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(雑記)夏の夜のリベンジ夜ふかし

 理解できなければ、話し合えば良いのにな、って思うことが多々ある。なにも戦争の平和的解決、の話しではない。そんな私は理想妄想主義者ではありません。普段の日常の話である。SNSで声の大きい人の話である。クソリプへの対処法の話である。それは、ただ理解するために話し合いましょうと言いたいのではなくて、それなりのテクニックが必要だと思うのでちょっと考えてみたい。そしてそれが、では人は誰のために生きるべきか、という壮大な話につながります(大げさ)。

雑記です!

 人の発言に理解できない、ということは日常で多々ある。自分も巻き込まれて汎化された主張・独りよがりに定められた一般論、断言的な政治的・宗教的・科学的・統計的主張、あるいは自分に直接向けられたと想像するしかない様なエアリプや、その反対に明確に自分に対し直接向けられたメンションやコメントで向けられた言葉、言葉、言葉。それらに対して怒りや困惑が収まらない、という感情は普通だから、それに対して私はそんなことは無い、とか見栄張った嘘をついてドヤったりはしない。またそんな気持になるのは無駄だとも思わない。しかし自分の思考がそれらによって占有され、行動を制限しう状態は良い状態とは言えないから、コントロールして収めるなりする必要があると思う。ここではその方法を考えたい。
 なんの話しかというと、もと首相の暗殺、某大国の戦争の当事者達とそれに対する評論、疫病に関する政策と評論、それから私の会社(話題が豊富だねー、ここ数年の私のTwitterとnoteの雑文の大半がそれの愚痴だわw)、またごく普通に社会および皆さんの周囲のSNSへの反応など。

 私も日々、そういう感情と闘っていて、その度にスゥーと息を吸って、対処している。

Part1. リテラシーが必要

 SNSが本当に一般的に浸透したと思う。10年前とは相当社会がそれによって変化していると思う。なにか時代名をつけても良いのにな。ってそういうのは歴史になってから、100年後とかかな。しかし一般化して時代となってはいるが、それが良い仕組みになっているかというとほど遠いと思う。今の世の中、リテラシーが必要でしょ!でも私、リテラシーという言葉、私は好きではないのだけど、というのはリテラシーチュウがうるさい、人によって定義が違うとか、あるけどともかく今必要なのはSNSリテラシー、あるいはSNSにかぎらないから(TVのバラエティや報道番組の無知なコメンテーター、有名解説者の偏った発言や、会社や身の回りの方の偏狭な意見なども)、主義主張リテラシーと行っても良いかもしれない。今私は「リテラシー」と言った。実は、リテラシーを語るだけでも戦争が起こりうる。調べてみよう。

リテラシーとは,読み書き能力,識字力のことである。 リテラシーは話しことばと異なり,時間的・空間的に言及されるものや発話文脈から独立していることから抽象的思考の発達に欠かせないもので,話しことばから書きことばへのシンボル体系の変化が人間の精神過程に大きな影響を与えるものと考えられてきた。

コトバンクより

 …今のメディア社会で使われている意味あいとは全然違うと思う。いやこれはこれで「リテラシー」という辞書的定義としては合っているが、私が理解しているリテラシーとはそれ単体で使わない。リテラシーとは何かの分野名に加えて使用されることが多く(例:「情報リテラシー」「SNSリテラシー」等)、そちらについてまず詳細に述べるべきである。こうなる。

「その分野について、応用・活用していくための資格の有無を問う際に使われる、コミュニケーションのドグマである。基礎知識をほぼ全て習得できているか、マナーについて習得しているか、また、どのようなリスクがあるかの把握と、その対処を知っているか。その資格を有する目的は、それを利用するにあたってミスによって自他に不利益を生むことをなるべく避けるため(100%避けられる訳では無い。また無意識的に他人に不利益を与えることも防ぎたい)、また、そのリテラシーを持たざるものを見かけても・接触しても無下に怒りを発生させないため、また、その分野を活用するもの同士で意見が異なる場合、論理的なディスカッションによるコミュニケーション(協力的な情報交換)を円滑に進めるためにある。また、その分野そのものを語る時(分野の定義など)のメタ的な議論の際にも用いる。」

「○○リテラシーとは」ベタ定義

 …この通りである。使い方は、「SNS社会となり、それを活用するために子供たちにはまずSNSリテラシーを学ばせたい」、「あの人はnoteクソリプ禁止リテラシーも持たない(おこ)」、などである。ちなみに最後の「論理的なディスカッションによるコミュニケーション(協力的な情報交換)を円滑に進めるため」という方法論として日本の教育でも論理思考、ロジカルシンシングが必要であり、欧米主要国では中学生の頃には十分習う、ということは十数年前、私が中学生のころに欧米人と語り合って日本に必要であると同意したことがある。その意義については3年近く前に書いたこちらに詳しい。

 さてそういう意味では私はこのリテラシーの話を進めるために、すでに重大なリテラシー違反を犯している(リテラシーには分野があると言ったので、ここで言うリテラシーは広範囲な、主義主張に関するリテラシー、である)。

  • TVのバラエティや報道番組の「無知な」コメンテーター

  • 有名解説者の「偏った」発言

  • 会社や身の回りの方の「偏狭な」意見

 この「無知な」「偏った」「偏狭な」は、私が私にしか分からない(公言していない)基準で一方的に決めつけている、差別的(見下した、絶対的あるいは相対的に劣等と決めつけた、卑下する)用語なのだから、それでは主義主張をする際、また主義主張そのものを語る際(いま進めている「リテラシー論」)、協力的コミュニケーションを進めるためにリテラシーのマナーを違反していると言える。そういった言葉が、読者・視聴者にすでに共通理解が得られそうだ、あるいは言葉の範囲の定義として事前に公言していたとして、このような言葉は使うべきでは無いと思っている。けど、そんなこと意識しすぎていれば、喋りにくすぎるのではないか、と反論がありそうだ。しかし私の経験からすると、そのようなネガティブ用語はほぼ使わずに、どのような会話でもできる。意見を戦わすことも、スラスラできる、ようになる。しかし、ここで反論としては、そのような言葉の制限なく、自由な会話がしたい、と思うかもしれない。でも、日本人は何かと「自由」を傘に、武器に、スケープゴートに使おうとする傾向があるが、自分が好き勝手するための自由の権利よりも他人の権利を侵害しないほうがより優先的に重要である。なので、なるべく差別的(見下した、絶対的あるいは相対的に劣等と決めつけた、卑下する)用語を使わずに意見したり、議論したり、また心の中でも考えない様に、生きて行きたいものだと私は、思う。

自由と義務、どちらが勝るか

 ところでよく日本人が「自由」を無制限に与えられた権利として乱用している、と外国人から…さっきから自分の経験の引用で外国人、を乱用するのはそれもあまりよろしくないがw、外国人と日本人論を語り合う時に話題になる。そしてその理由は、日本は憲法を無料で手に入れ(戦争の犠牲あってのことだから無料というのも、これもあまりに語弊を産みそうだが、とりあえず)、そこで無料で「自由の権利」を絶対的に憲法で入手できたので、それ以来から現代にいたるまで日本の社会は何にも増して「自由の権利」「表現の自由」などを無料で自由に振りかざすことができるものだと誤解したのでは無いか、という解釈で一致する。ちなみに論理的にも国際通念的にも自明であるが、義務と権利では、義務が優先される(人権を除いて)。こういった教育は日本でも中学生ごろに「公民」で学ぶはずだが「公民」がどこから来た教科か小学生抜けきれない子供たちに分からない・説明が十分でないからか、多くの子供たちが重要視して学んでいないし、また先生たちも同様であるから誰にも身についていないことになっているのではないか、ということも…先日、うち(私の会社)のニュージーランド人エンジニア(日本の学校に行く子供がいる)と語りあって合点が行ったw

罵詈雑言を言う前に宣言・公言すればマシ

 話がだいぶ逸れたが元に戻そう、私はこのチャプターの冒頭で「公言していない」ことを由しとしないとした。たとえば「無知なコメンテーター」と言いたいのであれば、どういうコメンテーターが、(それを語るに当たって)何を知らないから・知る姿勢がないから「無知」と言えるのかと説明すべきである。また当然、「無知」の範囲が限定的であり、「あらゆることの無知」(知識ゼロな、赤ちゃんのような)という話ではないと念押しすること、さらに、説明・公言したとしても、そのことを聞き手がしっかり理解したことを、確認しなければ、そういう卑下的用語は使うべきではないと思っている。noteのようなblogでは、一方的な発信が前提となるので、では相手の理解を確認できないが、その場合でも十分説明し、また、その言葉を使わせていただくことを宣言するので、ご理解いただけない場合はこれ以下を読むことを控えていただきたい旨を宣言したり(ところでnoteが自動的に文章内容を判断し、記事のヘッダーに自動的に警告文が出る機能があるが、あれは評価できる)、またはそのことを前文で明記した、有料記事にしたほうが良いと思う。

noteの有料記事の使われ方

 ところでnoteの多くの有料記事は、本当の商用目的の記事以外は、単に何かへの怒りや困惑、という非難の表明のための記事が多い様で(お断り:私の観測の範囲内にて)、その無料部分の前文で十分何にか誰にかのことを示唆するような、「エアリプ」記事になっているような物が多いようであるが、そういう記事をもちろんわざわざ読まない…読むわけがない。読む動機がある人を想像できない。なのでこれを書くのは、誰かが読むことは期待せず、感情をぶつけてぶちまけて書いているんだろうなと推測できる。しかし、同時に書き手は運良く?有料記事なのに一人でも読んでもらえたら、という希望も持っているから、わざわざnoteで書いているとも考えられる。いや、よほど読んで欲しくないというならば、PCやスマホの「メモ帳」などを知らないのか…、それでnoteしか書く場所がないと思い込んでいるなら、高額に設定すれば良いのにたいてい安価である。つまりわざとだ。読んで欲しくないが読んで欲しいのだ。さらにその読者が、ターゲットであることも、さらに低い確率だと理解しつつ、期待していると目される。読んで欲しい、しかしおおっぴらにはできない。なぜか?罪の意識があるのだろう、どこかに。
 そういった有料記事も点在しているがあれはなんなんだろう?オススメされていたりしてつまり読む人がいるらしいが、よほどその人のファンなのか。で、その無料部分の前文で十分何にか誰にかのことを示唆するような導入記事になっていたりして、その十分その時点で相手を明示せず誹謗中傷して反撃しているかの様だ。

 こういうのが、まさに、私は「話しあえば良いのに」と思う。討論ではなく批判したくなった相手を理解するために。質問すれば良いと思う。

 「どうしてそう思いましたか、考えをお聞かせください。私はあなたのそれを見て、こう思ったのですが、私になにか誤解があるなら指摘していただきたいのですが」

 とか。noteなら、多くの場合、応じてもらえると思う。その際に「相互の意見を尊重する姿勢で会話したいのですが」と前置きするとさらに良いと思う。何も、相手は悪意があって主張しているわけでは無い場合がほとんどだ(明確な罵詈雑言でなければ)。なぜなら、相手も良かれと思って書いている場合が多いであろうから。あるいは素直な気持ちの率直な感想か。だとしたら貴重な意見である。あるいは親切心、自分の正義感でか。そしてその人は、返事を待っている、求めている。あなたと、あなた方と、対話をしたがっている。

 そう、悪気があって社会に意見したり、クソリプしているわけではないと思うから。

正義中毒という罠

 SNS社会になり、Twitterや、また、Yahooニュース(コメント機能があり、ニュースにかこつけて自分の意見を言うことが盛んである)、またNewsPicks(同様。ただしこちらは専門家や社会的著名人の回答が目立つ様になっている)、はたまたClubhouseやTwitterの「スペース」では自らの音声で、、何かしらの事件について「目立つ意見」を主張することが誰にでも手軽にできる様になり、そのうち一部は匿名あるいはハンドルネームでよく、また使い捨てアカウントでもよく、そこで様々な意見が自由に、それも前述の「リテラシー」も無く、また差別的な思想と用語による言説も多く目に入る時代になってきた。私としては、それが気になるかというと実は気にならないから困ってはいないが、ただそれらを参照して影響される人は一定数(その割合・影響は多いと言う主張もあるが、私は実は多くはないと思っている)いて、それが俳優やタレントへの誹謗中傷などの場合もあり、そうなると痛ましい結果に発展し社会問題に発展したりする。

 ところで先述の、私が気にならないという理由は、それが耐性があるから・聖人だからというふうに嘯いてドヤりたいからではないので説明しておくと、私は基本的にペシミストであって、社会がどうなろうと構わないと思っているからにすぎない。この姿勢自体はもちろん社会的には良くはないことは理解している。ただ、その割にこの話題にここまで5千文字弱かけるくらいに興味があるわけだが、それは私自身が、もうそのままであるが「社会心理学」大好きだから、その人々(人個人および群れ)の思考の時代環境・出来事による変化や反応を観察するのがとても面白いからである。

 ここで社会心理学の「正義中毒」という概念を紹介したい。

これからは「人を許せない」気持ちが増幅していく/脳科学者・中野信子さん

 この記事で述べていることはとても興味深いと思った。人は(一般的に通常は)、自分の正義・思想を信じそれに反するものをSNSによって自由に・匿名により安全に叩ける、制裁を加えることで脳にドーパミンが得られ、それを体験して、より欲するようになり、繰り返すことで「正義中毒」になると。つまり、その傾向は、人間の脳の性質であり、普通のことなのである。だからあながち「正義中毒」を批判はできまい。とはいえ、それが自他共に健康的でないことも自明である(だからと言って中毒になっている方にそれを言っても理解されないし、火に油だ)。そのために「メタ認知」を鍛え、自分の感情の状態をつねに観察することに集中すれば、コントロールしやすくなる、とういことだ。つまり私が「社会心理学」大好きだから観察するのが好き、みたいなものも、同様のことを行っていると言えそうである。

 ちなみに、反応したくなる「正義中毒」意見投稿に対し、そういうメタ認知で避けましょう、ということを速攻出来るかというと難しいと思うし、もちろん無視するかミュートする、などが最適だと思うがそれができないから反応したくなる心理状態なのであろうから、であれば、意見に意見したいのであればすれば良いと思う。

 これもまさに、私は「話しあえば良いのに」と思う。討論ではなく批判したくなった相手を理解するために。質問すれば良いと思う。多数の似たムカツク意見が並んでいるのでしょうけど、そのうち会話できそうな一つに対して、

「どうしてそう思いましたか、考えをお聞かせください。私はあなたのそれを見て、こう思ったのですが、私になにか誤解があるなら指摘していただきたいのですが」

 とか。返事をいただける確率は高いとは言えないと思うが、質問をし、考え方を教えていただくと言う姿勢で。他人を理解すると言う姿勢で。その上で理解できない点を、追求し尽くして「相手の矛盾点をついて自分が勝つ」などは決してしてはダメ。適度に不明でもそこで終わらせ、最後に「あなたの意見がだいぶ理解できました。私とは異なりますが、あなたの意見を尊重します。有難うございました。」で締めくくりたい。すると、相手も次から、押し付けがましい絶対的な正論を説くのでは無く、「多数の意見を見させていただいたなかで、自分の意見はこうである」ことを前置きするようになるかもしれない。

 私は、何が正しいか正しくないかでは無く、議論の勝ち負けなどではもちろん無く、他人を、人の意見を尊重することおよび自分も尊重すること、その姿勢が広まることこそが、実際に平和を少しづつ前進させることができるようになると信じる。

論理的議論に負け判定が出る時

 ところで討論をしていると、意外とあっさりであったりもするのだが、「あなたの言っていることが全く理解できません。私とあなたは違うのです。もう話したくありません左様なら。」または「私はすでに腹が立っています。これ以上あなたと会話できません。」もしくは「私が正しいことを述べているのにあなたが理解できないというのは(以下略)」という態度の回答を行った後、ブロックや、無視されるということがある。これは、残念ながら、もちろん勝ち負けの問題ではないが、その方の負けである。なにか、主張をし始めた時は「論理的に主張をして、その正当性を認めてもらいたい」ということが「主張」の主目的であることは前提であるから、討論の後「論理的会話から逃げる」あるいは、論理的説明不十分であるのに相手を負けだと決めつけたりする行為は、主張そして討論の前提「論理的であり続けること」から破綻している。論理で戦い始めたら論理で決着しなければならないのだ。しかしこういう相手がいたら、その後追求するのは可哀想だし、大人しく引き下がってあげよう。もちろん、それで勝者になったとしてもそのことを他で誇らしげに語ったりするのは無粋であるのでやめておこう。

Part 2.リベンジ夜ふかし

 さて、突然話が変わって深夜、十分な睡眠時間を確保するためには寝なきゃいけないと分かっていながら、あまり眠くもないので、あるいは少々眠かったとしても、SNSを見たりアニメを見たり、note書いたりラジバンダり、といった無為なことに時間を使ってしまって外が明るくなり始めてやっと決心して床に着く、ということに覚えがある人はいると思う。ベタ、その習慣がまったく抜けきれません!4時に寝て8時に起きてる。そう言うわけでお医者さまからは警告されるぐらい早く寝る様に注意されるしお薬ももらっているけど効かない(・_・、)

 これを、「リベンジ夜ふかし」というらしい。

今日、 “報復性熬夜(revenge bedtime procrastination/リベンジ夜更かし)” という言葉を知りました。日中の生活をコントロールできなかった人が、自由の感覚を取り戻すために夜遅くまで寝ようとしない現象を意味します。

コスモポリタン「リベンジ夜ふかし」

 たしかに、日中仕事に忙殺されて自分の楽しい時間というものが全くなかった時にいつも発生している気がする。というか毎日がそうなんですけど?私は「自由の権利」が欲しくて夜と戦っているのだ!それは、自分の自由時間を大切に確保する、という義務を怠っているからだ!これからは仕事を放棄して自由を確保しよう!ヽ(`Д´#)ノ・。・ ゚ (⇦さっきと言ってることが違う)

貴方は誰のために生きていますか?

 私はペシミストだから〜と先に語った通り、社会に対してとか地球環境に対してとか、では無いです。

 (原子力発電にするとCO2排出量は大幅に削減できるのだが) 

 こんなTweetをしたけど面白がってるだけですw バズったのでこれに対してエゴサしたら私を個人攻撃する様な意見も多数大量にあったけど(私が何も知らない前提で批判しながら語る勢とか。「こいつばかじゃね?」の一言とかもw どの箇所をそう思ったかだけでも教えてよw)、正義中毒の対策よろしく軽くスルーしましたよ。

 昨日の夜更け、点けっぱなしだったNHKで深夜よくある映像番組で中国は山西省の美しい村を紹介してた。昔、孔子が旅で訪れたが子供もリスも丁寧におじぎをしてくるので孔子えらく感心して「ここでは教えるものなどなさそうだ」と戻って旅を続けたらしいけど…、私なら職が教師ならば教える必要が無いならそこで人生を終える場所にする。

 たくさん人に教え続けていた孔子、なぜその後も教えられる場を探して旅を続けたのだろう。教える必要がない地域があったなら、そこが彼の桃源郷じゃなかったのかしら。孔子はなんのため、誰のためにいきているのか。私には分からなかった。

昨日、そういえば誕生日でした。

 twitterやFacebookにはたくさんのお祝いメッセージを頂きました!Twitterでは界隈の仲間だから嬉しいし丁寧に返事をします。Facebookでは…ちょっとめんどくさい😓 この日に限ってDMで話しかけてくる人もいる。私あなたとずっとメッセもしてないし仕事も何で関わったかも思い出せないんですが…。なんか下心があるのかとか疑ってしまうでしょ。

 それで昨日は一日暇だったから自宅でBDS(ベタをダメにするソファ)に沈む様にほぼ寝てるような格好で斜めに座って映画ばかり観てた…

 マイティ・ソーも人生の最後に「今まではあるべき自分を目指していたが、これからはありのままの自分でいようと思う」と悟る…。孔子より悟ってるんじゃないかコレ。ちなみにプリキュアはシリーズ終盤でみなこれを悟るのが毎年恒例の最大の女児へのメッセージだ。

 そしたら夕方、電話がかかってきた着信番号を見ると珍しく、高齢の母からだったのでちゃんと聞こうとBDSから飛び起きて、半年ぶりに会話した。

母からの電話

「ベタちゃん(仮名、決まってるでしょ)お誕生日おめでとう。元気にしてますか」

 母の声はか細くかすれて微かに震えてもいて、聞き取りにくく頼りなかった。私はスマホを耳に押し当てた。

「はい…有り難う。大丈夫元気です」

「そう、さっき祇園祭の写真をLINEに送ったのよ、観てくれた?」

「いえ…気がつかなかった…」

「あなたは祇園祭の時に生まれたのよ。外で音が鳴っていてね」

 最初、電話で母からと分かった瞬間の不安は、母が私をまだ認識しているかと言うことだったが、大丈夫まだ覚えていてくれてる様だ…。

「知ってる。まさかお母さん、市内に行ったの?」

「ううんテレビで見たから、その写真よ。元気にしてるの?」

「はい…大丈夫元気です。それより母さんは大丈夫なの?」

 話がループしかけてる。私は母の体調が心配で無理して電話しているんじゃないかと思って早く電話を切りたかった。

「私は最近は調子が良いのよ、お父さんも診ていてくれてるし」

「そうなの、じゃあ安心した。」

「今年のお盆は来れるの?ベタ(仮名ですよ!)」

「ごめん、忙しくて行けるかわからない…」

「そうなの」

「じゃ、じゃあ切るね。電話有難う」

「はーい」

 私はそっとスマホの電話を切るボタンを押した。
 母はもう先が短い。私はそのあと何故だか泣いてしまって、とても申し訳ない気持ちになった。はいもう泣き虫だってばれてますよね。しかしなにやら自分が、自分の人生が虚しくなってきた。今日もだがそれまでも、まるで無駄に、無意味に生きている気がした。それにいま東京であれが1日1万人超えたから、この夏時間があっても行くべきじゃなくなってしまった。冬までもつだろうか。会いたい、母に。

 今日の夜も、仕事で社長と会議をして開口一番「ベタさん、誕生日おめでとう」と言われたので「いーからw 私誕生日とか、単に太陽の周りを地球が一周しただけでしょ?キリ番とかも、意味わからないので」と返して、いままで、誕生日、実は嬉しいと思ったことがなかったんだけど、

昨日の母からの電話で、「誕生日、悪くないな」と初めて思ったと思う。

§

 私は、人にできない約束はしない。人に期待しない。
 社会のために、人のために生きている訳ではない。もっとも、なるべく親切にしようとは思うが。

 私は自分に対してのみ責任を持つ人だから。

 …の、つもり。

Betalayertale 7/18
9715文字 

Appendix

新曲。母との思い出の曲でもある。

お正月に母と会ってきた時の話しと思い出。

新作の小説。(私小説ではありません)



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