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断片的なものの社会学/プリキュアにおける「分断」

 お父さん、犬が死んでるよ。
 沖縄県南部の古い住宅街。調査対象者の自宅での、夜更まで続いたインタビューの途中で、庭のほうから息子さんが叫んだ。動物好きの私はひどく驚きうろたえたが、数秒の沈黙ののち、語り手は一瞬だけ中断した語りをふたたび語り出した。私は、え、いいんですか?と尋ねたが、彼は、いやいや、いいんです、大丈夫とだけ言った。そしてインタビューはなにごともなかったかのように再開され、その件については一言も触れられないまま、聞き取りは終わり、私は那覇のホテルに帰った。その後その語り手の方とは二度とお会いしていない。

断片的なものの社会学/岸政彦

 岸政彦は、被差別者、マイノリティ、貧困、風俗嬢、戦争体験者、路上のギター弾き語りタクシー運転手、植木鉢をコミュニケーションのきっかけにする大阪のおばちゃん、両親に捨てられてた五人兄弟、それから沢山の、何でもない人たち。そういった方々の人生をインタビューし続ける。何でもないストーリーを。聞かれなかったら、明かされなかったであろう物語を。無論、そういった話しは、今回やそうでなくても知人などに話し・相談したり、知られているものである。しかし、それすら知らされなかった人にとっては、それは存在しない。

 20世期の芸術家として、死後その業績が発見され世間に衝撃を与えた、ヘンリー・ダーガーが紹介される。

 彼は、誰にも知られずに1万5千もの作品を残して死んだ。児童擁護施設で楽しく遊ぶたくさんの幼女を描いたかと思えば、虐殺される子供達を描いた作品もある。それらが混在した作品もある。

 岸政彦は、彼の評価はその作品が発見されず、危うく失われかけたところで発見されたから評価された部分も多分にあるだろうと分析する。また、彼自身の不遇な背景も評価に一役買っているだろうと(確かに現在の芸術は作品そのものよりもそういうストーリーなしには売れ得ないものとなっていることを私も危惧する。バンクシーが最たる例だ。もっとも、バンクシーはその事実自体を無言で批判しているようだが)。

 しかし岸政彦は、世の中にはこうもならず、発見されずにそのまま失われていく「作品」「物語」が無数にあるという。

社会という神

 昨今、Aであってもnot Aであっても社会問題とされて攻撃される風潮がある。

 もし目の前に神があらわれたら、どうか私たちを放っておいてください、私たちに介入しないでくださいと頼むと思う。
 しかし、神でない私たちは、それぞれ、狭く不完全な自分という檻に閉じ込められた、断片的な存在でしかない。
 そして、私たちは小さな断片だからこそ、自分が思う正しさを述べる「権利」がある。それはどこか、「祈り」にも似ている。その正しさが届くかどうかは自分で決めることができない。私たちにできるのは、瓶のなかに紙切れを入れ、封をして海に流すことだけだ。
 エミール・デュケルムは、私たちが「神」だと思っているものは、実は「社会」である、と言った。
 「祈り」が届くかどうかは、「社会」が決める。

 ひょうこちゃんの記事で、かつては「自分の意見を言うこと」が教育において重視されていたが、昨今はゆとり教育の延長だろうがそれを重視しないようになってきていて、それで内向的な子が元気になってきていると言う。

 オンライン教育になればますます今まで何も言えなかった子も、テキストなどで言えるようになる効果が期待できるのではないかな…。いずれ世界的に法律レベルで、「オフラインで直接会っての会話・対話、及びオンラインで人に意見をすることを禁止。争いに、戦争に繋がるから」と言う社会になれば良いと思う。

 人が完全に分かり合えるなんて所詮無理なのだから。

プリキュアにおける「分断」 

 プリキュアのストーリーの大筋は当初は「悪である敵の撃退」のみであったがその後、主人公たちの成長や自己の確立の先に「敵と思っていたものの問題に向き合い、寄り添い、和解・もしくは解放」と言う女性的なハッピーエンドが多くなっていたのだが、ここ数年のシリーズではそれがさらに変化してきている。

 昨年のシリーズ、スタートゥインクル☆プリキュアの、4人目のプリキュア、天宮えれなは、学園では「太陽のような存在」として皆から慕われていた。明るい笑顔が素敵で、文武に優れていて。そんな彼女はメキシコ人のハーフで、6人兄弟の長女だ。

 プリキュアの仲間に加わってから、その高いコミュニケーション能力で仲間の精神的な問題をほんの少しの自然な気遣いでフォローする姿が鮮やかに描かれ続けた。非の打ちどころがないキャラクターだった。

 そんな彼女が珍しくコミュニケーションをミスすることが描かれ始める。相手は全く文化・思想の異なる異星人であって、明かにその難度は高かったと言うのに。そのミスに悩む姿は痛々しかった。彼女は自分でも人を笑顔にすることに自負があったのだろう。ショックだったのだろう…。

 学期末が近づくと、プリキュア(および学園ものアニメでは)恒例の「将来のなりたい職業」イベントで、母と同じ職業、異文化の人を言葉と心でつなげる「通訳」にしようかと考え始める。また同時に物語もクライマックスに近づいていて、えれなことキュアソレイユは、彼女のライバルの女性敵幹部・テンジョウとの戦いが熾烈になっていく。テンジョウも「笑顔」にコンプレックを抱いていたことが分かり、ソレイユは共感し寄り添おうとするが、結論、彼女とは分かり合えないまま撃退してしまう…。

 世間で「多様性」「相互理解」「尊重」といった言葉の圧力が増しているこんにちであるが、「決して分かり合えないものもあることを認める」と言う「分断」もプリキュアで語られるようになってきた。

理解は可能か

 メディアで、SNSで、このnoteでも、個に対して偏ったイデオロギーによる攻撃を与えられることがよくある。こういう時に、断片的で主観的な正しさを振り回すことは、暴力だ。私たちはしばしば、完璧でないものに対して、完璧を要求すべく、完璧には程遠い言葉・言語・論理で相手を批判し、暗に社会の仲間に同調を求めつつ、相手に是正と、謝罪を追求する。そしてしばしば、討論がうまい方や声の大きい方、仲間の多い方が勝利することを、正義や論理が勝利するわけではないことを、何度も目にするようになった。あるいは双方「論理性をもって」意見を主張していたはずであるから「論理でもって相手を納得させること」は根底に最重視されるはずなのに、過熱したあげく他方を「話しが通じない」「話して分かる人じゃないようだ」などと言いつつ、相手をブロックして勝利した気になる。あるいは「優しさ」がウリの人の場合、二者の間で対話がしぶとく交わされ、双方謝罪し、和解した風な終わり方をすることもある。

 そもそも、本当に人は人と理解などしあえるのだろうか?私はしばしば言葉・言語の不完全性がまずあり、かつ、個々の背景(社会的ポジション含む)がある上での会話が対等・公平な立場でなされうるのか、つねづね疑問に思っている。

 「断片的なものの社会学」の岸政彦は、語られないストーリーが世の中に無数にある、と言う事例を多数見ていく中で、人は本来孤独で、人を理解しあいたいものだが、そうも行かないこともある、ということを認めている。意見を言ってもいいが、言わなくてもいい。表現してもいいが、しなくてもいい、と。

 人は本来孤独なのだから。


(なので皆さんスルースキルを磨きましょうw)


楽しい哀しいベタの小品集 代表作は「メリーバッドエンドアンドリドル」に集めてます