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ケーキを水に浸してから食べる

 私は所謂普通の苺のショートケーキ、それを水に浸して食べる食べ方が好きだ。家に持ち帰るとボールに冷水を満たしてケーキを沈め、十分水分を吸ったところでざるからあげ、ある程度水気を切り、ソーサーに移して、スプーンに掬って食す。お供のドリンクは、いつも薄めの塩水。
 ソーサーの上のもと・ショートケーキは陸に挙げられた海月のごとく既に定型を失い、重力に負けぐにやとした塊となっている。それを端からスプーンでそっと掬うと、必ずケーキのスポンジから水気がもどり、小さな湖に囲まれた島となる。
 あたりを見回してみよう。湖は銀器の畦道に囲まれており、その外側はすべてこの我々の所属する大宇宙空間の一角である。おそらくどの角度・どの方向の直線延長線上に向かってもいずれは星や、塵や、はたまた雲か、人工建築物の壁か、もしくはスプーンを持つ私自身か、何かしらの物質にぶち当たることになるが、その円形(正確には楕円形)の唯一方向のみであるが、そこには長い橋がかかっている。そのような状況では選択肢は少ないため橋を渡りたい気分になるのは理解できるが、もし渡ってその先まで来た先は、人間の指があり、手先があり、腕があり、肩があり、首があるものであるが(首については絶対とは言い切れないが私の知る限り、存命の人間には有る。首がない存命の方を見たことも聞いたこともないので。首無しの騎士、デュラハンでもない限り。否、デュラハンは首が無いので食物に手をかけようとは思うまいが)、さすがにそれ以上は視線を追うことが困難であるので想像を裁截らせていただく。
 さてその銀のスプーンに掬った水に浸されたケーキの欠片を口へ滑り込ませてみよう。その周囲の甘さが溶け込んだ水分とともに。スープとともに食べるのは宛ら上海料理の小龍包のように、である。小龍包は台北市の料理店「鼎泰豊」が有名だが実際そこは美味い。冷房は例に漏れず極寒だが店員女子が結構可愛い。日本でも銀座のパラダイス・ダイナシティなどは十分美味な多種類の小龍包を楽しめ、かつお洒落である。それはさておき、ケーキの欠片であるが口内に含まれた瞬間それはふわっと溶ける。溶けるすなわち液体へと相転移するのでスープとともに喉を通らずとも口内で一部は舌下投与され栄養が速やかに吸収され易いと考えられる。ところでこのショートケーキの場合主栄養素は糖分である。糖分なのでそれは体内でグリコーゲンとなり、エネルギー、体力の元となる。しかしこの場合糖分といってもショ糖なので、口内では吸収されはしない。小腸まで到達する必要がある。すると、栄養になり始めるまでの時間は三十分は必要ということになる。また、糖分の栄養は脳にてセロトニンの合成を促進させることが出来、セロトニンの増加は精神安定、リラックス効果が期待できる。


 …飽きてきた( ゚_ ゚ )

 さて、この乱文から何かしら意味を見出せたでしょうか。

 人は人を理解するために、多くの場合言葉や文字を交わす手段を用いる。総じて言葉とする。人が人の意見に違和感を感じたり、もめたり、将又共感あるいは同情すべくその言葉の情報の中から相手の感情を読み取り、自分が共感あるいは同情したか否かに拘わらず、同じく文字であるいは文字を言葉にして、共感あるいは同情した意を表明する事ができる。相手はそれを受け取り次第意味を読み取り、猜疑心鮮少でも有るので無ければ共感あるいは同情したと受け止めることが多かろう。実際は共感あるいは同情した風を装っただけだとしても。このように単語の意味を少なくとも辞書的にお互い把握して正確に用いていたとしても、その使用された際の意味が正確であるとは限らない。すると人は人を理解することは保証できない。
 直前に辞書的に把握、と書いたが人が人を理解する際に両者の脳内での記憶に準ずる単語の意味の把握内容がお互いに異なれば、やはりお互いの意図する意味は異なる事態となる。人間は同じ言語(例えば日本語・方言ではない標準語として)をfluent levelで用いていたとしても単語の意味の把握内容というものは異なることが多い。自明である。人は脳内に共通の辞書を所有している分けでは無いのだから。然し乍ら仮にもし脳内に共通の辞書を所有しているがごとくお互いが同じ言語の意味記憶を保有していたとしよう。それでも何等かの話題であったとしても、その対話される前後の(否や、前の。ある言葉の解釈の要領を教授する際に好く「前後の文脈を見て」等と謂うことがが「前後」は可笑しい。「前」のみである。「後」に意味を配置する文学もあるがそれは悪文である)文脈や当人の往日の総ての人生を把握していないと意味が完全に一致することはまず無いであろう。完全でなくても、と言われるかも知れないが、会話の単語数の平均は、定かでは無いがまず男性が一日に発する単語数は平均七千語、 女性の場合は平均二万語と謂う研究があるので男性三百会話、女性六百会話だとすると一会話当たり男性で二十三単語、女性で三十三単語となる。平均二十八単語とすると、「完全でなくてもある程度共通認識」な単語の共通把握だとしてその期待値が高くて九十八㌫だとすると、その二十八乗なので、一つの会話の共通理解度は零点五六、五十六㌫となる。嗚呼、何たる事か!やはり人は人を理解することは保証できないのである(尚、三百会話という数字も、一日の起床時間が十六時間、そのうち対人と関係している時間は五時間程度だとして三百分、一つの会話が感覚の憶測であるが平均十五秒として然し交互に会話し、また熟慮しながらであることも検討に入れると四分の一として、三百単語と推測した)。

 …長い、疲れてきた( ゚_ ゚ )
 しまったまた乱文になったままでした。癖になりますね…。

まとめ

 何が言いたいかというと、人が人を理解するには

・共通言語(辞書、お互いの歴史の把握)が不足している
・読解力(論理的思考能力および短期記憶容量)が異なる
・国語力が異なる(言語の用法が誤っている)
・姿勢が異なる(緒から攻撃的とか、既に嫌悪感があるとか。単に共感さえすれば良いと考えているとか)
・言語の使用方針が異なる(詩的な言い回しが好きで比喩を多用したい人とか、わざと遠回しだとか、率直に言えないとか)

 という前提があるので、少なくとも、当記事や(いやこれは長すぎだが)普段の私の文章やいつもの私の長い長いコメントのように、一つのことを意味を違えて伝わらないように気をつけて豊富な文章量で説明すること。

 その上で、ニーチェは

現象に立ちどまって「あるのはただ事実のみ」と主張する実証主義に反対して、私は言うであろう、否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみと。私たちはいかなる事実「自体」をも確かめることはできない。おそらく、そのようなことを欲するのは背理であろう。(中略)
総じて「認識」という言葉が意味をもつかぎり、世界は認識されうるものである。しかし、世界は別様にも解釈されうるのであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももってはおらず、かえって無数の意味をもっている。「遠近法主義」

 と述べている(「権力への意志」)。かつ、そのニーチェを研究したポスト構造主義のドゥルーズはそのニーチェを研究し

認識へと至るという理想、真なるものを発見するという目的に代わって、ニーチェは解釈と価値評価を置くのである。解釈はある現象の「意味」を、つねに部分的で断片的な「意味」を定める。価値評価は諸々の意味のあいだで、階層的に上にある「価値」であるか、それとも下にある「価値」であるかを決定し、諸々の断片たちを、その複数性を弱めたり廃棄したりすることなしに総体化する。

 と述べている(「ニーチェ」)。

 これらを以って私が何が言いたいかというと、何か、人の主張(表現)に対し主張する際には、必ず自分にとっての価値評価を加えることを推奨します、ということ例えば、好き、嫌い、良い、素晴らしい、感動した、悲しい、嫌悪感を抱いた、興味深い、あまり関心しない、等の「感情の感想」を添えるべきである、と思う。なるほど、「〜ということなのですね(同音反復)」、ところで、「スキしました!」、と言った言葉は価値評価にはなっておらず相互理解は促進しない。価値評価語を全然使わずにこう言った言葉を多用している方との交流は注意した方が良いかもしれません。そういった方とは「ほんとう」で付き合えない。

 この、価値評価を添えて話すノウハウを、「ケーキを水に浸して食べるやり方」と命名させていただきます。

 人類のお友達会社の同僚みんなに教えましょう!! 


おことわり

・私の好きなケーキは苺のショートケーキであるとは言ってません。強いて言うなら、モンブランか、ドトールのミルクレープです。

・ケーキを水に浸して食べたことはございません。馬鹿な。
・ケーキを水に浸す食べ方があるならその食べ方は好きです。
・水に浸したケーキをスプーンで掬っても湖にはなりません。比喩表現です。
・湖の周囲は宇宙空間である、と述べてますが、そんなこと言えばどの空間も宇宙空間です。
・鼎泰豊、パラダイス・ダイナシティ、数年行ってません。小籠包食べたい。
・小龍包が上海料理である旨は友人の香港人調べ。
・わざと漢字を多用してみたけど賢そうに見えたかしら。見えないですよね。もっとコツが要るみたい。
・トプ画は何だろう?ノートに書いてあったw たぶんさくら、カードキャプター。
・垢名を長くしてみました!www プロフィールで目立ちます。

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楽しい哀しいベタの小品集 代表作は「メリーバッドエンドアンドリドル」に集めてます