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怖がったところでどうしようもないので、とりあえず口に出してはしゃべってみる、投げてみる、待ってみる

去年の末から鳥取県で滞在制作をしている
鳥の劇場は、鳥取県鳥取市鹿野町にあり、廃校になった小学校と幼稚園を劇場に変えて、2006年から演劇活動をしている劇団だ

初めて鳥の劇場の作品を観たのは、20年以上前、富山県利賀村の演出家コンクールで鳥の劇場(当時の劇団名はジンジャントロプスボイセイ)が最優秀賞をとった時だった
その後、彼らを追うような形でぼくも東京を離れ、三重県の里山で活動するようになった
だから鳥の劇場は大先輩というか、東京ではない地域を拠点として芸術活動をするモデルとして、憧れの存在でもあったので、そんな場所での滞在制作は楽しくないわけがない

制作作品はロシアの作家アントン・チェーホフの戯曲「三人姉妹」
すでに本番を迎え、このnoteを書いている時点で、全18回の公演は残すところわずかになった
劇団員たちは車で離れたところに住んでいるが、客演の役者たちはそれぞれ劇場近くの空き家を与えられているので、週一回くらいのペースで集まって呑んでいる
OEK(おじさん演劇人会議)と名づけられたその集まりは、夕方から呑み始めて気がつくと深夜になることもあり、とても盛りあがる
呑みに限らず、ぼくたちはずっと演劇の話をしている
それぞれちがう劇団にいながら各地域で活動してきたベテラン俳優たちなので、ぼく自身よくわかってないことでもとりあえずポンと投げてみたら、おもしろいかどうかに関係なく、とりあえずその話を叩いたり伸ばしたりしてくれてとても楽しい(本当におもしろくないときはしっかりけげんな顔をされるので手厳しい)
座組の中では自分が年下だが、年上の俳優たちといると、ふだんとはちがう自分の発言や行動が出てきて驚くこともある
OEK(おじさん演劇人会議)のような居ごこちのいいメンバーが集まることは、たぶん今後しばらくはないだろう
年をとってきて本当によかったと思うし、頼もしい共演者たちといると、年をとるのが楽しいと思える

一般的に年をとることにはいいイメージがあまりない
“アンチエイジング”や蔑称をこめた”おじさん””おばさん”という言葉からは年をとることへの嫌悪や恐怖のようなものがこびりついていることがある
一方で、”最近の若者”に代表されるような、年をとってないということを、未熟なものとして、まだ何もわかってないものとして早々にカテゴライズしてしまうことにも、やはり似たような嫌悪や恐怖を感じる
おじさんも最近の若者も、言葉による理屈としてはどっちもどっちだ
おじさんはかつて最近の若者だったし、最近の若者はやがておじさんになる者たちだ
どちらもその定義が曖昧なゆえに、使い方が雑になることがある
年上のよくわからない人たちはおじさんでまとめられ、年下のよくわからない人たちは最近の若者でまとめられるが、はじに寄せて安心したところで実体は不明のままなので、お互いに謎は深まるばかりだ

おじさんと若者たちの衝突とすれ違いは大昔から繰り返されていることなので、たぶんこれからも同じようなことは起こるのだろう
ただ衝突してるぶんにはまだマシなのかもしれない
若い人たちの芽を摘むのは、おじさんたちの圧力による影響というよりは、若い人自身の「おれはもう若くないから・・・」という妙に達観めいた愚痴とため息だ
成人を迎えた若い人が「20歳こえたらもうおっさんだよ」とため息まじりに達観してるのは、たぶんそういうことを言う大人が身のまわりにいたのだと思う
彼らはおっさんというものが実際にどんなものかを知らずに、自分がおっさんになる準備をはじめている
そのうち「いいなぁ、若いからなんでもできるだろ」と年上の人が話しかけてくることになるのだが、
ぼく自身、今でもたまに年配の人から言われる言葉だけれど、若いからなんでもできると思っている若い人はたぶんいない
若い人は基本的には何もできないから苦しい
若さとは、できることとできないことの差異を自覚しきれないまま、葛藤し悶えることだ
未来への可能性があるということと、数ある選択肢の中から自分の未来を選びとる能力は別のものだ

ぼくはいま41歳なので、若者なのかおじさんなのかいまいちよくわからないところにいる
10代の人にとってみればおじさんかもしれないが、里山にごろごろといる屈強なじいさんたちからは若者と呼ばれてしまう
つまり未熟で、まだ何もわかってない者ということになる
若いのかおっさんなのか、どっちかでいようとするとしちめんどくさいので、どっちもどっち、ということでひとまずかんべんしてほしい

地元でがんがん畑を耕す年配の人たちを見ていると、年をとることへのネガティブなイメージが薄れていく
未来は若い人たちのもの、というよりは、未来は現在進行形で生きるエネルギーを持ったこのじいさんたちのものでもある
だから、若い人にさまざまな可能性があるのはいいとしても、若くない人にはもう可能性がないという世界にはなるべくなってほしくないと思う

いま一緒にいる座組の共演者たちには、そういった年齢を背景にしたネガティブなイメージはほとんどないし、かといってポジティブな雰囲気も特にない
年をとることと技術の向上が比例しているのは当然としても、彼らは好奇心や疑問点を持つことへのアンテナのとり方がとても広いので、可能性という面では若い人たちのそれよりも広大に思える
そして深い
演劇というものは必ずしも良いものではないし万能でもないということをよく理解した上で、人前に身をさらしながら汗をかく共演者たちに、ぼくは”若さ”で言うところの葛藤し悶える姿を重ねている
わかったふりもせず、わからないままにもできず、自信に満ちた顔をしながら舞台上であっという間に身悶えする彼らには、年を経ているにもかかわらず悲壮感というものがない
かといって満足感もない
自分が若者なのかおじさんなのか、彼らは自分自身でもよくわからないまま舞台に立っているのだろう(たぶん)
役者に年齢不詳の人が多いのはこのためかもしれない

役者にとって自分の演じるであろう物語の登場人物は、他人だ
その人物の背景も、主義主張も、喋る言葉も、基本的には知らない人間のものだ
役者自身のことではない
でもその人物を演じるというので、どうにか(もしくは、なんとなく)その人物に見えるように、いろいろな思いつきや技術や演出の助けを借りて舞台に立っている
他人の人生を物語るので、役者本人の我のようなものは強すぎるとうるさいし、弱すぎると誰がしゃべっているのかわからなくなる
そのさじ加減の調整にいつも役者は悩まされるわけで、“自分はこういう人間だ”というこだわりを持つことは、自信があっていいことのように思えるが、自分は変化を求めないという宣言にも受けとれる
なので、ふだんから自分は若い、あるいはおじさんだという認識をつよくもっていると、それが役づくりの助けになることはあるが、じゃまをしてしまうときもある
一方で、さじ加減だバランスだなどと言ってると、いつまでも観念の域を出ず演技がパッとしない
毎度思うことだが、役者がやろうとしていることは本当に特殊なことだと思う
少なくとも、いろいろな役柄を通して、その他人の言動に身を寄せるとき、“自分はこういう人間だ”というこだわりは演技においては裏目に作用する場合のほうが多いように感じる(ぼくにはそう見える)

「三人姉妹」にはさまざまな年齢の人物が出てくる
職業も背景も思想もばらばら、見事なまでにばらばらだ
そして、この作家の描く人物は、言ってることとやってることにズレが起こることがある
口に出した言葉とその人の心情が必ずしも一致するとは限らないのだ
今でこそ、そういう人物描写は当たり前のようだけれど、「三人姉妹」が発表されたのは1901年なので120年ほど前のこと
近代的自我における人間の行動を、チェーホフなりの解釈で描きあらわそうとしたのだろうかと想像をめぐらしてみるがくわしいことはわからない
チェーホフの描く言葉と行動のズレは一見本を読んだだけだとよく理解できない
文字情報だけを追っていると何が起きているのかちんぷんかんぷんになることがある
なので、実際に役者の身体を通して芝居を立ち上げていく中で、改めて見つけていくことになるのだが、それでもわからないことだらけで謎は深まることが多い

そういった場合、役者がやれることとしては、その場で起こる出来事に対しては生理的に反応はするけれど、自分の挙動や言葉に対して肩入れしすぎず、ある程度突き離した距離感も待つことになるだろうか
チェーホフの戯曲をやる場合は、とくにこの距離感のレンジを広くとらざるをえないように思う
しかしながらそれも演出によってはガラリと変わるだろうから、これはあくまでチェーホフの描いたものを演技にのせるさいの、ぼくなりの導入部でしかない
ほかにいいやり方、おもしろいやり方があれば知らせてほしい

「三人姉妹」は都会に憧れて田舎でくすぶってる人たちが欲にまみれながら自分の言いたいことばかりしゃべっている話だ(すごく乱暴にまとめると)
たまに意味深なことを言うけれど、たいして何も起こらない
さいごに姉妹たちが「生きていかないと」といきなり前向きなことをしゃべり出すが、ちょっと何を言ってるんだかわからない(ぼくにはわからない)
上演に参加している身でありながら、さいごのその場面がはじまるとぼくはいつも頭にクエスチョンマークが浮かぶ
生きていきたいなんて、本当に思ってんのかこの姉妹は?と
ぼくがそういうフィルターで観てしまうのは、これは先に書いたチェーホフの戯曲の言葉が人物の心情と乖離しているものだと、戯曲レベルでぼくがそう思っていることによるものなので、その場の演出と役者の演技は基本的には関係ない(基本的には)

言葉にすること、つまり言語化するということは、ある現象を切り取って分類していくことだとすると、知っている言語に収まるものがある一方で、収まらないもの(言葉にならないもの)も出てくる
チェーホフのセリフには、その言葉にならないような、しゃべっている本人ですらわかっていないようなことが、登場人物たちのやりとりの中に見え隠れすることがある
私はこう思っている→私はこうしゃべる
というより、
私はこう思ってない→私はこうしゃべる
というような回路が、人間関係のあっちこっちで多発するので、複雑なジグソーパズルと向き合うような感覚におちいる
もはや自分がしゃべっているのか、しゃべらされているのか、誰のための、誰に向けた言葉なのか、ふわふわとしてよくわからなくなる

では、チェーホフのセリフは、誰のためでも、誰のものでもない言葉として扱えばいいのだろうか
あれかこれか、白か黒か、私かあなたかのように、分けて測れるようなものではなく、どっちなんだよというモヤモヤした感じがずっとついてまわるような、宙ぶらりんの状態で語ればいいのだろうか

それが日常生活でのことなら、ぼくにとってほとんど違和感はない
ぼくはしゃべる内容をその都度決めてないし、しゃべりだしてから自分の想いに気づくこともあるし、動こうと思って動いてない
国籍や人種や所属は決まってるけど、生きてること自体にはそもそも意味はないと思っているので、状態としては宙ぶらりんだ
ただ舞台作品として、見せものとして、演技として人間像を構築するとなると話は別になる
生きてることには何かしらの意味があり、私とあなたを区別し、言葉を使って文脈を生み、伝えることの無力さと伝わらないことの価値に一喜一憂し、げんなりしたり、幸せを感じたりする
さまざまな色の点や線や層が複雑に入り混じり、ぼくという人間を成立させようとしているとしたら、まさにどっちなんだよという割り切れない状況だが、どんなに矛盾しててもぼく自身には問題がないのだからそれでかんべんしてもらいたい

チェーホフの戯曲の難解さの一つには、その割り切れなさというものがあると思う
そして人生の割り切れなさを描くのなら、その影響はとうぜん言葉の割り切れなさにも至る
言葉は物事を名づけ、分類し、区別する
当たり前のように使っている言葉にぼくという人間は規定されている
しかし言葉に規定されない未分のままのぼくもいる(それを自分で確認することはできないけれど、未分であることは必要であり重要なことだ)
チェーホフは戯曲の中で、言葉が規定するものと言葉に規定されないもの、その間に漂う人間の、どこまでいっても割り切れない人生を思い描いていたのだろうか
だとすると、先に書いた若者とおじさんの摩擦も言葉の割り切れなさによるものだと思えてくる
成年未成年の区別のように社会的に必要だから決められたルールではないゆえに、若者とおじさんの境界線がどこかを、正確に、明確に答えられる人はたぶん誰もいない
答えがないゆえに、言ったもん勝ちみたいなところがある
しかし言った方と言われる方、そうかんたんに割り切れるものでもない
これもやはり言葉の問題なのだろう

人として生きてる限り抜け出せないという意味で、言葉は牢獄のようなものだと思う
言葉の檻とどんな距離をもって付き合うのか
こんな能天気なことを書いている時点で、ぼくはぼくという牢屋をつくって自らを規定している
役者をやっていると、いろいろな人間や人外を演じることがあり、言葉とそれに影響されるものとの関係性に対しては敏感になる(人による)
怖がったところでどうしようもないので、とりあえず口に出してはしゃべってみる、投げてみる、待ってみる
そして割り切れないというところでいつも立ち停まる

鳥の劇場の三人姉妹は最後にこんなセリフで締めくくられる

「それがわかったらね」
「おんなじことさ、おんなじことさ」

次回のOEK(おじさん演劇人会議)で話そうと思っていたことだけれど、千秋楽を迎えたらこの座組は解散になる
また同じメンバーが集まることはおそらくないだろう
本当に楽しい3ヶ月だった


小菅 紘史



小菅紘史の記事はこちらから。
https://note.com/beyond_it_all/m/m1775a83400f9


読んでくださり、ありがとうございます。 このnoteの詳細や書き手の紹介はこちらから。 https://note.com/beyond_it_all/n/n8b56f8f9b69b これからもこのnoteを読みたいなと思ってくださっていたら、ぜひサポートをお願いします。