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名盤と人 第20回 影の名盤 『Dixie Chicken』 リトル・フィート

玄人好みの名盤代表『ディキシー・チキン』(Dixie Chicken)。チャート100位にも入らなかったが、ミュージシャンを中心に世界中にファンがいる。ニューオリンズへのアプローチを全面にしたコンセプトは、日本のロックへの影響も濃厚。日本の名盤達にもLittle Featの存在が今もチラつく。

『Dixie Chicken』(ディキシー・チキン)は、Little Featが1973年に発表した3枚目のアルバムである。録音は1972年、ロサンゼルスのクローヴァー・レコーダーズ、ワーナー・ブラザース・レコーディング・スタジオ、サンセット・サウンドなどで行われた。
デビューから2作をリリースするがセールスは低迷、メンバーを一新しての起死回生の作品だった。

ネオン・パークによる強烈なイラスト

Little Featの軌跡

LittleFeatFrankZappa&TheMothersにいたLowellGeorgeとベーシストのRoy Estrada、Lowell Georgeの義理の兄弟、ドラムのRichieHaywardを中心にBill Payne(キーボード)が加わり、1969年にLAで結成された。
中心人物のLowellGeorgeは1945年LAのハリウッド生まれ。
71年Little Featは大手のワーナーブラザーズから『Little Feat』でデビューするが、ブルースをベースにした個性のないルーツロックアルバムであった。
このアルバムでは模型飛行機の操縦で手を怪我をしたLowellに代わり、RyCooderがスライドで一部の曲に起用されている。また、Ryのデビュー作にはRoy Estrada、RichieHaywardが参加している。

評論家からはThe Bandの再来と絶賛されるが、わずか1万枚ほどのセールで惨敗に終わる。

1972年2月にはTed Templemanを迎えて2作目『Sailin' Shoes』を制作。Templemanは同年7月には「Toulouse Street」(Doobie Brothers)を担当し、ヒットを飛ばし売れっ子プロデューサーになるその前だった。
本作にはBill Payneも参加し、早速両バンドの交流が開始されている。

この時期、LowellはVan Dyke Parksと交流を深め、同年発売のVan Dyke Parksの「DiscoverAmerica」にSailin' Shoesが選ばれ本人も参加している。

LowellはVan Dyke Parksを通してAllen ToussaintMetersを知り、ニューオリンズ音楽に関心を持ち始める。この後もVan DykeLittle Featの録音にクレジットはないが、世話役として参加しアドバイスを続けたようである。

しかし、Sailin' Shoesも1.3万枚の売上と惨敗し、ベースのRoy EstradaCaptainBeefheartに移籍。解散状態になったFeatに見切りをつけたレコード会社はLowellとJohnSebastianPhillipEverly(エブァリーブラザーズ)とのスーパーバンドを画策。Jackson Browneからも新グループへの結成の誘いがかかる。
またBill Payneはセッションに参加したDoobieへの参加も考え、グループは活動休止となり解散も時間の問題となる。

ニューオリンズへの接近

グループの再始動を目指しLowellは後輩で以前にベーシストとしてオーディションを受けて落選した、Paul Barrereをセカンドギタリストとして採用。

さらにニューオリンズ出身でDelaney & Bonnieで活躍していたKennyGradneyをベーシストとして勧誘する。ニューオリンズを志向し始めたLowellにとってGradneyの存在はまさに渡りに船、だったはず。
GradneyはDelaney & Bonnie時代の盟友でルイジアナ出身のSamCrayton(パーカッション)を同時に加入させることを条件にする。
Craytonの姉はStonesとの仕事で知られる著名なバックボーカリスト、Merry Claytonであった。
Feat側はパーカッションは要らないと渋ったが、Gradneyの粘りに承諾。
LA出身のFeatに南部ルイジアナ州出身の黒人2人が加入し、Featのニューオリンズからの影響は俄然加速する。

Santanaのようなラテンロックではないバンドにパーカッションが入る先駆けとなり、このコンガの音色がFeatのサウンドを特徴付ける。
そして1曲目のDixie Chickenではニューオリンズ色を徹底してデフォルメしたサウンドで驚かせる。
新加入のGradneyのもったりした低音ベースと、合間を縫うパーカッションで鷲掴みにされる。
セカンドライン風でありながら、多少ズレ気味にリズムは展開。
「あの頃僕らが影響を受けていたのはDr.JohnとProfessor Longhairだった」と語るPayneのピアノも印象的。
そしてコンプレッションを効かせた人工的なLowellのスライドサウンド。

77年の映像だが、EmmylouHarris & BonnieRaittを従えたThe Midnight SpecialでのDixie Chicken。

2曲目のTwoTrains(A-2)も名曲。
一転してMeters調のニューオリンズファンクが展開される。
そしてセカンドギタリストを得てスライドに専念できたLowellのスライドが縦横無尽に駆け巡る。

そして、ニューオリンズの鬼才Allen ToussaintOn your way down(A-4)をカバー。
LowellはAllen ToussaintのことをVanDykeから知るが、Toussaintは71年にはThe Band「Cahoots」、72年には「Rock of Ages」のホーンアレンジを担当。ロック界との接点が増加した旬な存在であった。

RichieHaywardFat Man in the Bathtub(B-3)がセカンドラインで叩いた初めての曲で、「バックビートで楽しむこと」を知ったと語っている。
「糸の切れた凧のように何処かに行ってしまう」Haywardの抑制不能なドラミングが、2人のルイジアナ出のリズムセクションの参加により重心が安定し粘り気のあるものに変貌させる。

Lowellの女性関係

またLowellは著作権印税の分配で粋な計らいを見せる。
本作以降の印税の分配をメンバー間で等分したのだ。
10曲中7曲はLowellの作品にも関わらずだ。
今でも当時のメンバー達は印税を受け取れていると言う。
ここら辺りはしっかり者のRobbie Robertsonとは同じリーダーでも大違いで、無頓着というか大らかと言うか、彼がミュージシャン仲間からも女性からも愛された所以でもある。

また本作には大挙して女性コーラスが参加。
GradneyとCraytonの古巣からBonnieBramlett、ノーザン・ソウル界の女王と呼ばれた黒人シンガーGloriaJonesなどが分厚いコーラスを聴かせれて南部感を演出している。
その当時は恋人関係だったBonnie Raittもコーラスで参加。
Lowellは結婚していることを隠してBonnieと付き合っていた。
LowellはBonnieのTakin My Time」をProduceするが破局したため、その後はJohn Hallが担当したと言う。
伝記本「リトル・フィート物語」(ベン・フォン=トーレス)では多くのLowellの女性関係も暴露されている。
後にはLindaRonstadtと交際、その後はRickie Lee Jonesを発掘して付き合っていたのも初めて知った。
1975年Lindaは「Heart like a wheel」Willin'をカバーしている。

日本のロックとリトル・フィート

72年10月はっぴいえんどは渡米してLAでアルバム『HAPPY END』をレコーディング。サンセット・サウンド・スタジオでレコーディング中に、近くのクローバー・スタジオでLittleFeatがレコーディングしているという情報が入り見学に行く。
当時は鈴木茂細野晴臣もLittle Featのことを知らず「スライド・ギターの上手いのがいる」と言われて紹介され、それがLowellGeorgeだった。
「観に行くとTwo Trainsをやっていて、バンドのエネルギーの凄さに圧倒されたね。」と鈴木は語る。
そしてLowellとBill Payneが「さよなら通り3番地」のレコーディングにも参加してくれることになる。
「なにしろローウェル・ジョージが至近距離でスライド・ギターを弾くのをこの目で観たんだから、そりゃあ衝撃的だったね。この瞬間にスライド・ギターに目覚めたと言っても過言ではないよ。」と語る。
(鈴木 茂. 自伝 鈴木茂のワインディング・ロード) 

その後75年鈴木は渡米し名盤「Band Wagon」を録音。「スノー・エキスプレス」「夕焼け波止場」でもLittle Featのメンバー4人(Hayward,Payne,Crayton,Gradney)を起用。
そのときのエンジニアがマイク・ボシュアで、アルバム『Dixie Chicken』のレコーディングでアシスタント・エンジニアをしていたので、そのままFeatっぽい音になっている。

日本でいち早くニューオリンズに着目した細野晴臣もFeatとの出会いに強烈な印象を持っている。
「若いころに京都を訪れたことがあるというジョージに誘われ、彼らのセッションをスタジオで見学した四人は、その熱気に圧倒された。とりわけ細野は、彼らの強靭なビートや、サウンドの迫力や、そこにうねるエネルギーと高揚感に大きな刺激を受けた。」(門間 雄介. 細野晴臣と彼らの時代)

「僕たちはしらーっとした気持で自分たちのレコーディングをやっていてね、エンジニアからもっと笑え、もっと笑えっていわれながら(笑)、なんで笑わなくちゃいけないんだって思いながら、僕たちは無表情ですからね。そのまんましらっーとリトル・フィートのスタジオに入っていったらすごい熱気だったんでびっくりしちゃってね。何よりもびっくりしたのは、圧倒的なサウンドでしたね。力強いビートと。音のクォリティ。彼らのエネルギーと興奮状態。音楽を作る現場というのはこうあるべきかもしれないというような彼らは、いまきっと何か新しいことを生んでいるに違いないということが伝わってくるんです。そのレコードができてきて、東京で発売されて、聴いたんですよ。そうしたら、やっぱり素晴らしかったという印象があったね。それは『ディキシー・チキン』という名盤だったんですけど。

細野晴臣 インタビュー THE ENDLESS TALKING

細野は後にリリースされる「CHOO-CHOOガタゴト」はFeatのレコーディング見学の際に彼らが演奏していた「Two Trains」のニュアンスが強いと発言もしている。

Lowellの日本訪問は18歳の頃で両親と客船で訪れており奈良にも滞在している。また19歳から尺八の先生に師事、一年間ほど尺八と日本の音楽を学んでおり、日本人への親近感から気軽に演奏にも応じたようだ。

その後のFeatは76年には矢野顕子のデビューアルバム「JapaneseGirl」にはPayne以外のフルメンバーで参加。
Lowell が彼女の才能に驚嘆し「僕たちの力不足でした。ギャラはいりません」と語ったともいわれる。
Paul Barrereは「(彼女の) ピアノの演奏力は、うれしい驚きだった。歌詞は理解できなかったけれど、リトル・フィートを呼んだ理由はわかったよ。転調 シンコペーション 小節の複雑さ リトル・フィートとの共通点が多いからね。録音に参加できてうれしかったよ。」と語る。
彼らが最も手こずった曲「クマ」。

Featと日本人の関係で言うと、忘れていけないのが78年のデビュー時に「いとしのフィート」と言う曲を捧げた、サザンオールスターズがいる。2ギター、ベース、ドラム、キーボードにパーカッションを加えた6人編成はまさにこの時期のFeatの編成を真似たもの。パーカッションを生かすために「勝手にシンドバット」のラテン的なアレンジも決まり、この編成が大ヒットを生んだとも言える。
「いとしのフィート」では桑田が得意のスライドを聴かせている。

日本の音楽シーンにさえ強烈な爪痕を残し今では名盤と評価される「Dixie Chicken」だが、期待された売上げは3万程度と低迷しさらに彼らの憂いは続くのである。

「Dixie Chicken」後のリトル・フィート

「Dixie Chicken」のセールスが不振に終わると、LowellはドラムのRichie Haywardを首にして、一時的にFredWhiteが加入する。
Fred WhiteはEW&FのMauriceWhiteの弟であり、DonnyHathawayのバックバンドに参加していた。その後75年の「That's The Way Of The World」よりはEW&Fに参加する。
その名残でSpanishMoonFredWhiteが叩いている。

和解してHaywardが戻ると新作の録音に入る。
「Feats Don't Fail Me Now」
74年8月にリリースされ15万枚、初のチャートインを果たし36位まで上がる成功を収める。
Lowell以外も秀作を書き、中でもPaul BarrereSki it Backは名曲で今でもクラブのDJによりヘビーローテーションされる。

同年74年にはLowellはAllenToussaintプロデュースによるMeters「Rejuvenation」にスライドで参加し、遂に憧憬の地ニューオリンズでToussaintと出会う。

さらにRobertPalmer『Sneakin’ Sally Through The Alley』の録音にも参加。続けてニューオリンズでMetersとの共演を果たす。

さらに、Palmerの次作「Pressure Drop」にはLittle Featとして参加。

この辺りまでがLowell主体のLittle Featの充実期であったかもしれない。
LA出身のLowellだが、南部の港町「ニューオリンズ」に常に想いを馳せていたようである。

その後、75年「The Last Record Album」(36位)、77年「Time Loves A Hero」(34位)、78年LIVE盤「Waiting For Columbus」(18位)とセールスは順調にアップするが、バンド内の力関係が変化し、不協和音が鳴り始める。
Lowellがドラッグで不安定になるとBillPaynePaul BarrereがFusion志向で主導権を握り始め、Lowellは疎外されて行く。
「Time Loves A Hero」に至ってはLowellの作品は2曲となり、Fusion的なDay at the dog racesにはLowellは参加すらしていない。

バンドの方向性に違和感を覚えたLowellは、1979年ソロ・アルバム『Thanks I'll Eat It Here』をリリースし、リトル・フィートの解散を宣言した。
そしてソロツアーを4月に開始するが6月29日にドラッグが原因で心臓発作を起こし死亡。享年34歳。
遺作となったソロでもAllenToussaintWhat Do You Want the Girl to Doをカバー。Fusion化するFeatには未練はなく、心はニューオリンズにあったのかもしれない。

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