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その問いに自然は応えない

分け入っても分け入っても青い山

とは種田山頭火の詩だけど、世を捨てた放浪の身で各地を旅したその足跡は、お酒と生きる苦悩にまみれながら、それでも俗世を愛そうとした生活の過程であり、その姿は自然体そのものだったのじゃないかと想像する

「自然体でいる」

これは演劇だけでなく、広く一般的によく使われる言葉だとして、
ただ、その「自然体でいる」ということがぼくはよくわからなくなる時があり、そういう時は山の中に入る
山バカでもうしわけないけど、自然の中に囲まれて過ごしたら、自然体のことも少しはわかるかもしれないと思いつつ、登山をはじめて10年くらい経った

自然体の自然ってなんだろう
いろいろ調べてみると、自然体とは、体または心がありのままでいる状態であり、柔道や剣道では、体の力を抜いて自然に立つ基本姿勢である、とたいていそんな感じのことが書いてある
ここでまた疑問なのが、「ありのまま」でいる状態ってなんだろうということと、「自然に立つ」ということがそもそもわからない
言っている意味や文脈もわかるし、一般的にはそういう認識なんだということも理解はできるけれど、納得はしづらい
今までヨガや神楽や少林寺の型など、他にも演劇にまつわるさまざまな身体に関するメソッドをやってきたけれど、体感として「自然に」ということがしっくりきたことはほぼない

「自然体でいる」ってなんだろうか
いわゆる大自然の自然とはちがうのだろうか
何を指して、どんな基準でもって、ありのままなんだろうか
ありのままでいる人間って字面だけ読んだら相当ヤバいやつじゃないだろうか
そもそも人間が自然で居られることなんてできるのだろうか

考えてばかりいてもしかたないので、山に入る
山バカでもうしわけない
山は街中よりは自然な状況が比較的豊富にあると思うので、時間があるときはなるべく山の中にとどまるようにしている
ぼくの中の「自然」は「人間の都合通りにいかない状況が続く状態」と定義しているので、山登りは自然を味わうのに適っている

山は都合通りにいかないことだらけだ
まず言葉が通じない
ぼくはいつも一人で山に入るので、誰かとしゃべりながら登ることはほとんどない
山が相手なのでもちろんジェスチャーも通じない
カメラを向けてもピースで返してくれることはない
そもそもコミュニケーション自体が成り立たない
「おーい、山よ、道を教えてくれ〜!」と叫んでもシーンとした静寂しか返ってこない
鹿や猪はそそくさと向こうから逃げてしまうので、野生の動物と意思の疎通ができたことはまだ一度もない
深夜の谷間に響く物音はとても怖いし、闇はどこまでも深い
たまに筆舌しがたい状態にある大型動物の死骸に出くわすときもある
冬はとても寒いし、山頂の突風は目も開けていられない
夏は暑く、標高を上げると太陽が近くなるので日焼けもばかにできない
食料は限られた分しか持ち運べないので、消費カロリーを気にしながら、歩くペースと体調を計りつつ移動する
天候はコントロールできないので、山頂に着いた途端大雨に降られてビショビショになることもある

だから山では、自分の思い通りに都合が運ぶことはほとんどなく、山の都合にこちらが合わせて、おじゃまさせていただくというスタイルになる、少なくともぼくの場合はそうなるように努めている
それでも自分が無事に帰ってこられるくらいの装備を用意して山に入るので、自然の中にあって、最小量の不自然(人間の都合)を持ち込みつつ、最低限自分の身を守るための都合を通していることになる
これはもうしかたがない
一番避けたいのは、山での遭難と、自分が死んでしまうことなので、そうならないように準備をしていかざるを得ない

そういった自存のためのルールを守りつつも、自然を味わうとか言っていることに、ささやかな矛盾を感じるけれど、そのあたりのちぐはぐさは自然と人間の関係をあらわすのには無視できないところかもしれない
谷間をぴょんぴょん跳ねる野生の鹿のように、上着も登山靴もはかず、落ちた木の実を口いっぱいにむしゃぶりながら、生まれたままの姿で山間をぴょんぴょん駆けまわってみたいが、そういうことはいささかむずかしいのが人間の都合だ

もともと自然から生まれた動物であるはずの人間が、自然と向き合うときには他の動物や植物のように「ありのまま」で居られないのはどうしてなのだろう
人間は自然の一部なのか、それともそうでないのかということを考えているときに、ある企画で森の中で全裸になる機会があった

森の中で全裸の男が「ハムレットマシーン」という戯曲のセリフをしゃべり、それを動画に撮るというものなのだが、森に入り、手頃な場所を見つけ、スマホを固定してから服を脱ぎはじめると、得体の知れない違和感が全身に走りはじめた
ぼくはふだんからわりと脱ぐほうで、人前で脱ぐのはとくに躊躇しないし、大学生のころは街中でも嬉々として脱いではしゃいでいた類の人間だ
それが誰もいない森の中で肌をさらしてみると、とても不快で嫌な気分になってきた
足裏から伝わる土の冷たさや小枝の感触、まわりを取り囲む杉の木の固い皮肌、夕暮れの湿った空気、遠くで鳴くカラスの群れ
そういったことから身を守るものを自分はいっさい身につけていないという状況が、とても恐ろしくなった
まわりを飛びまわる小さな羽虫でさえ自分を傷つける脅威に感じた
家から歩いて3分ほどの、近所の裏山の森の中でさえ、自分は裸で生きることはできない
ここで生きていくには、この身体はあまりに、あまりに脆弱なのだ
その時ぼくは、人が森の中で裸でいることの不自然さを知り、「人間はもう自然には還れない」と勝手に理解し、納得してしまった

人間は自然の真っ只中で生き抜くことはもうできないのだとしたら、人間はもう自然界の生物にはあたらないのだろうか
個々の都合などおかまいなく、食って食われるあの生命の大きな循環の中に、人間はもう参加していないのだろうか
参加していないとしたら、いつからなのだろう
少なくとも今のぼくは、その生命の循環の輪に参加してはいない
ぼくが自分の力で鹿や猪を獲って食べたりすることはないし、そのぼくの血肉によって近所のイタチやタヌキが腹を満たすこともまずない
そもそもぼくの住んでいる三重県中部は杉や檜の植林だらけで、原生林はもうほぼ残っていない
緑豊かに見える土地も、Google Earthで見れば丘の向こうはゴルフ場だらけだ
人間はもう自然の一部ではないのだろうか
はたしてぼくの求める自然はどこにあるのだろうか

そうしてやっぱり山に入る
近所の裏山には無名の山林が広がっている
裏山には薪取りのために来ることはあっても、そのさらに奥に分け入ったことはなかった
不気味で怖いからだ
どこにつながっているかもわからないし、何が潜んでいるかもわからない
暗い海の底をのぞくような、そんな不安が森の奥から感じとれた
道のある山ならふだんから登っているし、地図も発達しているので、さ迷うことはほとんどない
たとえ間違えても、もとの道に戻ってさえ来られればまた登山を再開できる
でもこの裏山には道がない
道がないのでどこをどう通るかはその場で決めるしかない
倒木があれば避けるし、小川があれば渡るしかない
人気はまったくなく、森が頭上からおおいかぶさり、空はほとんど見えない
標高と方向感覚が狂い、どこを向いても同じ景色に見え、進んでも進んでも自分がどこにいるのかがわからなくなる
頭の中がぐるぐるとまわりはじめ、下腹あたりがきゅぅとしめつけられる
そして、こらえがたい寂しさに襲われる
自分はいま迷っている
ここがどこだかわからない
何をやってるんだおれは、と自問自答をくり返すうち、体中が汗だくになりどっと疲労が出はじめた
ところが顔だけはじょじょにニヤけてきた
息はあがっていたけれど、夢中になって山中をさまよった
手に触れるもの、足で踏みしめるもの、すべてが新鮮で、気がつくとぼくは何か言葉のようなものをしゃべっていた
誰にともどこにでもなく、口から出まかせでしゃべり続けていた
一瞬気が回って、持っていたスマホで映像を撮りながら歩いたけれど、後で見返してみてもよく聞き取れず、何を言っていたのかがよく思い出せない
とにかく夢中だった
この先に何があるのだろう、そこで自分はどうなってしまうのだろう、まだまだ歩ける、もっと見てみたい、もっと、もっと
ニヤけた顔が笑い出し、雄叫びを上げながらたどり着いた丘の上からは、きれいに刈られた芝生と丸い池のあるゴルフ場が見えた
ぼくの裏山の旅はそこで終わった

いったい「自然」とはなんなのだろう
いろいろな捉え方があるだろうし、あまり大風呂敷を広げてもぼくの知恵熱がただパンクするだけなのだが、

生物学的に見れば、人間は自然界の一部であり、他の動植物と変わらない地球上の数ある生き物の一種だ
しかしながら、人が「自然」と言う時の自然は、たいてい社会的・文化的な意味を含んだものであり、生き物が積み重ねてきた進化や本能とは直接は関係のないものだろう
「自然体」でいることも「ありのまま」でいることも、ある特定の状況下でのふるまいの仕方であり、コミュニティが変わればその基準となる条件も変わるので、かなりあいまいなものだ
日本人の体現しようとする「自然体」と、アマゾンの奥地に住む少数民族の「自然体」はちがうだろうし、一神教信者の多いアメリカでの「ありのまま」でいることと、多神教信者の多いインドでの「ありのまま」は意味がちがってくるのだろう
地域によって自然の定義は変わり、あらゆる宗教や土着の信仰は厳しい自然界を生き残るために、自然にまつわる物語をそれぞれの場所で創り出してきた
人間はその物語に寄りそうことで、コミュニティを結束し生き残ってきた
国も国境も法律も、科学も芸術もその物語の一部だ

生物としての自然界がある一方で、人間が創造した概念上の自然界(自然観)があるとして、では人間の営みはもはや生物としての自然界から外れたものなのだろうか
たとえば一企業の利益のために自然環境を破壊するような、自分たちの都合だけを押し通すような一部の人間の行動(物語)は、もはや自然と対立するような、不自然なことなのだろうか
しかしたとえ不自然だと思われる人間の行動も、長い目で見れば大きな自然界の流れの一部に過ぎないと見ることもできる
1世代か2世代の間のことだけで考えるなら、深刻な環境破壊や過敏な自然保護も、自分たちの生命活動を脅かすものであれば、生活や利益を守るために積極的に自然に介入し、あわよくばコントロールしようともする
だけど、1000年とか10000年の長大なスパンで考えたとき、そういった人間の、一見自然と対立するように思われる行動も、大自然というシステムの中のとるにたらない一片として、大いなる予定調和のひとつとして流れていきそうな気もする
そう考えると、しっかりと登山靴を履いて身を守りながら山を登る行為も、農薬を使った栽培による食糧生産も、宇宙に進出して月の地面を領地として線引きするのも、程度の差はあれ、他の動植物と同じように「生きたい」からとっている行動に他ならないとすれば、それら人間の営みは、至極まっとうな自然の営みであるとも言えるかもしれない

人間という生き物は自然なのか、そうでないのか
やはりとてもちぐはぐな関係だと思う
文明を築いて自然界から家出をし、自立した大人の顔をしつつ自然をコントロールしたい一心を持ちながら、延々と自然界に養ってもらっている子どものような、そんなぼくら人類が、まだ自然の輪の真っ只中にいたであろう原始的な生活に戻ることはおそらく無いので、このちぐはぐな関係は今後も続くと思われる

それでも、いつまでもちぐはぐなのはちょっと気持ちがわるいし、悩んでばっかりだと疲れちゃうので、ぼくなりに自然と人間をへだてているものはある、ということにしている
それは道だと思っている

道は自然と人間をへだてる境界線だ
道の上を歩く限り、人間は人間でいられるけれど、道を外れると人間ではいられなくなっていく
文学的な比喩や例えではなく、本当にそうなんだろうと思うことにしている

知っている道を歩いている時はどうってことはないが、
道に迷うと不安で一人になった気がする
知らない街や山奥だとなおさらで、すごい孤独感を味わうことになる
それでも無事に帰ってこられるのは、家までつながる道があるからだ
街は入り組んでいるとはいえ道だらけだし、日本のほとんどの山には登山道があるので、そこから外れなければたいてい無事に帰ってこられる

でも道から外れて、さ迷ってしまうと話は違ってくる
道がなくなると、ぼくはどうしたらいいのかわからなくなる
進むべきか戻るべきか、自分の居場所がわからなくなって、不安でしかたない
その寂しさは、ただ道の上で迷うのとは比較にならないほど深刻だ
なので、道から外れたら戻って来られるほうがいい
道に戻って、家に帰れれば、好きな人とご飯を食べたり、わいわい酒を飲んでしゃべったり、友だちとたまに悪いことをして楽しんだり、自分の好きなことだけやってまったりする環境がある
ぼくはそういう、人と人との関わりをより良く続けられるような人間でいたいから、人が歩くであろう、みんなが居るであろう道には戻ってきたい
もし道を外れたまま帰ってこられなくなると、そのお気に入りの場所に戻れなくなる
それはぼくにとっては、ぼくがなりたい人間ではいられなくなる、ということになる
ぼくにとっての「自然」は、誰の味方にも敵にもならず、大きな声を出しても耳をかすような慈悲をもたない存在であり、自由も束縛も平等も道徳もなく、人のための都合が通らない、人間が人間として居続けることができない環境、と定義している
だから、道を外れたなら、できるかぎり早めにもとの道に戻りたい

それでも、道を外れることへの期待と欲望はまったく持っていない、とは言いがたい
道を外れることにはとても大きな魅力がある
いわゆる外道だ
聖人君子で居続けることは正直しんどいし、たまには人の道から外れて非道のかぎりを尽くしてみたい、とまでは思わないまでも、先人たちの道徳に支えられた倫理観は、あくまで人間の創造の産物であって、正道や王道を進むことから外れてしまう人間が必ず一定数いることは、古今東西の歴史が証明している
その一定数に自分が入ることはないとは思わないし、進んでそのマイノリティに入るべき時もあるだろう
その道が本当に進んでいい道なのかどうか、外れたところから見てみるとその道の全容がわかることもある
なので、道を外れて危うい散歩をしてみることも、たまにはありだと思う

ただし、道を外れ過ぎた場合、足跡も見えない闇の中を手探りで進む不安の中、ばったり誰かと遭遇してしまった時の恐怖と言ったらない
でもそんな時、向こうの人間の顔も自分と同じようにたいてい恐怖にひきつっている
出会うはずのないところで出会ったけれど、相手も似たような理由と境遇を求めて、闇の中に分け入ってきた同類なのだと思えば、どれだけ道を外れても一人じゃないんだと安心しつつ、またさらに奥へ奥へと分け入ることができることもある
人の寄りつかないその闇の先へ進んだとき、自分はどうなってしまうのか、しゃべる相手がいなくても言葉はまだ必要だろうか、触れ合う相手をもたなくなっても皮膚はまだやわらかく自分を包むのだろうか、人との繋がりをもたなくなったとき、ぼくは自分の名前を思い出せるような人間でいられるのだろうか

だけどやはり、さいごには道に戻って、家に帰りたい
人間をやめる勇気は、今のところぼくにはない

どんなに未開で辺境な地に居ても「おれは人間だ」と言えば、人間で居ることはできるかもしれない
でもそれを証明するには、「そうだ、あなたは人間だ」と応えてくれる相手がいないと成り立たない気はする
「自然体」でいることを認めてくれるのは同じ人間だし、「ありのまま」でいてほしいと願うのもまた同じ人間だ
人間は一人だと人間にはなれない
では人間を人間たらしめているものは何なのか
それが知りたくて演劇を続けているけれど、未だにくっきりとした答えが出ない
応えてくれる本も人もたくさんいるけれど、自分たちを生んでくれたはずの自然は、あいかわらず黙ったまま知らんぷりをしている

だから、ぼくは今日も山に入る
いつか雷に打たれて悟りを開くことがあるかもしれないし、道に迷ってオイオイ泣きながら誰かの名前を叫んでいるかもしれない
本当に山バカでもうしわけない

小菅紘史



小菅紘史の記事はこちらから。
https://note.com/beyond_it_all/m/m1775a83400f9


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