この一枚 #24 『Alone Together』 デイブ・メイソン (1970)
70年代に活躍したデイブ・メイソンというミュージシャンがいる。イギリスでトラフィックと言う人気グループに所属しながら、独立して単身アメリカに渡る。エリック・クラプトン、ジョージ・ハリスン、レオン・ラッセル等の大物と渡り合いつつ、アメリカでソロとして独自の地位を確立。
そのソロデビュー作『Alone Together』(1970)。スワンプロック時代を牽引したと評される名盤の背景を探る。
スワンプロックの名盤
Spotifyを覗くと、デイブ・メイソンの最多の再生数を誇るのは1977年に発売されたWe Just Disagreeでした。全米チャート12位まで達した彼の最大のヒット曲です。
ただ、むしろ音楽通の間では、スワンプロック・ムーブメントの先駆けと評される1970年7月にリリースされた『Alone Together』が名盤として語られます。
ジョージやクラプトンまでもが嫉妬したとされる『Alone Together』はどのように誕生したのか、キーマンとしてイギリスとアメリカを目まぐるしく行き来した当時のメイソンの動きを追ってみました。
キャス・エリオット
Amazon Primeで「レジェンド・オブ・ザ・キャニオン ~CSNの世界~ VIVA! ウェストコースト・ロック」というビデオが無料で観れるので鑑賞しました。日本では2023年にリリースされていますが、実際の公開は2010年でしたので、映像自体に新味はないものの楽しく観れました。
ローレル・キャニオンを舞台にCSNの誕生に至るまで、そして崩壊までを丁寧に描いていて、中々興味深いものでした。
(これを発展させたのが数年前に公開された「Laurel Canyon」です。)
映画では、CSNの誕生に寄与した人物としてママス&パパスで有名なキャス・エリオットが大きくフューチャーされます。
歌手としての知名度以上に彼女は人と人を結びつける磁場のような役割で、CSNの3人、特にホリーズを脱退してイギリスからアメリカに単身やって来たグラハム・ナッシュをサポートします。
1968年8月にはキャス・エリオットの家(ジョニの家という説もあり)でCSNの3人が初めてハーモニーを試し、あまりに3声コーラスが素晴らしく結成に結びついたと言う有名な話もあります。
さて、彼女はナッシュだけでなく、もう1人イギリスから渡米して来た若者を手助けしますが、それが今回の主役であるデイブ・メイソン(Dave Mason)なのです。
自分の所有している『AloneTogether』の日本盤の小倉エージ氏の解説によると、この 『AloneTogether』 アルバムの制作にキャス・エリオットが尽力したと記載されています。
元々の出会いは「共通の友人であるグラム・パーソンズの紹介でメイソンとエリオットは意気投合し」とあるので、グラム・パーソンズが2人を引き合わせたのです。
そして『AloneTogether』の翌年1971年には2人はデュオを結成し「Dave Mason & Cass Elliot」というアルバムまで制作しリリースするのでした。
グラハム・ナッシュもデイブ・メイソンも今では、すっかりアメリカに根付きアメリカ人然としていて、イギリス人であったことを忘れてしまいます。が、イギリスから異国のアメリカに辿り着いた彼らのような若者にとって、キャス・エリオットのような世話役の存在は、心の支えになったのでしょう。
トラフィックとデイブ・メイソン
さて、そのデイブ・メイソンですが、1946年イギリスに生まれます。1945年生まれのエリック・クラプトンの一つ下、1943年生まれのジョージの3歳年下。デュアン・オールマンと同い年となります。
1967年4月にスティーヴ・ウィンウッド、ジム・キャパルディ、クリス・ウッドと共に、トラフィック(Traffic)を結成します。
そしてメイソン作の2ndシングルHole in My Shoeは全英2位のヒットとなります。この中でメイソンはシタールを弾いており、同じくシタール奏者でこの頃にWithin You Without Youを録っていたジョージ・ハリスンとも親交を深めたそうです。
余談ですが、Hole in My Shoeは高橋幸宏がカバーしています。
1967年12月リリースのデビュー作「Mr. Fantasy」は16位のヒットとなりますが、メイソンは音楽的な相違により早々に脱退してしまいす。
その後メイソンは渡米し、偶然アメリカでトラフィックと再会し、メイソンは再度トラフィックに加入することになります。そして彼の代表曲となるFeelin' Alright?を含む、2ndアルバム「Traffic」の録音に参加。
同時期にはストーンズのStreet Fighting Manの録音にも参加していて、グラム・パーソンズと接点を持ち、ストーンズに紹介したようです。
「Traffic」は1968年10月にリリースされますが、またもメイソンはトラフィックを脱退。トラフィック時代のメイソンは「腰の座らない」迷走をし続けます。
そのためトラフィックとしてライブ演奏したFeelin' Alright?は存在せず、むしろカバーしたジョー・コッカーの曲として知られます。
そして終いにはウィンウッドはクラプトンとBlind Faithを結成に向けてトラフィックを解散、ここにトラフィック第1期は終結したのです。
同時期にメイソンはジミ・ヘンドリックスがカバーした、ディランのAll Along The Watchtowerの録音に12弦ギターとベースで参加。
1974 年のアルバムでメイソンはヘンドリックスのアレンジを元に、All Along The Watchtowerをカバーします。これはメイソンのライブでの定番曲となります。
アメリカ移住とデラニー&ボニー
1969年4月メイソンはグラム・パーソンズに誘われアメリカのLAに渡り、そのままパーソンズの家に居候することになります。
LAではキャス・エリオットをパーソンズから紹介され、またデラニー&ボニー(Delaney & Bonnie)にも引き合わされます。
そしてメイソンはボビー・ウィットロックがキーボード、カール・レイドルがベース、ボビー・キーズがサックス等という錚々たる面々のデラニー&ボニーのバンドに加わリます。
そしてメイソンはデラニー、ボニー&フレンズとして北米ツアーに参加。皮肉なことに、確執のあった元トラフィックのウィンウッドとクラプトンのグループBlind Faithの前座となるのです。その間、クラプトンはデラニー&ボニーと親密になり、いつしかフレンズに参加。その後ジョージ・ハリスンまでも参加したのです。
1969年9月にはLAでデラニー&ボニーのシングルComin' Homeの録音にクラプトンと共に参加。B面はあのレオン・ラッセルのGroupie(Superstar)でした。
1969年12月にはデラニー&ボニーの欧州ツアーに参加し「On Tour with Eric Clapton」としてリリースされます。この間、メイソンがジョージにスライドバーを貸したことが、ジョージのスライド開眼に結び付いたらしいです。
トミー・リピューマとレオン・ラッセル
そしてメイソンは遂にソロデビューを果たすことになるのです。
タイトルは『Alone Together』。Alone=1人で、つまりバンドを抜けて単身異国にやって来た、だけどTogether=一緒、異国で出来た仲間が集まってできた!、そんな意味合いでしょうか。
イギリスからアメリカに来たばかりで22歳と若輩だったメイソンは知り合いもなく、孤独と不安を感じていたことが語られていますが、そんな心境がタイトルにも込められています。
メイソンはブルー・サム・レコードとの契約を取り付け、プロデューサーにはトミー・リピューマ(Tommy LiPuma)が選ばれました。ブルー・サム・レコードは独立系のレコード会社で、ボブ・クラスノーにより設立され、トミー・リピューマも幹部として参加しました。
ジョージ・ベンソンの1976年のアルバム『Breezin』をプロデュースしグラミーを獲得、さらにマイケル・フランクス、アル・ジャロウなど、AORの大家として知られ、またYMOを全米に紹介したことでも知られるリピューマだが、当時はプロデューサーとしてロックの仕事は未経験でした。
リピューマの指令で予算が投下され、多くの敏腕ミュージシャンが集められます。アメリカに来たばかりのメイソンには伝手がなく、招聘したのはリピューマでした。
リピューマは「私はデイヴに、いくつかの曲でレオンにアコースティックピアノを弾いてもらうよう勧めました」と言っています。
当時、レオン・ラッセルのシェルターレコードとブルー・サムは卸契約を結んでいて、リピューマとも親しい関係でした。
そしてラッセルの手引きで、カール・レイドル(ベース)、ジム・ゴードン、ジム・ケルトナー(ドラム)、ドン・プレストン(ギター)、デラニー&ボニー・ブラムレット、リタ・クーリッジと言ったデラニー&ボニーのバンドメンバーが大挙して参加したのです。
デヴィッド・ボウイやミック・ジャガーと噂になったクラウディア・レニアもバックコーラスで参加しています。
他にもラリー・ネクテル、ジョン・サイモン(キーボード)、クリス・エスリッジ(ベース)、ジョン・バーベイタ、トラフィックのジム・キャパルディなど時代の手練れたちが参加しています。
バーベイタは同時期にCSNYのOhioでドラムを叩いており、本作が激動の時期に発売されたことに改めて気付きます。
サイモンはザ・バンドのプロデュース、ネクテルはレッキング・クルーと、リピューマは当時のロック界の立役者を招聘したのです。
またミキシングは後にスティーリー・ダンの作品で手腕を発揮するアル・シュミットが担当。
特にメイソンの弾く生ギターの響きは素晴らしく、この作品の独自性に貢献しています。
そしてリピューマとラッセルも未来に大きな邂逅を果たすことになります。
『Breezin』でラッセルのThis Masqueradeをセレクトしたのが、リピューマだったのです。そして2014年にはラッセルの生前の最後の作品「Life Journey」を、リピューマがプロデュースすることになるのです。
69年の秋頃『Alone Together』 のラフミックスができると、その後のデラニー&ボニーの欧州ツアー中に、メイソンはジョージやクラプトンにテープを聴かせます。刺激を受けたジョージは「All Things Must Pass」にクラプトンは「Eric Clapton」にその要素を反映させ、英国流スワンプと言う形で3作は相互関係を持ちつつ結実するのです。
そして『Alone Together』自体はブルーサムが新設のためリリースまでに時を要し、翌年1970年7月に発売にこぎ着けます。
ここまで書いて来てメイソンと言う人の個性に気づき始めました。
フットワークが軽くて柔軟な発想がありつつも、視点を変えて見ると「腰が軽く」て「軽率」とも言えます。
発売前のテープを軽々にライバルに聴かせてしまう所など、軽率とも言え、そのためにクラプトンを先越されるのです。
一方では愛されキャラなので、色んな人から声もかかるので、大物ミュージシャンとの共演も多いのです。
Only You Know and I Know
オープニング曲のOnly You Know and I Know(A-1)はシングルカットされ42位のスマッシュヒット。
公式には本作のクレジットは不明ですが、リピューマによると「この曲を本当に成功させたのはジム・ゴードンのドラムパートでした。彼が考え出したリズムパターンは行進曲のようで、曲への扉を開けてくれました。」と自伝に書いていて、ドラムはジム・ゴードンだと思われ、ならばベースはカール・レイドルと言うデラニー&ボニーのリズムセクションと思われます。
これもまた生ギターのイントロによるShouldn't Have Took More Than You Gave(A-4)は、皮肉にもTrafficを彷彿とさせます。レオン・ラッセルがピアノでリタ・クーリッジとボニー・ブラムレットがコーラスで参加しました。
Sad and Deep as You
このアルバムにはメイソンの代表曲が詰まっているのですが、中でも自分が好きなのがこのWorld in Changes(B-1)です。ここでのオルガンはラリー・ネクテルかもしれません。この曲でもメイソンのアコギの響きは素晴らしく、「私がやっていたのは、アコースティックギターとエレキギターを組み合わせることだけだった。」と言っているように、この組み合わせこそが彼のギターの持ち味と言えるでしょう。
自分が最初に購入したメイソンのアルバムは、「情念」と言う変な邦題が付けられた2枚組ライブ盤「Certified Live」(1976)です。ベスト盤的な選曲のこの作品には本作より4曲が演奏されています。
World in ChangesそしてこのSad and Deep as You(B-2)もセレクトされました。
メイソンのアコギ、ラッセルのピアノによるバラードの名曲で本人のお気に入りでもあります。
本作の後にまたもトラフィックに加入するのですが、その際のライブ盤でも演っていますが名演です。
Look at you look at me
本作は全てメイソンの作曲だが、Look at you look at me(B-4)はトラフィックの盟友ジム・キャパルディとの共作です。ドラムもジム・キャパルディ、キーボードはレオン・ラッセル、そしてベースはクリス・エスリッジ。フライング・ブリトー・ブラザーズの一員だったエスリッジは、パーソンズのルートかもしれません。ここでのメイソンのリードギターは彼のエッセンスが詰まった名演となっています。
この曲も「Certified Live」で演奏されていますが、このバンドの演奏も素晴らしいものです。1976年頃のメイソンバンドはマイク・フィニガン( キーボード)、リック・イェーガー(ドラム)、ジェラルド・ジョンソン(ベース)、ジム・クルーガー(ギター)と言うベストメンバー。ジャケットが当時大ヒットしたピーター・フランプトンの「Comes Alive!」に酷似しているのはご愛敬。
デレク&ザ・ドミノスとAll Things Must Pass
本作を録音後「ソロアルバムは作ったが、ソロアーティストになろうとは思っていなかった」とメイソンは1970年6月イギリスに戻り、クラプトンの新バンド、デレク&ザ・ドミノスに一時的に加わり、その間ジョージの「All Things Must Pass」にも参加しBeware of Darkness, I Dig Love, Thanks for the Pepperoni, Plug Me Inの演奏に参加します。
そして本人の予想とは裏腹に『Alone Together』は最高位22位、ゴールドディスクとなり、ブルー・サム史上最大のヒットとなるのでした。
アメリカに戻ったメイソンは冒頭に紹介したように、キャス・エリオットとデュオアルバムを制作するのです。
これは1971年2月にブルーサムからリリースされました。
その後、ブルー・サムと関係悪化に陥り、録音したテープを持ち出した末に訴訟の結果は敗訴となりテープを返却。その「Headkeeper」とライブ盤はメイソンの意思に反したままリリースされます。
結局ブルー・サムとは決別し、1973年7月にメイソンはコロンビア・レコードと契約しやっと活動再開するのです。
『Alone Together』が発売されたのが1970年7月ですから、軽率な行動でその後の3年間を無為に過ごしたことは大きな後悔となります。
(その間の1971 年 7 月にトラフィックのライブに一時的に復帰しており、Welcome to the Canteenとしてリリースされる)
It's Like You Never Left
そして同年10月に再起第一弾として「It's Like You Never Left」が発売されます。
再起作として素晴らしい内容でチャート25位を記録し、メイソンはアメリカでソロとしての地位を確立します。
ジョージ、スティーヴィー・ワンダーら大物の参加。そして、以前キャス・エリオットに助けられたもう1人のイギリス人、グラハム・ナッシュが多くの曲に参加し、素晴らしいハーモニーを聴かせます。
頂点と下降線、そして確執
1974年には「Dave Mason」をリリース、ゴールドディスクとなります。
同じ年には前回紹介したフィービー・スノーのアルバムに参加します。
1977年の「Let It Flow」はプラチナディスクと最大のセールスとなり、We Just Disagreeと言うヒット曲も生むのです。
1978年には35万人という観客を動員したCalifornia Jam2に、メインアクトの1人として参加します。
マイケル・ジャクソン、ポール・マッカートニーなど大物との共演ありましたが、これを頂点として彼のセールスは下降の一途を辿ります。
逆に嘗ての同僚で確執のあるスティーヴ・ウィンウッドは80年代に入るとヒットを連発し、セールス的に頂点を迎えます。
残念ながら2人の確執は長年続き、2004年にトラフィックがロックの殿堂入りを果たした際に事件が勃発します。
その辺りは以下にも記載しています。
レオン・ラッセルとの再会
2015年「Mad Dogs & Englishmen A Celebration of Joe Cocker」と銘打たれたコンサートが開催されます。
主催はこよなくMad Dogs & EnglishmenをリスペクトするTedeschi Trucks Band。
ステージにはMad Dogs & Englishmenの当時のリーダーレオン・ラッセルも登場、そしてメイソンはゲストとして迎えられました。そして今はなきジョー・コッカーが歌ったFeelin' Alrightを作曲者メイソンが自ら歌ったのです。メイソンにとっては、レオンラッセルとの共演は『Alone Together』の再現となり、別の意味で感慨溢れる記念日になったのです。
この翌年の2016年11月レオン・ラッセルは逝去。その翌年にはラッセルの遺作を手掛けたトミー・リピューマも亡くなります。
グラム・パーソンズ、キャス・エリオットなどメイソンの支援者は既に他界し、そしてトラフィックの盟友、ジム・キャパルディ、クリス・ウッドもこの世を去り、生き残ったスティーヴ・ウィンウッドとメイソンの和解を望むばかりです。
2020年にはミック・フリートウッド、マイケル・マクドナルド、トム・ジョンストン、パット・シモンズらとFeelin' Alrightを再録。
音楽創作意欲は衰え知らずです。
そして2021年メイソンは『Alone Together』を新たにリレコーディングした『Alone TogetherAgain』をリリース。レオン・ラッセルの息子であるTeddy Jack Russellも参加しました。
50年を経ても、『Alone Together』へのこだわりは消えないのです。
Playlist of Dave Mason from 1967 to 2021
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