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地獄の映画学校時代についての話③

風が立つ。生きようと試みなければならない。

スタジオジブリの映画『風立ちぬ』で一般的にも有名になったフレーズだ。

元々はポール・ヴァレリーという詩人の言葉らしい。

らしいというか、そうなのだ。

そう、風が吹いたなら、生きようとしてみなければならないのだ。


というわけで、
映画学校時代、最後のお話。

↓の記事の続きです


「今、僕、映ってないでしょ?」

カメラのレンズ2メートル先で講師が言った。

僕たちは驚きのあまり声を上げた。

被写体である講師はレンズの先に立っている。

映されている側なのに、自分が画角から外れたことを指摘した。

たしかに講師はその瞬間フレームの外に出ていた。

半歩横に動いて「今度は映ってるでしょ」と言った。

本当に画角に収まっていた。

たった半歩。

その差が見えずとも肌感覚で分かるようだ。

これがプロなのか、と僕たちは感嘆した。


いよいよ始まった撮影実習。

まずはカメラの使い方を覚える授業が行われていた。

そこで参加したのが、外部からの特別講師であるカメラマンだったのだ。

僕たちのクラスに来ていたのは、あの黒澤明の作品に参加していたカメラマンだった。

すなわち業界では超一流の人だったのである。

当時も現役。

どことなく怖そうな雰囲気を纏っていたが、僕たち学生に対する態度は物腰柔らかく温厚だった

でもやっぱりちょっと怖そうなおじさんだった。


撮影実習では俳優科の生徒と合流した。

僕の通っていた学校は映像科と俳優科にコースが分かれていた。

2学期からいよいよ合同での実習というわけだ。

俳優科といったからって美男美女が揃っているわけでもない。

でも映像科よりは明るい人たちが多い気がした。


この実習は人間研究実習以上に過酷だった。

週7日学校に通った。

朝から晩までだった。

終電で家に帰り、翌日の準備を夜中に行い、2時間か3時間寝て学校へ行く。

そんな生活だった。

ロケハンで町を歩き回った。

生まれて初めての経験だ。

絵コンテを自分で描いた。

これも生まれて初めての体験だ。


黒澤明が生前に残していた絵画のような一枚絵のコンテを見たことがある。

それを真似て、一枚きりの絵コンテを描いてきた生徒がいた。

映画監督の講師はそれを見て激怒した。

「これじゃ何も分からねぇだろうが」

当の生徒は不服そうだった。「黒澤明はこういうコンテ使ってたけどな」とぼやいていた。

僕は絵が少しだけ得意だった。

四コマ漫画に似た感覚で、簡素な背景に棒人間と矢印で俳優の動きを描いた。

僕のコンテは講師に褒められた。

「こいつの絵コンテは分かりやすいな。お前らみんなこいつのを見習え」

入学以来、僕が何かを褒められた初めての経験だった。


過酷だったと言っても正直あまり憶えていない。

常に眠かったからだ。

断片的に当時の光景は浮かぶけど、記憶はぼやけている。

クラスメイトの部屋で撮影したり、公園で撮影していたら子供たちが寄ってきたり。

そんな記憶はあるけれど、実際何が大変だったのかはあまり記憶していない。


電車のシーンの撮影があった。

撮影許可を取るのは僕の役目だった。

東京競馬まで向かう電車のひと区間だけなら許可が降りるようだった。

平日に使う人がほぼいないからだ。

鉄道会社に電話を掛けた。

映画学校の生徒だと名乗ると想像以上にすんなりいった。

先方も学生の撮影依頼には慣れているようだった。

電話先の人の方から学生割引があることを教えてくれた。

そう、いくら学生の実習だからとはいえ、撮影には使用料が発生するのだ。

もう金額がいくらだったかは忘れた。

でも割引してくれた。


学生割の件をみんなに報告した。

すると講師が褒めてきた。

カメラマンの方ではなく、人間研究の時から来ている映画監督の方だ。

「こいつのおかげで安く撮影できるんだぞ」

そうみんなに言ってから、僕に向かって「ご苦労さん」と労ってくれた。

僕の交渉術が功を奏したと思ったらしい。

もちろん、実際のところ僕は交渉など何もしていない。


ある時、カメラマンの講師が撮影現場に立ち会った。

その日、僕は撮影担当だった。

講師がカメラをスタンバイして使い方をレクチャーした。

僕はカメラを前にした。

講師の説明を僕はろくすっぽ聞いていなかった。

案の定使い勝手がわからず四苦八苦した。

たまらず講師は「もういいよ」と静かにキレた。

あの実習中、カメラマン講師に怒られたのは僕くらいだった。


画の撮影が終わると音の収録が始まった。

アフレコというやつだ。

これは新鮮で楽しかった。

映像に合わせて効果音をつける。

校内にスタジオがあって、そこに色々な道具を持ち込んだ。

砂利と靴を使って足音を付けたり、布を擦り合わさて衣擦れっぽくしたり。

アフレコ作業を自分でやってみると、映画を観ていて効果音に意識が向くようになる。

この音はどんな道具を使って表現したんだろうとか、これまでと違った見方をするようになるのはあるあるだ。

アフレコの際、なぜか僕はその場で音響監督をやることになった。

クラスの他のメンバーがブースに入り、映っている映像に合わせてあれやこれや音を出す。

タイミング等が合っているか、音が不自然じゃないか、ブースの外にある調整機みたいな機械を前に座る僕が総合的な判断を下す。

駄目だと僕が感じればリテイクの指示を出すわけである。

みんながノリノリで音を当てている。

ワンシーン終わるごとにガラス越しに僕の顔を窺う。

元々テンションの上がり下がりに乏しい僕は低い声のトーンで「いいでーす」とか「おっけーでーす」と毎回返していた。

それがクラスメイトたちのツボにハマって、ワンシーン録るごとにブース内で笑いが起きた。

関西弁の生徒は僕が「いいでーす」「大丈夫でーす」と返す度に、「お前、気ぃ抜けんねんソレ!」と笑っていた。

僕はボケでやってたわけではなく、そういう返事しか出来なかっただけだが、笑いが起きていたことは嬉しかった。

録音室の講師も笑っていて、それ以来その講師に名前を覚えられた。

職員室に別の用事があっていった際には「おう、どうしたこんなとこで」と話し掛けられるようになった。


撮影実習が終わったのは11月の後半だった。

僕は前々から、この実習が終わったら登校拒否になろうと決めていた。

クラスのみんなにも、実習が終わったらしばらく来るのはやめると伝えていた。

今考えると妙な話だが、当時あのクラス(学校?)では学期の途中から来なくなる生徒がとても沢山いた。

だからみんなそういうのには慣れっ子だった。

すでに同じクラスの数名は中退もしていた。

理由はさまざま。精神を病む人もいたし、音楽の道に進む為に辞める人もいた。

僕の理由は単純にかったるくなったからだった。

映画撮影の現場は肌に合わないと感じていた。

中退するかどうかは決めていなかったけど、忙しさにうんざりしていたから暫くゆっくりして考えたいと思っていたのだ。

撮影が終わって、打ち上げの飲み会を教室で行った。

講師の映画監督から「お前は女いないのか?」とからかわれたりした。

こんなふうな絡みは1学期には起こらなかった。

僕は何もしてないながら、色々なことが重なってちょっとずつ講師に存在を認知され始めていた。

皮肉なことに登校拒否を決めたタイミングで、それを知らない講師に気に入られ始めていた。


実際に学校に行くことはやめた。

母親に「明日から学校行かないから」と伝えた。

その時のやり取りを厳密には覚えていないけど、特に何も言われなかった気がする。

あの時の母の内心を今思うと罪悪感しかない。

父には止められた。

「お前が目指してた夢と、今の学校と、広い目で見ると繋がってると俺は思う。だから続けた方が良いんじゃないか。俺はお前のことをずっと見てきて、一つのことを続けるところが最もお前の良い所だと思っていた。だからここも続けられるんじゃないか、お前なら」

親心ある励ましと、息子の将来を心配した言葉だった。

でも僕は頑固だから聞く耳を持たず、学校には行かないとつっぱねた。


することがなくなった。

だから週末だけ、ホテルでバイトを始めた。

ホテル内の催事等の裏方をする仕事だった。

キャラクターショーや披露宴の準備をした。

全く肌に合わなかった。

だからろくに出勤しなかった。

シフト自己申告制だったからそれが可能だった。

つまり僕はほとんど家にいた。


ある夜、父が仕事から帰ってくるなり僕に言った。

「お前、学校どうするんだ」

僕は言葉に窮した。

もう一ヶ月近く休んでいる状態だった。

父は続けた。

「辞めるなら辞めろ。行くなら行け。ニートみたいなのは俺は許さねぇからな」

おそらく、生まれてはじめて父に本気でキレられた瞬間だった。

プライドだけ高い僕は憮然とした様子で「辞めるよ」と答えた。

父は「そうか」とだけ答えた。

学費、息子の将来、期待、

そんなものを一瞬で台無しに僕はしたわけである。

今の自分があの時の親の立場だったらどう感じるだろうか。

専門学校絡みの記憶については、父にも母にも申し訳なさしかない。


そして僕は退学した。


幼少期から将来の夢を持っていた。

それが映像の世界に入ることだった。

厳密に言えば特撮をやりたかったのである。

ウルトラやゴジラみたいなものを作る世界で生きていきたかった。

だから早く大人になりたいと子供時代はずっと思っていた。

自分の将来は、その道しかない。自分の人生はそのためにあると思って生きてきた。

入口に立った瞬間逃げてしまった。

僕は生きる道をあの時踏み外した。

自分の人生の意味を手放した。

まさかそんな人生になるとは思っていなかった。


退学の手続きをするため、久しぶりに学校へ行った。

既に年は明けていた。

風の強い日だった。

職員室で書類を済まし、担任と共に教室へ向かった。

クラスに入ると、クラスメイト数人がいた。

他の生徒は新しい実習のため外出しているらしかった。

みんな先に進んでいた。

久しぶりに現れた僕の姿に、クラスメイトは驚きを見せた。

僕は別れの挨拶をした。

担任は力強い目で僕を見た。

「これからの人生頑張ってくれ。それが同じ時間を過ごした俺たちとしても唯一嬉しいことだから。いいな」

激励の言葉だった。

学校を出た。

一度、振り返ってみた。

この校舎に入ることはもう二度とない。

自分がこれからどう生きていくのか全く見えていなかった。

ザ・ノープラン。

僕は歩き出して校舎から離れた。


しばらくしてクラスメイトが送別会を開いてくれた。

最終日に挨拶出来なかったメンバーもいた。

酒を飲んであれこれ話した。

あの日会えなかったメンバーが外出先から帰り、僕が訪れたことを聞くと、会えなかったことを悔やんでくれたらしい。

どんな様子だった?と教室にいたメンバーに尋ねると、聞かれた方はこう答えたという。

「髪がボサボサだった」

そういえばたしかにあの日、風は強かった。


あの日々からおよそ17年。

僕は今も生きている。

最後に校舎を後にして、駅に向かって歩いたあの時。

電車に揺られて、学校から離れていったあの時。

夢を捨てたんだなと感じていたあの帰り道。

それでも僕は生きようと試みたということだ。

奇しくも風が強かったから。

もちろん意識なんてしていなかったけど。

あれから今日まで何日経ったのか知らないが、学校を辞めた後はしばらく無目的に生き、やがて違う夢を追うようになった。

それからさらに夢は変わって、今もその夢を追いかけている。

日々の生活は会社員としての時間に忙殺されている。

気付けばおじさんと呼ばれる年齢になっていた。

夢を追うなんて年甲斐のない行為なのかもしれないが、それがないと生きていられないのも事実だ。

ただ、退学した日に捨てた夢。その後抱いた別の夢。そして今の夢。

この夢は果たして本当に夢と呼べるのか疑問だ。

僕にとって真の夢は、やはり少年時代に抱いていたあの夢たったひとつなんじゃなかろうか。

大人になってから抱いた夢は単なる目標や目的に過ぎないのではないか。

夢は希望に満ちていた。

考えるだけで楽しかった。

自らそれを捨てたのだから、夢はもう二度と僕の手に戻ってはこないだろう。

そんな人生に意味があるのかどうなのか。そんな疑問をずっと抱えながら17年生きてきた。

たまに屈しそうになるけど、でもまだ生きている。

案外生きられるものだな、とか言いたいけど、存外生きるのはしんどい。

それが本音だ。

でも生き続けないといけないのが義務らしいから、それをこれからも果たしていくしかない。らしい。


ちなみに退学してから七年ほど経ったある日、僕は偶然にも職場で元クラスメイトと遭遇した。

紆余曲折経て何だかんだ映像業界の会社に就職していた僕は、編集職として会社を訪れていた同窓生に社内で会ったのだ。

お互いに驚いたけど、たぶん向こうの方が驚いたいただろう。

それがきっかけのひとつにもなって、その後同窓会のような飲み会に誘われた。

会場は同窓生がマスターをしているバーで貸し切りだった。

当時のクラスメイトの半分くらいしか参加していなかったけど、楽しい時間だった。

卒業して映像業界に入った人間は2人ほどしかいなかった。

他は一般企業に就職したり、フリーで劇団をやっていたり、それぞれの人生をそれぞれなりに歩んでいるようだった。

どんなことがあっても、人生ってのは勝手に進んでいくものなんだなぁと感じた。

まさか中退した僕が再びみんなと酒を飲む日が来るだなんて想像もしていなかったから、あの夜は嬉しい夜だったと今でも感じている。

その夜からも既に十年近く経っている。

みんな、元気にしているのかなぁ。

そんなことを時々思う。

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