名盤と人 32回 再評価 『HOSONO HOUSE』 細野晴臣
1973年5月に発売された『HOSONO HOUSE』は、前年の72年末にはっぴいえんどが解散した直後から録音された細野晴臣のソロデビュー作。狭山アメリカ村の自宅で宅録された本作は、同時に結成されたキャラメル・ママと共に制作。LAでの「HAPPY END」録音時に出会ったリトル・フィート、歌声の参考にしたジェイムス・テイラーなど、様々な要素がごった煮となって混沌した中で世に出された。
HOSONO HOUSEを知るためのプレイリスト40
『HOSONO HOUSE』 再評価
「HOSONO HOUSE」と「Harry‘s House」
『HOSONO HOUSE』は1973年5月25日に発売された細野晴臣のソロデビュー・アルバム。
1973年から半世紀が過ぎ、50周年記念盤としてオリジナルの仕様を完全再現し、この5月にリイシューされた。
第65回グラミー賞にて「年間最優秀アルバム賞」を受賞したハリー・スタイルズのソロアルバム「Harry‘s House」。このタイトルは「HOSONO HOUSE」が由来となっており改めて本作にスポットが当たった。
そしてこの3月の来日時には2人が対面を果たしている。
細野と言えば、2018年にロンドン、2019年にはアメリカ公演を成功させ、世界的に人気も高まっている。ロンドン公演では今年相次いで亡くなった盟友、高橋幸宏と坂本龍一もゲスト参加したのが懐かしい。
そして彼の作品でも特に『HOSONO HOUSE』が海外で再評価されていると言う。
「細野晴臣、海外で高まる再評価の動き」と言うコラムもあった。
はっぴいえんどの挫折
ジェイムス・テイラーの影響
細野晴臣は1969年、小坂忠、松本隆らエイプリル・フールを結成しメジャー・デビュー。
その後、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂とはっぴいえんどを結成し1970年8月アルバム『はっぴいえんど』発売。
上手く歌えずに苦悩を感じていた細野はそのころにジェイムス・テイラーの歌い方に触発されている。
その頃には1970年8月テイラーの『スウィート・ベイビー・ジェイムス』に収録されたFire and Rainがリリースされてヒットしている。
次作『風街ろまん』に収録されるテイラーの影響が強い夏なんですには大滝は参加していない。
さらにテイラー色の強い名曲風をあつめてを1971年9月に録音するが、大滝と鈴木は参加せず、細野と松本だけで録音された。
そして後に名盤と言われる『風街ろまん』は、1971年11月20日に発売されたが、当時はそれほどの評価されることはなく数千枚のセールスだった。
LAで会ったリトル・フィート
『風街ろまん』でやり切った感で燃え尽き症候群となったメンバー間(鈴木茂以外)に解散風が吹き始める。
その後は大瀧詠一のソロ『大瀧詠一』を巡り、ボタンの掛け違いが続き、結束が緩み始め、さらに解散へと舵を切る。
1972年6月には細野が埼玉県狭山市アメリカ村に転居し、益々緊密な関係は失われる。
アメリカ村はもともと米軍のジョンソン基地で働く兵士たちの家族向きに作られた住宅地。基地が縮小された影響で日本人が借りて住むようになった。
細野は小坂忠が住んでいた家の隣に引っ越す。
「次第にアメリカ村には、多くのミュージシャンが移住してきて、ウッドストックのようなアーティスト村になっていった」と小坂は語る。
そして、1972 年9月のミーティングではっぴいえんどの解散が決まる。
1972年10月4日、解散が決まりながらもはっぴいえんどのメンバー4人はLAのハリウッドに到着しラストアルバムをレコーディングする。
細野はアルバム1曲目の「風来坊」を提供。ヴァン・ダイク・パークスと彼のアレンジャーのカービー・ジョンソンがホーン・アレンジで協力。トム・スコットも参加した。
細野は本作で風来坊、相合傘、無風状態と3曲を提供し、さらに松本隆の詩に頼らず作詞を試みている。
この滞在で細野はリトル・フィートと運命的な出会いを果たしている。名盤『ディキシー・チキン』の録音を見学し、またローウェル・ジョージとビル・ペインが録音にも参加している。
その辺りの経緯は以下の記事が詳しい。
また相合傘は、もともと『HOSONO HOUSE』のために作られた楽曲であった。矢野顕子により1977年の『いろはにこんぺいとう』でカバーされた。ティン・パン・アレーとなっていた細野と林立夫、鈴木茂が演奏をしている。
後年、細野は「もうこれがあるなしでは、今の自分の音楽観が変わっていたと思うくらいのカルチャー・ショックだったですね。」とLA録音について述懐している。
LAから帰国し、11月には大瀧詠一のソロ『大瀧詠一』が発売。
そして1972年12月31日にはっぴいえんどは正式に解散する。
LAで録音された『HAPPY END』は彼らのラストアルバムとして翌年1973年2月にリリースされた。
HOSONO HOUSEの背景
キャラメル・ママの結成
キャラメル・ママと言うと耳慣れないが、後のティン・パン・アレーの前身である。
このキャラメル・ママが『HOSONO HOUSE』の録音時点に結成され演奏を担当し、後にはティン・パン・アレーと改名し日本の敏腕プレイヤー集団として様々な名盤に参加していく。
キャラメル・ママの前身に当たるのが小坂忠とフォージョーハーフである。小坂はペダル・スティールの駒沢裕城に声をかけ、続いて、ドラムの林立夫、キーボードの松任谷正隆、ベースの後藤次利をメンバーに誘った。
1971年「ありがとう」を細野のプロデュースでリリースした小坂は、ライブのためのバンドとしてフォージョーハーフを結成した。
林立夫は以前は小原礼、鈴木茂とSkyというバンドを組んでいたが、鈴木がはっぴいえんどに加入したため暇になり新しいバンドを探していた。(Skyは2021年、松任谷を加えてSKYEとして再デビューしている)
小原はその後72年にサディスティック・ミカ・バンドの初代ベーシストとなり、後藤次利がその後を継ぐ。そのバンドのドラマーが後にYMOを共に結成する高橋幸宏だ。
キャラメル・ママははっぴいえんど(細野、鈴木)とフォージョーハーフ(林、松任谷)の掛け合わて出来たグループでもあった。
その後に松任谷は荒井由実と結婚し、荒井は松任谷由実となる。松任谷は後のユーミンブームの仕掛け人となるが、当時は意外にもカントリー志向でマンドリンも弾いていたらしい。
はっぴいえんど解散後に鈴木が林を誘い、その後に松任谷が入り、最後に受身の細野が誘われて結成されたのがキャラメルママだった。
林は「ドラムっていう楽器にとって、ベーシストはとても大切なんです。ドラムってのは音符の長さを調節できないから、その長さを調節するのがベースなんです。その長さが、自分にとってすごく心地よい人が細野さんなんですよ。だから、細野さんとはパーマネントなグループでやってみたいなと、ずっと思ってました」と語る。
鈴木は「ぼくはポール・マッカートニーや細野さんみたいなベース・ラインが大好きなんだ。リズム・キープやコード感を受け持つだけじゃなくて、もっと積極的に曲に関わるフレーズを入れてくるベースとでも言えばいいのかな…。ベース・ラインで曲を成立させ、曲として機能させる、そんな演奏なんだよね」と語る。
(ちなみに4人が最初に顔を合わせたのは前年発売の大瀧詠一のソロ・アルバムの「あつさのせい」のセッションだった)
このキャラメル・ママにペダル・スティールの駒沢裕城が加わり『HOSONO HOUSE』の演奏メンバーとなる。
自宅で録音されたHOSONO HOUSE
当初、細野はソロアルバムには積極的ではなかった。ベースのセッションの仕事が増えて、それで生計が立つようになったからだ。時には野口五郎のような歌謡曲のバッキングにも呼ばれていたようだ。
そして『HOSONO HOUSE』はアメリカ村の細野の自宅で録音される。
ザ・バンドの『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』、そして細野が歌唱の手本としたジェイムス・テイラーの『ワン・マン・ドッグ』などが実践したホーム・レコーディング方式だ。
『ワン・マン・ドッグ』ではセクションのメンバー達とテイラーの自宅で録音したが、『HOSONO HOUSE』ではキャラメル・ママが演奏。細野は何から何までテイラーのスタイルを踏襲していた。添付した映像にはセクションのリー・スクラーの姿も見える。
1973年2月15日に『HOSONO HOUSE』のレコーディングが始まる。
8畳の洋間にピアノ、フェンターローズ、ドラム、アンプを持ち込み録音された。林と鈴木はアメリカ村に泊まり込み、松任谷は杉並の自宅から通勤。
そして3月16日にはレコーディングが終わる。
ろっかばいまいべいびい
アルバムの冒頭を飾る記念すべき細野の曲だが、何とデモテープだったと言うことに驚く。細野が⼀⼈でアコギとベースを奏で、4チャンネル2トラックのテープレコーダーに録⾳したデモテープを、エンジニアの吉野⾦次がそのままミックスして完成させたたものらしい。
「デモテープの良さっていうか、初期衝動っていうかね。そういうものは⼤事で、忘れたくないと思っているよ。 デモっていうのは⾃分のためのメモなので、そこにエッセンスが詰まっている。 そこにあるのは形じゃなくて、エッセンス。 それを⾳にすることがやりたかったんだ。」と細野は語る。
LA録音で出会ったヴァン・ダイク・パークスの1972年作『Discover America』を聴き込むうちにできたという曲。カリプソや、ニューオーリンズのリズム&ブルースや、古きよき時代のアメリカのポップスなどが詰めこまれた作品を通じてこの曲が生まれたという。
映像は2005年埼玉県狭山市で開催のHYDE PARK MUSIC FESTIVALより。「狭山でやるならまずは断れない」と記念の場所で演奏した。
後に西岡恭蔵、そして吉田美奈子がカバーしている。
2曲目の僕は一寸。1曲目から続き、レイドバックした雰囲気が続く。
映像は細野が2005年末から2006年春にかけて開催、『Hosono House』の楽曲を久々に演奏した『東京シャイネス』ライヴより。
CHOO-CHOOガタゴト
と語るように前年「HAPPY END」の録音で訪れた時にLAで遭遇したリトル・フィートに触発されて出来た曲だ。
レイドバックしシンガーソングライター然として1曲目、2曲目が過ぎるが、早くもこのCHOO-CHOOガタゴトでイメージは打ち破られる。
ニューオリンズのファンクバンドMeters、或いはリトル・フィートの雰囲気が漂う。LAで録音を見学した『ディキシー・チキン』(Dixie Chicken)は、1973年1月に発売。この作品でニューオリンズサウンドに辿り着いたフィートの後を追うように、細野もニューオリンズ風にチャレンジした。
『ディキシー・チキン』より、細野がLAで録音風景を見たと言うTwo Trains(トゥー・トレインズ)。
そして、2年後の75年ティン・パン・アレーと改名したキャラメルママのデビュー作「キャラメルママ」に「チュー・チュー・ガタゴト‘75」として再度録音された。コーラスは大貫妙子そして山下達郎。
混沌としたサウンド
細野の歌声はジェイムス・テイラーに影響されつつも、当時は、ビリー・プレストンやスライ&ザ・ファミリー・ストーンなど16ビートの音楽に関心が向いていた。
そして、リトル・フィートとヴァン・ダイク・パークスの影響も脳内に入り込んで、演奏的にはリズム&ブルースのほうに表現をもっていこうという志向もあった。カントリーと16ビートの同居という分裂した中での録音が、今聴くと却って新鮮というのがこの再評価なのか。。
終りの季節
A-4の終わり季節は一転して長閑なカントリーロック的なナンバー。
矢野顕子が1984年リリースの『オーエス オーエス』でカバー。「土曜ソリトン SIDE-B」(Eテレ)の細野と矢野顕子が出演した放送回の映像。星野源はこの放送を観て「歌を歌う星野源を作ってくれた方ですね」と語っている。
冬越え
A面最後の冬越えは、これもまたホーン入りの強烈なファンク・ナンバー。イントロのカウベルからしてリトル・フィートのFat Man in the Bathtubを想起させる。
細野、林、鈴木のティンパンに矢野顕子がピアノを弾く、2014年の「さとがえるコンサート」の音源より。ボーカルは矢野と細野が交互に。
パーティ
B面トップのパーティはザ・バンドのUp On Cripple Creekを思わせるブキウギナンバー。タイトなドラムとリック・ダンコのような細野の饒舌なベースが冴え渡る。
細野もゲストで参加したPizzicato Fiveがカバーしたパーティ。「女性上位時代」(1991)より。
福は内鬼は外
ラテンのリズムが強調された福は内鬼は外。民族楽器のカリンバを使用したり、次作以降のトロピカル路線の萌芽が感じられる。ヴァン・ダイク・パークスの『Discover America』に散りばめられた、カリプソの影響か。
カントリーとファンクの融合
住所不定無職低収入
はっぴいえんどでは食えなくて、ベースのセッションで生計を立てていた当時のことを歌ったのか。。実家暮らしから離れて、所帯を持って家賃2万円の狭山での生活を維持する経済的な厳しさを感じていたのか。。
強烈で悲壮感あるタイトルを持つが、それでも細野らしいペーソスが効いた歌詞と強烈なビッグバンド風のブラスで始まり、妙な明るさを感じる。
2019年のアメリカ公演でも新たなアレンジで歌われた。高田蓮(G)、伊賀航(B)、伊藤大地(Dr)、野村卓史(Key)などの若い音楽家をバックに、細野もベースは持たずに歌にフォーカスし、ボーカルに自信を持った歌声が頼もしい。
恋は桃色
恋は桃色はシングルカットされた曲。歌謡曲や当時の吉田拓郎辺りが歌いそうなフォークソング調の親しみやすいメロディ。駒沢裕城のスティールギターがアクセントとして効いている。歌詞にある《土の香りこのペンキのにおい/壁は象牙色 空は硝子の色》はこの狭山の自宅の描写だという。
TOKYO SHYNESSでの 恋は桃色
細野晴臣×坂本龍一 at EX THEATER ROPPONGI 2013.12.21
薔薇と野獣
薔薇と野獣はキャラメル・ママの奔放なファンクサウンドが満喫できる。ハイポジションのイントロのベース、その後のフレーズは当時細野が参考にしたチャック・レイニーのように縦横無尽。ハイハットの刻みを軸にした林立夫のドラムの流れるようなドライブ感も素晴らしい。そこに鈴木茂のワウギターが絡む。アウトロでは松任谷正隆のエレピを軸に、アドリブ的な展開が続き、不穏のまま終わるのもかっこいい。
後には、ティン・パン・アレー、自身のアメリカ公演で再演され、星野源も高田蓮と共にカバーしている名曲。
そして、本来本作に収録予定だったが『HAPPY END』に収録された相合傘のインストバージョンで終わる。
トロピカル路線
キャラメル・ママからティン・パン・アレーへ
キャラメル・ママはグループとしてのレコードを出そうと模索するが歌い手が不在で、断念して演奏家集団となる。
キャラメル・ママはマッスル・ショールズ・リズム・セクションのようなサウンド・クリエイト集団を目指し、活動のスタートを切る。
キャラメル・ママが他人のプロデュースも行う演奏家集団となることになり、彼らが参加した吉田美奈子のデビュー作「扉の冬」が1973年9月に発売される。
映像は2000年の吉田美奈子とティン・パン・アレー。
さらに、11月発売の荒井由実のデビュー作「ひこうき雲」もプロデュース。
プロコル・ハルムなどのブリティッシュ志向の荒井に対し、キャラメル・ママのウェストコースト・ロックやリズム&ブルース志向はソリが合わずに試行錯誤したが、結果としてアルバムは成功した。
グループは翌年の『MISSLIM』にも参加し、松任谷は荒井由実との交際が始まると、彼女のプロデューサー的な立場となり、キャラメル・ママからはフェイドアウトして行き、その代わりを佐藤博が務めることになる。
1973年終わりには細野は狭山を離れて東京に戻る。
そして1974年にはティン・パン・アレーと改名し、75年にはアルバム「キャラメル・ママ」をリリースする。
また、彼らが演奏でサポートしたミュージシャンはアグネス・チャン、荒井由実、いしだあゆみ、小坂忠、南沙織、雪村いづみ、スリー・ディグリーズなど、多岐に渡る。
代表作は細野の盟友、狭山で隣人だった小坂忠の「HORO」(1975)だろう。ティン・パン・アレーの4人に、鈴木晶子(矢野顕子)、山下達郎、大貫妙子、吉田美奈子、矢野誠等、後のミュージック・シーンを彩るアーティストが大挙して参加した。
トロピカル・ダンディ
1974年11月に細野のソロ2作目のレコーディングが始まる。
前年に細野はスライ&ザ・ファミリー・ストーンの『フレッシュ』を聴き、またドクター・ジョンのアルバム『ガンボ』(1972年)を聴いて、R&B、ファンクが混ざりあうニューオーリンズ・サウンドに傾倒した。
そのため細野は『HOSONO HOUSE』の路線の上に、さらにリズムを強化したファンキーなアルバムを構想した。
だが、ここでも歌がネックとなりそれも暗礁に乗り上げる。
その時に登場したのが久保田麻琴。
1973年に久保田麻琴と夕焼け楽団のファースト・アルバム『サンセット・ギャング』を制作し、細野に演奏を依頼して以来の仲だった。
こうして『HOSONO HOUSE』の続編としてアイデアは消えて、再度細野は『トロピカル・ダンディー』のレコーディングに取りかかった。
それは世界の多様なリズムと、南国趣味が絡みあう「トロピカル三部作」の幕開けとなった。
『トロピカル・ダンディー』の中にも『HOSONO HOUSE』の香りを残している曲が「三時の子守唄」だ。
トロピカル三部作
1975年6月 『トロピカル・ダンディー』リリース。
1976年7月 『泰安洋行』リリース
1978年4月 『はらいそ』リリース
で「トロピカル三部作」は完結。
そして「はらいそ」のファム・ファタール~妖婦で集まった坂本龍一、高橋ユキヒロと共にYMO結成へとひた走るのである。
1978年11月、『イエロー・マジック・オーケストラ』を発売。
HOCHONO HOUSE
2019年3月細野は『HOSONO HOUSE』を細野自らがリアレンジ、新録したアルバム『HOCHONO HOUSE』(ホチョノハウス)をリリース。「HOSONO HOUSE」の全収録曲を細野が1人でが打ち込みで演奏、リアレンジ・パフォーマンス・エンジニアリングし、再構築した。
本作はオリジナル盤では最後に収められている相合傘で始まり、オリジナル盤ではオープニング曲のろっかばいまいべいびいで終わる。
パーティは1976年くらいの音源ライブ音源が収録されてる。たまたま見つかった音源だが、いまとあまり声が変わってないという。
『HOSONO HOUSE』は「いろいろなきっかけが重なって、“より聴かれだしている”と言っていい状況ですよね?」と今の再評価について聞かれ、
細野は以下のように答えた。
「ちょっとね、僕には理解できませんね。一体何がいいんだろうなと。」
「どうせ、すぐに消えちゃうんだろうな、っていう。こんなに長く聴かれるなんて、まったく思ってなかったです。」
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