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名盤と人 第26回 ボウイの挑戦『Young Americans』デビッド・ボウイ

常に挑戦を繰り返してきたデビッド・ボウイにとっても、ソウルへの挑戦は大きな賭けだった。1975年にリリースされた 『ヤング・アメリカンズ』だが、1974年に録音した幻のアルバム『The Gouster』をお蔵入にしてまで、変更して仕上げていた。『The Gouster』にはなかったジョン・レノンとの共作Fameを収録して、仕上げたのが 『ヤング・アメリカンズ』だった。

デビッド・ボウイ
の初となる公式認定ドキュメンタリー「Moonage Daydream」(デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム)が公開されるタイミングで、自分の好きな彼のアルバムを深掘りしてみた。

YMOとボウイ

自分は高校生の頃はアメリカン・ロック一筋で、デビッド・ボウイ(David Bowie)をしっかりと聴いたことはなかった。
そもそもが男性が化粧をしている姿に、拒否反応があったのも事実。
だが、YMO の出現によって見方が一変した。
大学に入りYMOにハマると音楽の趣味が一変する。
1980年12月のYMO武道館ライブは抽選でチケットを手に入れて観たし、彼らの有りとあらゆる情報を集めていた。

2年後の1983年5月には「戦メリ」(戦場のメリークリスマス)が公開。
ここでボウイと坂本龍一が共演し、両者の距離が近づく。
そして、このタイミングで同年10月にボウイが来日。
日本武道館で4日間の公演が決まる。

さらに武道館から、横浜、名古屋、大阪、京都で全国10公演が行われた。
テレビ朝日では『独占!!デヴィッド・ボウイ来日あの「戦メリ」から「チャイナガール」まで』と題した一時間の特別番組も放映されている。
大島渚、映画で共演したビートたけし坂本龍一と再会し、トークを繰り広げた。YMOの高橋幸宏細野晴臣も登場した。

シリアスムーンライトツアー(SeriousMoonlightTour)と称した、当時人気絶頂だったデヴィッドボウイのチケットは争奪戦となり、友人と手分けして整理券の獲得に奔走。
新宿住友ビルに数時間並んでやっと獲得できたのであった。

同年83年の2月にはロキシー・ミュージックが来日。
同年6月にはカルチャー・クラブも初来日。
次々とボウイ的なミュージシャンが来日し、自分もLiveを観ることになる。

この流れをメジャーに拡大したのが、1983年4月発売のボウイの『レッツダンス』(Let's Dance)だった。
このアルバムではChicナイル・ロジャースNile Rodgers)にプロデュースを依頼、シングルのLet's Danceは全米一位となり、LPも全世界で1000万枚のセールスを記録した。
従来のイメージをボウイが打ち破った挑戦的な作品であり、ファン層を拡大しつつも信者からは迎合と非難もされた。

ナイル・ロジャース、Chicトニー・トンプソン、後にChicに入るオマー・ハキムなどファンクの達人達、そして当時は無名だったスティーヴィー・レイ・ヴォーンを抜擢するなど、斬新な人選が際立った。

ボウイは何年かに数回、突然変異のように路線変更し未知の領域に挑戦し、ブレイクスルーを果たしている。

そして「レッツ・ダンス」の源流を辿ると、同様に黒人音楽に接近し、新鮮な顔ぶれのミュージシャン達を抜擢した1975年3月発売の『ヤング・アメリカンズ』(YoungAmericans)の存在が浮かび上がる。

YoungAmericans

このアルバムからシングルカットされたFameは、Let's Danceより以前にボウイに初の全米1位をもたらした記念的な楽曲でもあった。
(生涯ボウイの全米一位はこの2曲である)

プラスティック・ソウル

ヤング・アメリカンズの成り立ち

1974年4月にアメリカに上陸したダイアモンドドッグズ・ツアーを7月にいったん休止すると、ボウイはアメリカのソウルやディスコに傾倒して行く。ライブでもエディ・フロイドのスタックス・ソウルKnock on Woodをカバーし、ソウル志向は露わになっていた。

特に気に入ったのがフィラデルフィアフィリーソウルと呼ばれるサウンドだ。これらはプロダクション・チームの「ギャンブル&ハフ」が設立したシグマサウンドスタジオで録音されており、ツアーを休止した彼は8月11日からここで録音を始めた。

ボウイはイギリス人で白人の自分がアメリカのソウルに挑戦するのに、「プラスティック・ソウル」というコンセプトを打ち出す。
プラスティックは「見せかけの」という意味も持ち、また自由に変形するという意味もある。ボウイは自らのサウンドを敢えて自虐的に「プラスティック・ソウル(見せかけのソウル)」と呼んだのである。
アルバムを録音してから再開したツアーの名前も「ダイヤモンド・ドッグズ・ツアー」から、9月からは「フィリー・ドッグズ・ツアー」に変わってしまう。

自力で発掘したソウル系ミュージシャン

基本的にボウイはミック・ロンソンのように気心の知れたミュージシャンを継続的に起用するが、挑戦と変革が必要な時は初顔の人材を登用する。
ヤング・アメリカンズ』のオープニングを飾るタイトル曲(A-1)は、その初顔のドラマーのアンディ・ニューマークが叩くイントロで始まる。ソウルとファンク、ディスコミュージックを一体化させたこの曲を、華々しくスタートさせた。

ドラマーのアンディ・ニューマークと黒人ベーシストのウィリー・ウィークスは、当時ジョージ・ハリスンロン・ウッドなどのアルバムに起用され始めた新進のリズム隊コンビ。
サックスには売れっ子となる前のデイヴィッド・サンボーン、まだ無名だったルーサーヴァンドロスがコーラスで参加している。
ギターはジェームス・ブラウンのバックにいたプエルトリコ出身のカルロス・アロマー。
当初はシグマ・サウンド・スタジオで演奏するミュージシャン軍団MFSBの起用を試みたが断念し、自力で探したソウルやR&Bに強い人材を登用した

初顔合わせとなった彼等の演奏がアルバムの方向性を決定する。

辣腕ミュージシャンによる本格的ソウルサウンド

強力リズムセクションの発掘

さてボウイは彼らをどのように起用したのか?

話は前年1974年に録音されたストーンズのIt's Only Rock'n Roll (But I Like It)に遡る。
当時フェイセズのギタリストだったロン・ウッドはソロ・アルバム『I've Got My Own Album to Do俺と仲間)』をロンの自宅で録音していた。
そのデモ録音にミック・ジャガーが2曲に参加。一つは俺の炎 (I Can Feel the Fire)としてロンのソロに収録されたが、もう一つのデモがIt's Only Rock'n Rollの原曲になったと言われている。
そのデモにはロンにミック・ジャガー、ケニー・ジョーンズ(ドラム)そしてウィリー・ウィークス(ベース)、さらにデヴィッド・ボウイもバックボーカルで参加していた。

それをミックとキースが持ち帰って自分たちのヴォーカルとギターをダビングし、It's Only Rock'n Roll (But I Like It)として同名のアルバムに収録した。(そのため本曲にはワッツ、ワイマン、テイラーは参加していない)

その録音で出会ったウィークスに目を付けたボウイは、同年のシグマでの録音に彼を起用したのだろう。

Willie Weeks(ウィリー・ウィークス)は、ダニー・ハサウェイのレギュラー・バンドに参加し、ハサウェイのアルバム『ライヴ』(1972年)に収録された「Voices Inside (Everything is Everything)」でのベース・ソロで注目される。

そしてスティーヴィー・ワンダー『Innervisions』(1973年)、アレサ・フランクリン『輝く愛の世界』(1974年)と黒人ソウルミュージシャンとの仕事が続く。
が、ロン・ウッドの「俺と仲間」に参加すると、その後は白人系のロックミュージシャンの作品への参加が相次ぐ。
俺と仲間」では自作曲Crotch Musicまで提供して貢献している。

この録音時にボウイと出会うと共に、今後長らくコンビを組むアンディ・ニューマークともプレイを共にしている。

2人はその後、74年に発売されるジョージ・ハリスンの「ダークホース」に参加しツアーにも同行する。

ドラムのAndy Newmark(アンディ・ニューマーク)はカーリー・サイモンのバンドに参加、その演奏力を観たスライ・ストーンスライ&ザ・ファミリー・ストーンに勧誘し1973年の『Fresh』から参加する。白人ながら最高峰のファンクバンドでの、黒人ミュージシャンに混じっての演奏は高く評価された。ボウイは録音後のツアーにはやはり元スライでニューマークの前任者のグレッグ・エリコをドラムに起用しているので、スライ的なファンクサウンドも研究していたのだろう。

そしてロンのアルバムで出会ったウィリー・ウィークスとのリズムセクションは、ロック界から依頼が殺到する売れっ子コンビとなった。
彼らは特に黒人的なリズムのエッセンスを欲したイギリスのロックミュージシャンからの引き合いが多く、ロンジョージロッド・スチュワート、そしてデヴィッド・ボウイのこの作品への参加により名声を確立するのだ。

ルーサ・ヴァンドロスとデイヴィッド・サンボーン

R&B歌手のルーサ・ヴァンドロスは学生時代にギタリストのカルロスアロマーと、シェイズ・オブ・ジェイドなるグループを組んでいた。
デヴィッド・ボウイのギタリストとして本作より参加していたアロマーが、旧友のヴァンドロスをスタジオに呼び、ボウイに会わせたのだった。
ボウイはヴァンドロスを気に入り、コーラスとして参加させたほか、ヴォーカル・アレンジまで担当させた。
アルバム収録曲のFascination(A-3)はヴァンドロスとボウイの共作で、翌年、ヴァンドロスのデビューアルバムに収められるFunkyMusicにボウイが作詞したものだった。
ウィークスのワウ・ベースとサンボーンの強力なサックスソロが強烈に響くヘヴィなファンクチューンだ。
ヴァンドロスは90年代にブレイクを果たすのだが、それまでは下積みも長く、この時点で彼の才能を見抜いたボウイの慧眼に驚く。

フュージョンのイメージが強いデイヴィッドサンボーンDavid Sanborn)だが、当初はポール・バターフィールド・ブルース・バンドにいた。
サンボーンの伸びやかなサックスが気持ち良いRight(A-4)のビデオでは、シグマスタジオの内部も垣間見える。

サンボーンはレコードのみならずツアーメンバーとしても起用され、その後1975年の「Taking Off」でソロデビューを果たす。
「THE DICK CAVETT SHOW」の映像では、サンボーンヴァンドロス、カルロス・アルマーの姿も確認できる。

当時のパートナーでコーラスも務めたアヴァ・チェリー(Ava Cherry)は「デヴィッドは最高の人たちに囲まれていた。ルーサー・ヴァンドロスは、サウンドに多くの風味を加えてくれた。デヴィッドサンボーンも当時のスーパースターの一人で、超一流のプレイをした」と証言している。

ジョン・レノンとの共演

当初ボウイはシグマ・サウンド・スタジオで録音されたマテリアルでアルバムを完成させようと試みたが諦め、1975年に入って今度はニューヨークで新たなセッションが持たれている。
ジョン・レノンの参加を予期するように、タイトル曲ではA Day In The Lifeの一節が歌い込まれているが、1975年1月NYで2人は共演を果たす。
エレクトリック・レディ・スタジオで、ボウイはジョン・レノンと共にAcrossthe UniverseFameの2曲をレコーディングしたのだ。
ジョンは1974年11月にはエルトン・ジョンのMSGライブに飛び入りするなどエルトンとの交友を深めていたが、それに続く大物とのコラボだった。
この頃ジョンとヨーコはよりを戻し、ニューヨークに居住していた。
ボウイはレコーディングにジョンを呼び、ジョンはギターを演奏しAcross the Universeを録音する。
その頃ボウイはFlaresのFoot Stompingのカバーから、曲を発展させて曲に仕上げようと苦戦していた。
その曲のリフを聴かせると、ジョンが「Fame!」と叫び、ボウイはこの言葉に刺激され、詞を書き上げFameを完成したと言う逸話もある。
ボウイはインスピレーションをくれたジョンに感謝し、ボウイ&レノン&アロマーの3人の作としてクレジットしたとのこと。
レコーディングにもジョンはコーラスとギターで参加している。
FameはこのLPからの第2弾シングルとして発売され、初の全米一位をボウイにもたらすのだ。

カルロス・アロマーとボウイ

この成功を受けて、ボウイは75年11月黒人向け音楽テレビ番組「ソウル・トレイン」に出演した。

そして、その翌月にジェームス・ブラウンがリリースしたシングル「Hot (I Need To Be Loved, Loved, Loved, Loved)」は、あきらかにFameをパクった曲だった。ギタリストのカルロス・アロマーは訴えるべきだと怒ったが、ボウイは気にしなかった。「プラスティック・ソウル」と自虐的に名付けたものが、ファンクの本物にマネされるという皮肉に内心ほくそ笑んだのかもしれない。

以前はジェームス・ブラウンのバックでギターを務めていたカルロス・アロマーとしては怒るも当然かもしれない。
Carlos Alomar(カルロス・アロマー)は本作を皮切りに、その後もボウイと仕事をし続け、ベルリン3部作から2000年代初期のアルバムまで、30年ほどボウイの音楽人脈に欠かせない盟友の1人となる。
アロマーはFameのリフを作りジョンと共に共作者としてクレジットされた。さらにヴァンドロスを紹介し、ジョンとのセッションではロイ・エアーズのバンドで共演していたドラムのデニス・デイヴィスを斡旋するなどの大きな貢献をし、信頼を勝ち得たのだ。

ソウル、そしてジャズへの挑戦

実はGOUSTERだったヤング・アメリカンズ

当初本作はフィラデルフィアのシグマ・サウンド・スタジオでレコーディングされたトラックだけで、『The Gouster(意味:街の洒落た黒人男性)』と言うタイトルでリリース予定だった。
しかし、ジョンとNYで録音された2曲が追加されて最終的にアルバム『Young Americans』に生まれ変わり1975年にリリースされたのである。それもあり、この2曲は話題性はありながらどこか浮いた感じになっている。

ボウイの死後2016年にBOXセットの一部で、リリースされた『The Gouster』と「Young Americans」を比べると曲目の違いが意外とあった。

Young Americans
Side-A
1.Young Americans
2.Win
3.Fascination
4.Right
Side-B
1.Somebody Up There Likes Me
2.Across The Universe
3.Can You Hear Me
4.Fame

The Gouster
Side-A
1.John, I’m Only Dancing (Again)
2.Somebody Up There Likes Me
3.It’s Gonna Be Me
Side-B
1.Who Can I Be Now?
2.Can You Hear Me
3.Young Americans
4.Right

1972年にリリースされたJohn, I’m Only DancingJohn, I’m Only Dancing (Again)として再演して録音されファンキーソウルに仕上がったが、結局はFameが採用され外された。

そして「Young Americans」ではIt’s Gonna Be MeWho Can I Be Now?が外されて、WinFascinationが加わる。

また2016年版にはRightCan You Hear Me、そしてSomebody Up There Likes Meの未発表ミックスが収録されていたが、よりソウル的なアプローチなサウンドに仕上がっていた。

シグマでの録音後のThe Philly Dogs Tour からのCan You Hear Meの貴重な映像。

プロデューサーのトニー・ヴィスコンティはライナーノーツにて、このタイトルについて次のように解説している。
 「“Gouster(ガウスター)”は私には馴染みのない言葉だったが、デヴィッドはそれが60年代シカゴのアフリカ系アメリカ人のティーンたちが使っていたドレスコードの1種だと知っていた。だが、このアルバムではアティテュードとして、プライドやオシャレへの考え方としての意味合いを持っているんだ。我々はこのアティテュードを描くアルバム用に選んだ全曲を気に入り、レコーディングしたのさ」
 「デヴィッドは私と同じく、長い間ソウルに夢中だった。2人ともテレビ番組『ソウル・トレイン』のファンだったよ。我々は“若くて才能ある黒人”ではなかったが、何としても飛びっきりのソウル・アルバムを作りたかった。」

Fameは名曲だが、インパクトが大き過ぎて他を打ち消してしまう。NY録音の2曲がないGousterの方がボウイのアルバムというこだわりを抜けば、ブルーアイドソウルの名盤としてはまとまりが良い。
シグマ録音のみの選曲でプレイリストを作成したが、トータル的な音のまとまりとソウル感覚が素晴らしい作品となっただろうと想像される。

ボウイもそれがわかっていても、全米制覇という目標のためジョン・レノンという玉と劇薬的なFameを選び、まんまと成功したとも言える。

その後のミュージシャンたち

本作でボウイが発掘したミュージシャンはその後どうなったのか?

本作では共演できなかったが、1980年にアンディ・ニューマークは憧れのジョン・レノン「ダブルファンタジー」でドラムを叩く。しかし、ジョンが暗殺されたことで2年近く虚無状態に陥ったとインタビューで語っている。そして、1982年のロキシーミュージック「Avalon」でドラムを叩き、日本ツアーにも同行した。

ウィリー・ウィークスはその後もセッション・ミュージシャンとしての引き合いは続き、自分もクラプトンボズ・スキャッグスの来日公演で元気な姿を観ることができた。2006年のクラプトンのライブはデレク・トラックス、ドラムスにスティーヴ・ジョーダン、という凄いメンバーでデレク&ドミノスを再現するというもの。ここでもしっかりとボトムを支えていた。
そして、2017年よりは軽井沢に在住しており、2020年には善光寺でもライブを行ない川口千里(ドラムス)と共演している。

ルーサ・ヴァンドロス
Chicに参加したり、マーカス・ミラーと活動するなど地道な活動をしていたが、1989年Here and Nowで初めてのトップ 10 ヒットを放ち、グラミー賞最優秀男性 R&B 歌唱賞を受賞しグラミー初受賞。
2003年『Dance With My Father』はグラミー賞で最優秀楽曲賞を受賞し、アルバムは全米で初めてとなる 1位を記録するが、2005年7月に54歳で惜しくも亡くなった。

デイヴィッド・サンボーンもマーカス・ミラーと組むことが多く、名作を数多く残している。1997年には、マーカス・ミラーとエリック・クラプトンと共にスペシャル・ユニット“Legends”に参加した。

ボウイはレッツ・ダンスで爆発的な成功を果たした後は、次作のTonight以降はセールス的には長らく低迷し引退説もあった。
しかし、2013年にリリースした「ネクストディ」(The Next Day)で奇跡的に復活する。
『レッツ・ダンス』以来30年ぶりの全米トップ10入り、かつ自身最高位の初登場2位を記録した。

ジャズとの邂逅

そして2014年11月に自身のコンピアルバム「Nothing Has Changed」のシングルとしてリリースされたSue (Or in a Season of Crime)で新たな人材と組み、ジャズとの邂逅による新しい音の創造が始まる。
ジャズ作編曲家マリア・シュナイダー率いるマリア・シュナイダー・オーケストラとコラボレーションし、ボウイはさらに進化を遂げたのだ。

マリア・シュナイダーはボウイに、Sueで共演したサックスのダニー・マッキャスリンとギタリストのベン・モンダーを推薦し、『★(Blackstar)』に繋がっていく。

そして2015年1月から『★』の録音が開始され、ダニー・マッキャスリンがリーダーのジャズ・カルテットをそのまま起用した。
マッキャスリン、ドラマーのマーク・ジュリアナ、鍵盤のジェイソン・リンドナー、ベーシストのティム・ルフェーヴル。そこにベン・モンダーが加わった。
今作のプロデューサーであるトニー・ヴィスコンティによれば、このアルバムはケンドリック・ラマーの2015年の『To Pimp a Butterfly』を参考にしたそうで、まさにそこには同様にロバート・グラスパーなどのジャズミュージシャンを多く起用していたのだ。

『★』は2016年1月8日リリースされるが、2日後の1月10日にはボウイの逝去という衝撃的なニュースが伝わる。『★』はイギリスをはじめ世界28ヶ国のアルバムチャートで1位を記録した。アメリカでもデヴィッド・ボウイのアルバムとして初めて1位に到達した
69歳にして辿り着いたジャズとの邂逅により、さらにボウイの新しい挑戦が始まると期待されたが、それも儚く散ることになった。

ジャズ界では評価の高い彼らも世間的には無名だった。ボウイとの共演ではグラミーを亡くなった本人の代わりに受賞するなど、大きく知名度を上げてその後はジャンルを超えた活躍が目立つ。

特にドラムのマーク・ジュリアナはロック界の指名も増えて、売れっ子ドラマーとなり、リーダーアルバムも多くリリース。
昨年の8月にはサマソニでSt. Vincentのドラマーとして来日、2月にはソロでブルーノート公演を行った。
既にドラマーの域を超えたサウンドクリエーターとして素晴らしいライブを観せてくれた。

「ヤング・アメリカンズ」でも「★」でも他作品でも、ボウイが新顔のミュージシャンを発掘する時の選択眼とスピード感は素晴らしく冴を見せる。
「★」でもシュナイダーから音源を聴かされると、マッキャスリンたちの演奏を聴きにNYのライヴハウスにも足を運び即決している。
その場でボウイとマッキャスリンはメールアドレスを交換し、それからは直接連絡をとるようになって、オファーも本人から直接来たという。

デヴィッドは僕らの作品も相当聴き込んでいて、レコーディングでは“あのアルバムのこのフレーズが欲しい”とも言われたよ。デモを作ってスタジオに入ったから一緒にセッションで作ったわけではないが、スタジオではいろいろなアレンジを試した。時には間違いや予定とは違うものが出来たりもしたが、デヴィッドはそのすべてを残したんだ。そこから新たな可能性が生まれることもあるからね。偉大な音楽家のレコーディングとはこういうものかと思ったよ

マッキャスリン

人選をプロデューサーやスタッフに丸投げしない。
年齢を重ねて大御所になってもボウイの姿勢は若き頃と変わらなかった。

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