見出し画像

この一枚 #20 『Nick of Time』 ボニー・レイット(1989)

スライドギターを華麗に弾きこなし、渋い歌声を披露するボニー・レイット。今やグラミーの常連ともなった彼女だが、80年代はどん底に陥ります。ドン・ウォズと出会ったボニーは、最後の年1989年に大きな賭けに出ます。そして完成した『Nick of Time』がグラミーを獲得し、彼女は一気に飛躍します。本作を軸にボニーの生涯を振り返ります。

バブル崩壊前夜

この80年代のシリーズも10回目となり、89年の本作で終わりとなります。

89年になると自分は2年半勤務したデパートの宣伝部を離れて、広告代理店に転職。バブル末期だが、まだ華やかだった広告業界に身を投じたのです。この年はスティーヴ・ウィンウッドや再結成したドゥービー・ブラザーズが来日。バブル期には代理店に入るとコネでチケットを獲得しやすく、これら公演も放送局を通して良い席がとれたのでした。
翌90年にはバブルも崩壊するのですが、未来のことは知る由もなく、まだバブル気分に浮かれていました。

80年代も後半になると最新を追い求めるデジタルサウンドに疲れて来ると、ルーツミュージック的な傾向に趣味が回帰します。
昔聴いていたサザンロックやブルースロックのルーツである「ブルース」に興味が移り、CDの登場により過去の音源が集めやすくなったことも拍車をかけます。
ブルース熱のきっかけとなったのは日比谷野音で毎年開催されていたミラーというビールが冠だった「ブルースカーニバル」。特に89年は豪華でB.B.キングアルバート・キングのWキングが来日。
確かこの年はバブルの象徴的なハコであるMZA有明でも拡大開催されていました。また1989年にはピーター・バラカン氏の名著「魂のゆくえ」が発刊となり、ブルースだけでなくソウルやR&Bへも関心は発展していくのでした。

グラミーを総なめしたボニー・レイット

なんでブルースの話題をしたかと言うと、今回紹介するのが女性スライド・ギタリストの第一人者Bonnie Raitt(ボニー・レイット)だからです。
ボニー・レイットが80年代の最後の年1989年リリースにしたのが『Nick of Time』です。

起死回生となった『Nick of Time』

それまで質の高い作品をリリースしながらも、商業的な成功を勝ち取ることはなかった彼女の起死回生の一打がこの本作なのです。
1949年生まれのボニーは39歳とアラフォーで、遅咲きながら40歳目前でやっとヒット作を世に送り出します。
10枚目のアルバムにして全米で初の1位となり、5×プラチナの500万枚の売り上げを記録したのです。
実際にはそれまではベスト10はおろか20位圏内もなかっただけに大飛躍ですが、さらに第32回グラミー賞で「最優秀アルバム賞」を、また「最優秀女性ロック・ボーカル・パフォーマンス賞」など合計4部門を制覇したのです。アルバムのみならずタイトル曲Nick of Timeも最優秀女性ポップ・ボーカル賞を受賞したのでした。
ネットもない時代、すっかり忘れ去っていたボニー・レイットが海の向こうでは大人気という情報を読んでもピンと来ないのが正直な所でした。

プロデューサーのドン・ウォズとグラミー賞獲得を祝う

73歳でSong of the Yearを受賞

1971年のデビュー以来マニア受けは良くても、商業的には低空飛行を続けていたボニーですが、『Nick of Time』以降はグラミー賞の常連となります。
そして2023年の第65回グラミー賞では、73歳になったボニー・レイットのJust Like Thatが、主要4部門の一つである年間最優秀楽曲(Song of the Year)を受賞したことは驚きを与えました。
SNSで「年老いたブルースシンガーは誰?」と言うディスりも凄く、長年のファンとしては残念でしたが、それだけ話題でもあった出来事でした。

1971年にデビュー、そして1989年に「Nick of Time」で成功、そしてその後も継続的に活動し、50年以上も継続して充実した活動を続けている稀有な存在でもあります。
1949年生まれのボニーと同世代と言うと、ジェームス・テイラー(1948年)、ジャクソン・ブラウン(1948年)、リンダ・ロンシュタット(1946年)などがいますが、彼らは70年代に大成功を収めており、懇意でもあった友人たちの成功を横目にしつつ臥薪嘗胆の時期でした。
しかし80年代には彼らも最盛期を過ぎ、逆に70年代低迷していたボニーは80年代の最終年に突然開花し、一発屋で終わらず今もトップスターでもあるという唯一無二の存在でもあります。

70年代のボニー

ローウェル・ジョージとの仲

1971年にデビューしたボニーは翌年2枚目の「Give It Up」をリリース。今では名盤として語られていますが、実際のセールスは138位となります。

今や名盤の「Give It Up」も発売当初は不発だった

ボニーはLA出身ですが、学生時代に東海岸へ渡り、ハーバート大学ラドクリフ・カレッジに入学しアフリカ研究を専攻します。タンザニア行きを計画するなど後に政治活動家ともなる萌芽が見られます。
その流れでウッドストック録音となり、エイモス・ギャレット、そしてその後LAに移動するオーリアンズジョン・ホールなどが参加。
Love Has No Prideは、アルバムにも参加したEric Kazとドナルドフェイゲンの妻でもあるLibby Titusの作品だが、ボニーの歌声とドンピシャです。

ボニーもこの後は故郷のLAに戻り、ウエストコースト・ロックに名を連ねます。1973年1月にはリトル・フィートの「Dixie Chicken」に参加。Midnight Specialの映像でもバックボーカルをしています。

この頃からローウェル・ジョージと恋仲となり、次作「Takin' My Time」(1973)はローウェルにプロデュースを依頼します。しかし、公私混同が裏目となり録音は混迷し、ジョン・ホールがローウェルに代わってプロデュースに任命されます。
リトル・フィートのニューオリンズテイストやジョン・ホールのファンキー感覚がミックスされた独自のサウンドが展開される名盤ですが、87位まで浮上し、初の100位圏内となります。
Give It Up」、「Takin' My Time」の2作は今では名盤の誉高いが、セールスは低調でレコード会社からは売れ筋へと路線変更を迫られたのです。

『No Nukes』の仕掛け人

以降の2作はPOPなサウンドに変質を迫られて、彼女らしいブルース感覚は抑制され売れることをレコード会社から強いられました。
その甲斐あってか1977年の「Sweet Forgiveness」はチャート25位と過去最高位となり、カバーのRunawayは57位と初のシングルヒットとなります。

1979年には原発建設反対運動のため結成されたMUSE(Musicians United for Safe Energy)の発起人に、ジャクソン・ブラウングラハム・ナッシュジョン・ホールと共に名を連ね、『No Nukes』コンサートを仕掛けます。
後には米下院議員となるジョン・ホールとはウッドストック時代から音楽的にも政治的にも盟友。
上記4人以外にも他にもドゥービー、ジェームス・テイラー、カーリー・サイモンCSN、ブルース・スプリングスティーン、トム・ペティと当時のトップクラスが参加した大規模フェスでした。

その辺りの経緯は以下に詳しいです。

80年代にはどん底に

スマッシュヒットがあり、大規模フェスの仕掛け人ともなり、上昇気流に乗るかと思われた彼女の音楽キャリアですが、思うようには発展しません。
1979年に次作「The Glow」30位、1982年に次々作「Green Light」38位と逆にセールスは下降し、他の西海岸ミュージシャンのように魔の80年代を迎えます。この時期には日本人のベーシスト小原礼がバックバンドに参加しています。

1983年にリリース予定で制作された「Tongue and Groove」はお蔵入りし、ワーナー・ブラザーズレコードとの契約は解除されます。
それが突然にワーナーの都合で1986年に『Nine Lives 』としてリリースされますが、内容的にも散々で138位に沈むのです。
同時にこの時期はアルコールや薬物乱用の問題にも苦しんでおり、人生のどん底に沈むのでした。

プリンスとの関係

1987年、ライブを観たプリンス(Prince)からコラボレーションの依頼を受けます。プリンスが所有するペイズリー・パーク・レコードでの新作を試みますが、実現に至りませんでした。
その際に、プリンスからスライド・ギターの弾き方を教えてほしいと頼まれ、結局はマスターに至らずサンプリングしたそうです。
その後、彼はCream(1991年アルバム『Diamonds and Pearls』収録曲)でボニーのスライドをいくつかサンプリングしました。
そして後にはボニーのI Can't Make U Love Meをカバーしています。
ジョニ、或いはValerie Carterなど、プリンスが意外にも西海岸の女性シンガー好きなのが伺えます。

Nick of Time;成功への道

ドン・ウォズとの出会い

プリンスとのプロジェクトは頓挫しますが、その後にボニーの運命を変えた男に出会います。
それがドン・ウォズ(Don Was)です。因みにドン・ウォズは芸名で、Don Edward Fagensonが本名です。
今やジャズ・レーベル「ブルーノート・レコード」の社長ですが、ストーンズ等の話題作のプロデューサーとして名を馳せました。

2012年にブルーノート・レコードの社長となったドン・ウォズ

ただ、当時はWas (Not Was)というバンドのメンバーでベーシストでしたが、世に知られた存在ではありませんでした。
Was (Not Was)は1988年にWalk the Dinosaurが最大ヒットとなりチャート7位となってはいましたが、今ひとつブレイクし切れない存在でした。

Was (Not Was)の頃のドン・ウォズ

1988年にボニーは、 ディズニー音楽へのトリビュートアルバム「Stay Awake」を通じてウォズと知り合うのです。
ダンボの子守唄 Baby Mine をウォズが大人向けにアレンジし、レイットをボーカルとして招聘し、Was (Not Was)との共同名義で収録されました。
スライドのソロは勿論ボニーで、ベースはJohn Patitucci 、ドラムはJimKeltner、ギターはPaul Jackson Jrと強力メンバーが固めています。

そして、この録音を気に入ったボニーはドン・ウォズに新作のプロデュースを依頼するのですが、当時はウォズはプロデューサーとしての実績はまだなく、ある種の賭けでした。
当時契約レーベルのなかったレイットは多くのレーベルにデモを持ち込み、キャピトル・レコードと契約に漕ぎ着けるのです。

録音はほぼ1週間で終わり、オーバーダブではなく、ライブのような一発録りだったと言います。
特にリッキー・ファター(ドラム)とジェームス・ハチンソン(ベース)のリズム・セクションは大半の曲に参加し、ボニーとは今日まで録音やツアーを共にする盟友となります。

1989年ビデオ撮影時のショット

Nick of Time

幕開けの曲Nick of Time(A-1)は、普段はカバーが殆どのボニーには珍しく自作曲となっています。
ローランドのエレクトリックピアノをボニーが弾いて、ジェームス・ハチンソン(ベース)、リッキー・ファタール(ドラムズ)にマイケル・ランドウ(ギター)にデヴィッド・ウォズドン・ウォズWas (Not Was)がバッキング・ボーカル(クレジットはSir Harry Bowens)で参加しました。
スライドを封印したソフトなAOR風の曲調に、ボニーの変化を感じたものです。
因みにNick of Timeとは「時のかけら」的な意味で、年齢的にも切羽詰まった彼女の心境も重ね合わせられ、多くの女性の共感も呼びました。

ジョン・ハイアット

最初のシングルThing Called Love(A-2)はジョン・ハイアットの曲。1987年リリースのライ・クーダー、ニック・ロウ、ジム・ケルトナーが参加した名作「Bring the Family」収録曲をカバー。余談ですが4人は後にリトルヴィレッジを結成するのです。
ビデオにはデニス・クエイドが登場し話題に、ヒットの一因ともなります。
ここでは一転、ボニーのスライドが冴え渡りAOR系に日和ったのではないのねと安心します。

その作者ハイアットとの共演映像。

クロスビー&ナッシュの参加

Cry On My Shoulder(A-4)には、デヴィッド・クロスビーグラハム・ナッシュ が参加しています。今や大ヒット作として認知されている本作だが、当時どん底にいたボニーに予算は付かず、ゲストも地味です。唯一の大物がクロスビー&ナッシュだが、彼らとてクロスビーが1985年に銃器法違反で実刑判決を受け、刑務所生活の後、薬物中毒の治療を果たし社会復帰したばかり、CSNにとっても80年代は辛い時期だったのです。

CSNとボニーとの共演映像

Have a Heart

ボニーはカバーの名手と知られ70年代の作品でも多くのシンガーソングライターの名曲をカバーしています。本作でも2曲の自作を除いてはカバーですが、敢えてなのか大物ライターの楽曲はセレクトされていません。ジョンハイアットは多少知られていたものの、全般的には知る人ぞ知る人選です。
ジェリーリンウィリアムズラリージョンマクナリーデビッドラズリー、マイケルラフマイク・リードなどの渋い面々です。
2曲がセレクトされたボニー・ヘイズヒューイ・ルイス&ザ・ニュースのギタリスト、クリス・ヘイズの妹。当初はヒューイ・ルイスが歌う予定だったが、ボニーが頼み込み収録されました。そのうちの1曲Have a Heartはシングルとなり、49位を記録しました。

ハービー・ハンコックとの共演

I Ain't Gonna Let You Break My Heart Again(B-4)にはハービー・ハンコックがピアノで参加し、ボニーと2人で録音します。
今やブルーノートレコードの社長であるウォズでさえ「セッションまでハービー・ハンコックに会ったことはなかったのですが、彼は私の生涯のヒーローでした。」と語り、ボニーも「永遠の天才の一人と〝準備、よーい、ゴー〟とやるほどエキサイティングなことはしたことがなかった」と語るほど、ジャズの巨匠との共演は忘れ難い体験でした。

そして1990年にはライブで共演を果たすのです。その他にもBB King、Bruce Hornsbyなどが登場する凄い映像です。

ファビュラス・サンダーバード

再びボニー本人の曲The Road's My Middle Name(B-5)が登場し、本作は終わりとなります。
ファビュラス・サンダーバードよりキム・ウィルソン(ハープ)、プレストン・ハバード(ベース)、フラン・クリスティーナ(ドラム)の3人が参加したブルースナンバーです。ファビュラス・サンダーバードはハーピストのキム・ウィルソンとギタリストのジミー・ヴォーンが1974年に結成したブルースバンドで、1986年に「Tuff Enuff」をヒットさせました。
ジミー・ヴォーンの弟のスティーヴィー・レイ・ヴォーンロバート・クレイなど、ブルースロックの新世代が元気だったのもこの頃で、そんな背景も本作のヒットを後押ししたはずです。

それほど期待されずに1989年3月にリリースされた本作は、グラミー獲得を経て、1990年4月におよそ1年かけてチャート1位にゆっくりと上り詰めたのでした。
ドン・ウォズ
は「目標は2つありました。まず、自分たちの音楽が流行遅れだということはわかっていました。だから、25 年後に誇りに思えるものを作ろうと考えたのです。もう 1 つの目標は、レーベルの資金を回収して、業界に留まり、次のアルバムを作ることでした。」と本作を振り返ります。

成功の余波

ジョン・リー・フッカー

さらに同年ジョン・リー・フッカーの『ザ・ヒーラー』にもゲスト参加し、I'm in the Moodで、グラミー賞において最優秀トラディショナル・ブルース・パフォーマンスをも受賞したのです。

グラミーに愛されたボニー

その後のボニーの躍進は目を見張ります。

再び、ドン・ウォズと組み1991年にリリースされた『Luck of the Draw』で3つのグラミー賞を獲得し、アメリカで700万枚を売り上げ、ボニーとしては最も売れたレコードとなるのでした。
Nick of Timeをまぐれだったと感じないことを確認したかった」と語るが、一発屋になる恐れを払拭し、地位を確立したのです。

さらにまたドン・ウォズを起用した94年の「Longing in their Hearts」はチャート1位を獲得。
そしてまたもグラミーも獲得し、80年代は契約さえなく彷徨っていたボニーですが不死鳥のように蘇り、不動の地位を確立したのです。
そして驚きの2023年のグラミー獲得。
ここに臼井ミトン氏の解説映像が興味深いので添付します。
カバーの名手で作曲をすることは稀なボニーが、なぜ優れた曲作りに与えられる楽曲賞を獲得したかについて、語ります。

2023年には「Just Like That」で年間最優秀楽曲賞を受賞

ドン・ウォズもこの成功によって一躍売れっ子となります。
なんと言っても1994年リリースの「Voodoo Lounge」から始まるローリング・ストーンズの一連のプロデュースが有名です。
ウォズの貢献は2016年の「Blue & Lonesome」まで続き、ストーンズからの信頼は絶大でした。
2012年にはブルーノートの社長に就任し、まずウェイン・ショーターを再びブルーノートに復帰させるなどの手腕を発揮します。

Nick of Time』 は80年代の荒波に揉まれ続け、沈没寸前だった2人のターニングポイントとなったのです。

グラミー獲得を祝うボニーとウォズ

1992年にはボニーは2度目の来日。意外にもNHKホール、中野サンプラザで2回と当時の勢いから考えると少な過ぎの公演だった。自分もチケットを買ったが仕事で行けずに終わったのです。後悔しても仕切れない出来事です。
日本では意外なほど不人気なボニーなので、次の来日は期待できないので、彼女の姿を眺めることは不可能でしょう。


この記事が参加している募集

#思い出の曲

11,380件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?