見出し画像

【エッセイ・前】みんな喜ぶ「主体性」

最近は教育の方面で授業だけでなく,様々な方面に関わらせて頂いている。

先月の話になるが,教育システムの開発の会議があり,私も呼ばれた。
「教育システムの開発」なんて大事なものに私などを関わらせてしまって良いのかと,その会社の行く先を案じながら現場に向かった。
以下に不安材料を列挙する。

① まず私から何か案が出てくると思っていること自体が,大きな不安だ。

② また,何か案を出すことができたとして,それが採用されようものなら即座に辞表を出そうと決意を固めた(実際は業務委託である)。

③ さらに,「教育システムの開発」以外に何も聞かされずに呼ばれているため,現段階で何もアイデアがないか,ただ私に話を聞いてほしいだけかの可能性も高い。不安だ。

④ 今の時代でシステム開発と聞けば,どうせ流行りのIT,それもAIを使った何かかなと予想するが,ITに強い人がその組織にいた記憶がない。不安だ。

⑤ そもそも現場に時間通りたどり着けるかどうかが,不安だ。

その他数多ある不安を抱えながら,ゆっくりとなるべくたどり着かないようにしながら現場に向かっていった。


私の思いとは裏腹に,現場に到着した。2人の担当者が,「何も浮かんでないんです」という顔で明るく出迎えてくれた。

お茶を出してくれたので,ありがたく頂きながら世間話を始めた。
このまま世間話をして終わるのが一番良いなと思いながら,なるべく話を引き延ばしていたが,とうとう本題に入った。


当然詳細はここでは言えないが,長々と話し合ってかなり穏当なところに落ち着いたため,とりあえずは皆それなりの納得感を得て解散した。

一方で,会議では口にしなかったが,詰めれば意外と良いのではないかと思う案が浮かんだので,以下に整理しておきたい。

関係者:
本プロジェクトに関わるのは,学生,講師,学校の先生,保護者(購入意思決定者)

課題:
課外授業の最後の10~20分を使って何か効果的なことをしたい。どんなものが考えられるだろうか?

ざっくりとこのようなことを考えた時,教師としては真っ先に「確認テスト」のようなものが頭に浮かぶ。

これはこれで悪くないのだが,ここでふと,たまに頭によぎる「主体性を育む授業」のことがまた浮かんだ。

マス教育の場合,教師一人に対して学生は複数である。
たとえば40人いた場合,教師一人が全員を主体的にするは,相当のスキルが必要になる。

このスキルは,「授業力」とひとくくりにしてしまえばそれまでだが,それは「担当科目に関する知識」「教授力」「コミュニケーション能力」,その他「関係構築能力」「人格」など,本当に様々な要素の総体だと考えている。(どれか一つでも私に欲しいものだ)

ただでさえ教員が不足しているこの時代に,この観点から「一流」を求めてしまうのは,需要に対して供給が圧倒的に少なくなると予想するのは簡単なことだ。(それでももちろん,諸先生方は非常に前向きに努力されている)

学生が多くなるほど受け取り方も多様になるわけで,全方位的にカバーするように授業するのは,集団催眠にでもかけない限りほとんど無理である。(この点,「神」とか「カリスマ」化させて,事前にイメージの刷り込みをする方法はある)

ここで,システム的として出てきたのがアクティブラーニングである。
システム化させてしまえば,どのような教師でも一応は主体性を引き出す授業ができるという魂胆だ。

これが現場で功を奏しているのかというと,そもそもあまり広まっていないことも多い。
しかし,有効性は私も認めているので,長い目で見ていきたい。


そこで他に何か手はないかと考える。

そこで思いついたのは,「めんどくさいから,学生自身に自分から主体的になってもらえばいいや」ということである。

こういうと無責任さがすごいが,どうせ社会に出たら主体的にならなければいけない場面が多くなるのだから,それも学びの一環としてしまえということである。(どうしても無責任さは取れない)

ではどのようにして学ぶのか。

考えてみれば,学生は常に大人の評価の対象にされている。
小テストを受けては点数を貼りだされて周囲の目にさらされ,定期テストを受けては順位付けされて自信を失い,学期の終わりには成績表をつけられて親に怒られる(すべて私のことである)。

ネガティブ側に目を向けたが,これでは当然,「頑張ろう!」と主体的になどなれるはずもないと思わないだろうか。

また,頑張れる人も,「怒られないように」「恥をかかないように」というモチベーションだったとしたら,それは本当に主体的と言えるのか。

一定数,「勉強するのは当たり前(優等生タイプ)」「勉強が楽しくてしょうがない(研究者タイプ)」「人より抜きんでるのが何より気持ち良い(アスリートタイプ)」がいるだろうが,これらの人に最も効果的な教育が「マス教育」と呼べるのか。(否定しているわけではない。「主体的」な少数と「受動的」な大多数を育もうと思えば効果的だ。「あの子はすごいから」「やっぱあいつにはかなわねえや」と思わせるほど成功だ。)


まるでテストや順位付けが悪いかのように書いたが,いまさらそれをすべて廃止するというわけにもいかない。また,テスト等を実施することによるメリットも膨大だ。

とはいえ,学んでいるのは一人ひとり個性を持った個人である。だから,少しでも生活の中で前向きに,何かしら自分なりの目標をもって前進していけるように手助けしてあげるのも悪くはないだろう。

一方で,先生も時間がないので,そんなに一人ひとりを懇切丁寧に見るわけにはいかない。

だから,生徒に自分で自分の面倒を見てもらえば良いということになる。

また長くなった。
続きは次回に。

(写真: 久しぶりに行った東京競馬場。競馬は受動性と射幸性を育む。賭けはしないが。)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?