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【感想】とも呼べない雑文

どのような教育が「よい」教育か
苫野 一徳 (2011年)


結局のところ著者が一番言いたいこと
を大胆に推測する

教育について色んな人が好き勝手に語りすぎて、教育界は迷走しているけど、もうやめにしよう。教育の本質は、「「それぞれの人の自由」と「みんなの自由の相互承認」を実現すること」だと言って間違いないから、この定義を土台にして、議論を始めよう。



この本を読んで、
想起し発想し、
感想して思い出す


この著者の考え方や語り方は、嫌いではない。特に前半は興味深く読んだ。

しかし… 
正直、通読すると物足りなさを感じた。
その、私の心証の根拠というわけではないが、この本の読後、「こんな考えが浮かんだ」「これについて言いたい、書きたい」といった、所謂インスピレーションというのがガツっと来ていない。

ということで、以下に感想とも呼べないような、呟きのような、単語とフレーズの断片と、その延長っぽいものをランダムに書き散すことにする。


ガート・ビースタ

の似たような題名の本を読んだことがある。
素人の私には、苫野とビースタの主張のどちらがより的を得ているかの判断はできない(そんな知識ない)。しかし感じたのは、ビースタの方がより広い、より深い話をしているように感じた。

教育の根本を問いなおす――二人ともざっくり言えばこういう話を始めるわけだ。その中身について苫野とビースタが何を言っているかはひとまず置いといて…
じゃあ「根本を問いなおした」のちに何が変わるのかっていうコトに注目すると、苫野は教授法、教師の資質、教育行政について語る。(もちろんそれは妥当なことだ)
しかし一方、ビースタは教育の根本を問いなおしたら 民主主義や消費社会との関り方をはじめ、この世界の見方がが大きく変わるよって言ってる気がする。


竜頭蛇尾

本のタイトルや良し。序章のツカミも良い。
しかし途中からだんだん話がくどくなり、首をかしげたまま終わる。
クライマックスで現象学やヘーゲルの話をしてから、最後に「信頼と忍耐が教育の秘訣である」っていうのは正直ヒジガクッてなってしまった。


本質…

この本に何回出てきたか数えたくなるほど「本質」という言葉が頻出する。また、著者は別の機会に「本質観取」の大切さを訴えてもいる。きっと大事にしている言葉なんだろうと察する。
著者には全く罪はないのだが、ちょっと前から個人的に「本質」という言葉と距離を取りたいと思っていたので、読書中はちょっと食傷気味だった。


教育と「よさ」を語るなら

先行研究として村井実に触れないのはなぜだろう?
新旧国内外の様々な哲学者・研究者の名前が出てきてたけど、村井実に言及はなかったのは残念。絶対知っているだろうに。


素人がツッコミ

してみるだけなんだが、本論のメインディッシュのところ(現象学からヘーゲルを援用して「本質は自由である」に至るところ)…

(前提)人間には欲望がある
→欲望のあるところ制限(不自由)がある
→人間は不自由を逃れたいと思う <ココ!>
→人間は自由を求めざるを得ない(結論)

この四段論法っぽい感じになってる中の、<ココ!>の部分に飛躍がある気がする。
人間にとって不自由は単に忌避すべきものなのか?
全ての人間が自由を理想のゴールと考えるのか? 
…なんて思ったり。



と、若干腐したようになってしまったが、たかが一冊読んだだけだ。
著者は近年にも気になるタイトルの本を出しているので、また読んでみたいと思う。

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