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それを踊りと呼べるまで⑧ 「おせっかい」を踊りと呼べるまで ~播州音頭踊り活性化プロジェクト~

公益財団法人 京都市芸術文化協会が毎年公募している「伝統芸能文化復元・活性化共同プログラム」というものを皆さんご存じだろうか?

このプログラムは京都市と、京都の伝統芸能アーカイブ&リサーチオフィス(通称TARO)、そしてその年の採択団体が共同で行うプロジェクトで、対象は京都のみならず、全国の伝統芸能団体が申請することが出来る。

そして実はこの度、私が代表を務める京極WORKSは、「社(やしろ)・東条を中心とした播州音頭(ばんしゅうおんど)踊りの継承と発信プロジェクト」という名前で、兵庫県 加東市の社と東条という地区で「播州音頭」という民俗芸能を継承している二つの保存会が行うプロジェクトを、加東文化振興財団と共同でお手伝いさせてもらうことになった。

プロジェクトの内容はメンバーの高齢化と継承者不足で失われつつある、播州音頭の音声と踊りの映像を記録し、アーカイブ化すること。
そして新たな継承者を見つけるべく、ワークショップを行ったり、冊子やPR映像を作成するというものだ。

そもそもなぜ私が、この播州音頭というものに出会ったのか?
そしてなぜその保存と継承を手伝うことになったのか?
今回はそんな話を書いてみようと思う。
その行程の中で、今月で東京から兵庫の田舎に移住して6年目を迎えた私の、創作に対する心境の変化や、生き方そのものの変化の兆しを、言語化できればと思う。

それは、簡単に言ってしまえば「自分のために」から「誰かのために」という思考の変化とも言える。

「誰かのために」と言うと聞こえがいいが、私は何も急に、聖人になったわけでもなければ、欲が無くなったわけでも全くない。
寧ろ「自分のために」生きやすい方、やり易い方へ向かった結果、たまたま「誰かのために」繋がっていた、というのが正しい。
或いは「自分のために」頑張る事に限界を感じ始めたというのが、正直なところかもしれない。

その契機は実は三年前、2019年頃からあった。
その年は、私が播州音頭に初めて出会った年であると同時に、私のキャリアの中でも、最大規模の大きな舞台の演出をした年でもあった。

< 2019年 東京>

東京芸術祭 アジア人材育成部門APAF 2019(アジアパフォーミングアーツファーム)のプログラムの一つ、APAF Exhibitionの演出家として、私はフィリピンの演出家と共同で、アジア5か国のパフォーマーと共に新作を創作し、東京芸術劇場で発表した。

『ASIA/N/ESS/ES』「複数の“アジア人らしさ”たち」と訳せるタイトルを冠したこの公演は、アジア各国を繋いだ数カ月のオンラインミーティングと、日本での一か月のリハーサルを経て作られ、コロナがまだ蔓延していない2019年の秋、公演ラッシュで沸く東京のド真ん中で上演された。

この作品に纏わる話を書き出すとキリがないので、今回は割愛するが、とにかく私はこの作品に膨大なエネルギーを注ぎ込み、全てを出し切り燃え尽きた結果、出演者でもないのに5kgほど痩せた。
そして思いがけず、一つの “答え” に辿り着いてしまった。

それは自分の今までの頑張りは、どこか全てが「自分のため」にあったのではないか?という事。つまりは究極の「自己満足」だったのではないか?という事実に、改めて直面したのである。

『ASIA/N/ESS/ES』@東京芸術劇場 Theater WEST

もちろん今まで、そんなことは分かっていながらやってきたし、それだけでなく観客のため、出演者のため、舞台芸術の発展のため、「誰かのために」と思って頑張って来たのも事実だが、公演を終えてアジア各国へ帰っていく出演者たちを見送ったのちに歩く東京の雑踏の中で、私は急に虚しくなった。

自分のため、究極の自己実現、自己満足。
それが無ければここまでのエネルギーは出てこなかったし、ここまで辿り着くことは出来なかった。
しかし、昨日までの公演の事を、この交差点を行き交う人々は何も知らない。
「誰かのために」の、その「誰か」は、私の目の前にはいなかった。

ずっと、そんなもんだと思ってきた。
世界の様々な国、都市で踊ってきた私にとって、出会いと別れは必然で、それに慣れてきたつもりだった。
ただこの時は、大きな公演に関わったことで改めて、今までとは違う質、違う規模での虚しさが押し寄せてきたのだ。

今までの自分を否定するわけではない。
けれどこの先、私は、自分の身近な人のために、目の前の人のために何ができるだろうか?そう思った。
兵庫県の田舎に移住して2年が経っていた当時の私にとって、兵庫の家の目の前にいるおじいさん、おばあさんは、実は近くて遠い存在だった。
果たして、この人たちのために、自分は何が出来るのだろうか?今までの自分はどう通用するのだろうか?
私の興味はそんな方向に傾いていったように思う。

< 2019年 兵庫>

時を同じくして2019年、私は兵庫県加東市で加東文化振興財団が主催する、地域の伝統芸能発表会『新緑の宴』の総合演出を務めさせていただくこととなった。

これはひょんなことから繋がった縁で、私の住む兵庫県神河町から車で一時間ほど離れた、加東市でバレエスタジオDANCE with がいあを経営されているバレリーナの藤井敬子さんと、私の奥さんの伊東歌織が出会い、さらにそのスタジオの発表会に、私と奥さんがデュエット作品で出演した際、それを観客として見ていた加東文化振興財団の方が、私達夫婦に声を掛けてくださり、実現したものだった。(一息で書いたが、ここまでに一年以上の月日が流れている)

毎年行われている伝統芸能発表会がマンネリ化しつつあり、出演者も高齢で、観客も関係者ばかりで、知り合いの発表だけ見て帰ってしまうという事態が続いているのを、なんとかしたい。
そう考えていた財団の職員の方から相談を受けた私達夫婦は、とにかく出演者の方々のリサーチから始め、演出を考え、奥さんはコラボ出演、バレリーナの藤井敬子さんには出演だけでなく、ホールのロビーでのマルシェの同時開催もコーディネートしていただいた。

そして開演前には伝統楽器に触れられる体験ブースや、開演直前のロビーパフォーマンス、ワークショップなどを行い、何とかこの会自体の時間の流れを「一つの作品」として見せる工夫を凝らした。

開演前、ロビーで行われた「播州音頭踊りワークショップ」

結果的にその公演が好評で、その後私は、毎年この仕事をさせてもらうことになる。

琴、尺八、詩吟、謡曲、詩舞、和太鼓、大正琴といった様々な地元の伝統芸能団体が参加されている中で、私が初めて出会ったのが「播州音頭」だった。

この音頭には、どこか懐かしいような、癖になるような節回しがあり、踊りには半ばトランス状態になるような中毒性がある。この音頭を初めて見た時に私は「あ、これはラストシーンだな」と直感的に思った。
発表を終えた他の団体が、ラストシーンでこの播州音頭の踊りの輪の中に参加するという絵がすぐに浮かんだのだ。

4/28(日)【地域のチカラ・フェスティバル 新緑の宴〜体感する伝統芸能】@やしろ国際学習塾 本日行われた【新緑の宴】。 最後の社播州音頭踊り保存会の時の総踊りの様子。 出演者や会場を巻き込んだ、ものすごい熱気の総踊りの様子をどうぞ! 本来、盆踊りはこういうものだったはず。 楽しすぎて涙出ました! ありがとうございました!すべての皆様に感謝!

Posted by (公財)加東文化振興財団(やしろ国際学習塾) on Sunday, April 28, 2019

これが結果的に、それまで自分たちの発表だけに集中していた各団体のコミュニケーションのきっかけを作り、今まで無かった伝統芸能団体同士のコラボが実現するようになった。

更にこの発表を客席で見ていた他の伝統芸能団体が「来年はウチも参加させてほしい」と名乗りを上げてきた。そのうちの一つが、東条播州音頭踊り保存会である。

社と東条、二つの播州音頭踊り保存会は同じ加東市内を拠点に活動していながら、殆ど交流が無く、寧ろ互いに芸を競い合うライバル同士。社の最高齢は93歳、東条の最高齢は78歳。とにかく元気のいいおじい様方だった。

そしてこのライバル同士の社と東条が、この三年後、まさか共同で活性化プロジェクトをやることになるなんて、この時は本人たちも、私も夢にも思っていなかったのである。

<向かい合える未来>

踊り手のお姉さま方に踊りを教えて頂いた時の様子

今考えれば始まりは、ちょっとした「おせっかい」だった。
「この人たち、もっと仲良くしたらいいのに」とか、「こうすればもっと面白くなるのに」とか、私が部外者だからこそ言えてしまうことがあって、それを「おせっかい」で言っているうちに、気が付けば私は社と東条の両団体に掛け合って、助成の申請書を書いていたのだった。

はっきり言ってこの「おせっかい」は何の儲けにもならない。
助成と言っても自分に降りるお金など、ほぼ無い。
なのになぜ私はそれをしてしまったのか?(後悔はしてないが)

それは私が2019年の東京で、「自分のために」頑張ることの限界を知ってしまったからなのかもしれない。
あるいは「誰かのため」の、その「誰か」とは、目の前にいる人だけの事を指すのではなく、その人と向かい合う私自身の事なのかもしれない。
そう思ったからかもしれない。

と、いう事は結局「誰かのため」は「自分のため」に繋がっている。
ただ、その道は一旦「誰か」を経由することになる。
経由するためには、誰かと私は向かい合わなければならない。

「どこかの誰かではなく、向かい合える誰かと仕事がしたい。」

そう思った。
それがたとえ、大きな利益にならなくとも、数が少なくとも、向かい合えた人との未来は、その後も繋がって行くと信じて。

「社・東条を中心とした播州音頭踊りの継承と発信プロジェクト」はこれから約二年間のプロセスを丁寧に踏みながら、様々な人々と、向き合いながら進んでゆく。

その二年の間に、正直なところ高齢化が進むメンバー達に何が起きるかわからない。
実際このプロジェクトの立ち上げの後押しとなったのは社の長、93歳の音頭取りの男性の入院、手術だった。

現在は回復され、寧ろ以前より元気になったとの事だが、後期高齢者となった彼らは今、私の目の前にいて「向かい合える人」であると同時に、もしかしたら「今しか向かい合えない人」になるかもしれない。
そう思った時、私の心は動いたのだと思う。

社播州音頭踊り保存会の音頭取りのお二人と

長く、険しい道のりは、まだ始まったばかりだが、この縁が播州音頭の円舞のように巡り巡って、「誰か」の元に届き、そこからそれを引き継ぐ人が現れ、伝統が継承されていくことを願うと同時に、私個人的には「誰かのため」に始めたことが、「自分のため」に頑張るだけでは届かない場所に、私を連れて行ってくれるのを期待している。

そしてそれが、今の私にとっての“創作”であり、“踊り”なのだと思う。

この“踊り”は、東京の交差点を行き交う人々には届かないかもしれないし、理解もされないかもしれない。
それでも、私は私なりの“創作”を、私の“踊り”を続けてみようと思う。

「おせっかい」から始まったこのプロジェクトの結果が出るのはずいぶん先になることと思う。
蒔いた種が成長し、収穫できるまでには、いくつもの冬を越えなければならなさそうだし、もしかしたら途中で枯れてしまうかもしれない。

それでも、いいと思える移住6年目の冬。
向かい合う未来が、少しずつ変わっていくのを感じている。



京極朋彦の記事はこちらから。
https://note.com/beyond_it_all/m/mf4d89e6e7111


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