・マクドナルドを招聘し、録音に際し多くのアイデアを提供、見事な効果音を提供したことをラモーンの助手が語っています。
フォークをベースにジャズのテイストをまぶした浮遊感のあるサウンドはデヴィッド・クロスビーのDéjà Vuを想起させつつ、ブルースやゴスペルと言ったブラックミュージックの香りも感じさせるのがさらに個性的です。
ジャズやブルースの大物の参加
Either or Both(A-4)も自作です。ルックス的にはソウルシンガー然としていますが、2曲以外はオリジナルで、実は優れたソングライターだったことに気づきます。加えて、ボニー・レイットのようにギターの名手でもあり、マルチな才能の持ち主でした。
この曲ではスノウのポーカルに寄り添う名手デヴィッド・ブロムバーグ(David Bromberg)のドブロ&ギター・プレイが効果的です。
本作のもう一つのカバーがSan Francisco Bay Blues(A-5)です。ビル・エヴァンス・トリオに在籍したチャック・イスラエルのウッドベースとスノウのギターだけと言う演奏が彼女の歌唱力を引き立てます。
Harpo's Blues(A-2)では、ジャズピアニストのテディ・ウィルソンが高級感ある見事なプレイを聴かせます。ウィルソン、シムズ、イスラエルなどポップスのレコードには参加することがない、本格的なジャズ・ミュージシャンの演奏とスノウの唯一無二の節回しのブレンドは絶妙です。
時代を先取りした独自のサウンド
A面がどちらかと言うと、ゴスペルやブルースなど多彩でレイドバックして展開するのに比して、B面は時代を先取りしたようなジャズへのアプローチが独自で新鮮です。
1974年と言うと、西海岸ではジョニが「Court and Spark」をラリー・カールトンやジョー・サンプルと言った後のフュージョンの精鋭を起用して完成させます。
対して東海岸でスノウが目指したのは、それよりジャズに寄ったサウンド。AOR元年の1976年よりいち早くこのサウンドを独自に完成させた先見性は凄いです。
I Don't Want The Night To End(B-1)は、AOR的に類型化する以前、ジャズとポップスの境界線上を行き来している素晴らしい楽曲。
この年にCTIに移籍しての初のソロアルバムを出したボブ・ジェームスがメロトロンを弦楽器のように絶妙に聴かせます。ラモーンとジェームスはこの後1977年ケニー・ロギンスの「未来への誓い」で共同プロデューサーとしてタッグを組むのです。
ベッド・ミドラーがカバー。
Take Your Children Home(B-2)でのラルフ・マクドナルドのコンガはラテンな雰囲気を醸し出し、マーガレット・ロスという女性ジャズハーピストの演奏の音色も効果的です。
It Must Be Sunday(B-3)にもまたボブ・ジェームスとズート・シムズの絶妙な演奏。そして、ウッドベースは後にジョニの「逃避行」にも参加するチャック・ドマニコが参加。
フュージョンやAORがジャンル化する以前に、ジャズに寄った独自のサウンドを作り上げたスノウとラモーンら制作陣の創造性には目を見張ります。
スノウは、ジョニ・ミッチェルの音楽、メロディーにそして『Blue』に感銘したと語ります。また、ニール・ヤングの歌い方と奇妙なコード進行に影響を受け、Don't Let It Bring You Downがお気に入りと言います。そしてライ・クーダーを史上最高のブルース・スライド・ギタリストとしてリスペクトしています。
一方でスライ・ストーンの『Fresh』をお気に入りのアルバムとするなど、ジャンルを超越した影響が見て取れます。
ポール・サイモンとスノウ
本作リリース後にスノウはシェルター・レコードと契約でもめて、コロムビア・レコードに移籍します。(レオンとコーデルは1976年仲違いし、レオンはシェルターを離脱し81年にレーベルは消滅する)
翌年1975年ポール・サイモンの『時の流れに』からの先行シングルとして発売されたGone at Lastにゲストボーカルで参加。当初ベッド・ミラーの予定でしたがキャンセルとなり、プロデューサーのフィル・ラモーンの推薦でスノウが選ばれます。録音にはリチャード・ティーやゴードン・エドワーズが参加。またサイモンのツアーにも同行してオープニングアクトも務め、スノウは名声を高めます。
2作目「Second Childhood」はフィル・ラモーンのプロデュースで制作され、1976年にリリース。チャート13位まで到達し、ゴールドディスクとなります。
リチャード・ティー、ジョン・トロペイ、ロン・カーター 、ウィル・リー、 ゴードン・エドワード、 ラルフ・マクドナルド 、デイヴィッド・サンボーン と前作の成功を受けて豪華な演奏陣が参加。
Two Fisted Loveにはスティーヴ・ガッド、トニー・レヴィン、ヒュー・マクラッケンが参加しています。
しかし、その後はヒットに恵まれず、アルバムのセールスも下降します。
予算が増えて著名なスタジオ・ミュージシャンが参加することで、逆にデビュー作にあった唯一無二の個性が減じられた気もします。
もう一つの理由として、『Phoebe Snow』発売後に生まれた長女に先天的な障害があり、その養育を第一義に考えたため、音楽活動がセーブされたとも伝わります。
Against the Grain
1978年にリリースされたバリー・ベケットがプロデュースした5作目「Against the Grain」を最後にスノウはコロムビアを離れます。
冒頭で紹介した邦題「詞華集」ですね。
ベケットと言うと、アラバマのマッスルショールズサウンドスタジオのリズムセクションのメンバーとして知られており、NY拠点のスノウが南部的なアプローチをした異色作です。
ダン・ペンのDo Right Woman, Do Right Manなどは南部のベケットらしい選曲といえます。
この作品にはポール・マッカートニーの秀逸なカバーEvery Nightが収録され、イギリスでは37位に到達するヒットとなります。ベケットのピアノにウィル・リーがベース、リック・マロッタがドラム、スティーブ・カーンがギターと言う強力な布陣です。
ポールの曲の中でもベストに近いくらい好きなので、本人のライブも貼っておきます。オリジナルはソロ一作目「McCartney」に収録されてます。
デイブ・メイスン、マイケル・マクドナルドとの親交
スノウはリンダ・ロンシュタットとは仲良しで、 サタデー・ナイト・ライブで何度か共演しています。これは1979 年のライブ映像です。
ラモーンがプロデュースしたビリー・ジョエルの「The Stranger」(1977年)の録音にも2人は立ち合い、スノウはゲスト参加しています。
アルバム『Phoebe Snow』はSpotifyやApple Musicでは聴けず、You Tubeで聴くしかないのですが、ラストのNo Show Tonightだけは見つけられませんでした。この曲にはデイブ・メイスンが参加していただけに残念。
そして1988年、デイヴ・メイスンとデュエットした Dreams I Dreamがリリースされスマッシュヒットとなるので、2人は個人的に親交があったのかもしれません。
彼女の名前を久々に聞いたのは、1992年ドナルド・フェイゲンが主催した『The New York Rock and Soul Revue: Live at the Beacon』でした。フェイゲンの妻となるリビー・タイタス主催のプロジェクトに、フェイゲン、マイケル・マクドナルド、ボズ・スキャッグスなどと共にスノウも参加したのです。
1998年には『I Can't Complain』をリリース。Rock and Soul Revueでの共演仲間であるマイケル・マクドナルドがゲストボーカルで参加しています。
娘ヴァレリー・ローズへの愛
スノウは2007年3月に障害を持つ娘ヴァレリー・ローズが31歳で亡くなるまで、自宅で養育を続けました。
そして娘の死後数年経過し、フィービ・スノウは2011年4月26日、脳出血が原因となり、ニュージャージー州で60歳で亡くなります。
彼女の養育を優先したため、スノウの音楽活動や人生が不本意なものになったという説明が一般的だが、それは一面的なものです。
「彼女は私の人生の光です」とスノウは語り、「人生でこんなに恋をした人はいません。彼女は素晴らしい。医者も彼女の進歩を信じられないのです。ヴァレリー・ローズのような他の子供たちと一緒にいることで、私は立ち直ることができました。親と障害のある子供の間の愛ほど真実の愛はこの世にありません。彼らは愛以外何も求めません。それは最も完璧な形の愛です。」と語りました。
彼女の選択は母親としては最高に美しいもので、賛辞に値します。
1977年発売の4枚目「Never Letting Go」のタイトル曲は和訳すると「決して手放さない」となります。本人の曲でなくスティーブン・ビショップの曲で、ピアノはボブ・ジェームス、サックスソロはフィル・ウッズ。
娘への想いが伝わる美しい曲です。
この作詞をしたスティーブン・ビショップは今年のスノウの命日に、以下のようにTweetをしています。
「13 年前に亡くなった親友フィービ・スノウを偲んで。この写真は、フィービが娘と夫と一緒に私の家に遊びに来たときに撮ったものです。彼らはいつもとても親切で、一緒にいて楽しい人たちでした。70 年代と80 年代の私たちの音楽コラボレーションは今でも大切にしています。私の曲Never Letting Goを録音し、彼女の 4 枚目のアルバムにその曲のタイトルをつけてくれたことに、心から感謝しています。フィービーは心優しい人で、比類のない才能の持ち主でした。彼女の死を深く惜しんでいます。」
Phoebe Snow will live in our heart forever
フィービ・スノウを振り返るプレイリスト
彼女のベスト、そしてポール・サイモン、ジャニス・イアン、デイブ・メイスンやマイケル・マクドナルド等とのコラボ曲、ローラ・ニーロへのトリビュート集への参加など自作以外も集めました。
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