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学校教育の問題点

ここ最近、私は「学ぶ」ことの楽しさ、素晴らしさを身に沁みて感じる。(高校を中退してから学ぶ楽しさに目覚めるとは、なんとも皮肉な話だが)。

今回は、高校を中退した17歳の私が、学校教育の問題点を洗い出し、本来の「学ぶ」姿勢について考えていきたい。

未熟な文章で至らぬ点も多々あると思うが、是非読んでいってほしい。

学校教育の問題点

学校教育の問題点は、以下の3つだと私は考える。

①苦手意識
②他者との比較
③考える機会の喪失

一つずつ順に説明していく。

①苦手意識

まず、学校教育の1番の問題は、「生徒に苦手意識を植え付けさせている」ということだ。

あなたの学生時代を思い返してみても、「勉強が好きだ!」という方は少なかったのではなかろうか(あなたが灘や開成に通っていたのなら、勉強好きな人が多かったかもしれないが)。

基本的に高校での授業は、「その科目のエッセンス」のみを淡々と詰め込まれる。

教科書に書いてある事実や原理を、教師はただひたすら分かりやすく述べているだけ。

こんなつまらない授業はないだろう。

教師の本来の役目は、担当科目の知識を生徒に詰め込むのではなく、担当する科目を勉強する楽しさを伝えるべきなのだ。

そもそも教師はただの教員採用試験に受かっただけの一般人にすぎない。

数学の知識だけが知りたいなら、本職である数学者が授業をしたほうがよっぽど良いに決まっている。

しかし、高校では指導要領が決まっているので、高校数学の範囲を超えた内容を教えることはできない。

だからこそ、高校教師は、勉強する楽しさを生徒に伝え、知的好奇心を揺さぶってあげることが重要なのだ。

②他者との比較

次の問題点は、「他者との比較」だ。

高校には当然、定期テスト、模擬試験、沢山のテストがあり、そして最後には大学受験という大きな壁が立ちはだかる。

その壁を突破するために生徒たちは血眼になりながら、点数を取るために勉強をする。

また、教師たちも

「東大に受かった先輩は1日10時間はやってたぞ!」とか「大学受験で頑張れないやつはこれから先何も頑張れないぞ!」

と、高校生を鼓舞させる。

更にメディアでは、「教科書を一回見ただけで記憶する東大生!」とか「京大生YouTuberは〇〇を全て理解することができるのか!?」と、やたらと東大生やら京大生を持ち上げ、ますます受験勉強というものが神格化されてしまう。

当然、親やメディアがこれだけ煽ると、高校生たちはやる気が出るし、志望校に受かるために、他者を出し抜かんと、一生懸命に勉強する。

しかし、ここが問題なのだ。

確かに、志望校に受かる、席次10番以内に入ると言う目標に向かって、工夫と努力を積み重ねるのは大変良いことだ。

しかし、学ぶ楽しさが薄れているように感じるのだ。

勿論、受験勉強を楽しんでやっている人は別として、多くの受験生は「苦しんだ先にゴールがあるんだ!」というような、苦しみを伴わなければならないという考えがあるように感じる。

そこで私は間髪入れず、「苦しいなら、まず勉強というものを根本から考えろ」と言いたい。

「学ぶのに苦しみを伴う」と言う考え方でいると、大学受験という目先のゴールは達成できても、その先の人生で勉強をしなくなる可能性が高い。

勉強とは何かをざっくり言うと、知識・技能を身につけることという意味であるが、これは人生を豊かにする上で必要なものであり、勉強は一生するものなのだ。

また、高校生の勉強と社会人になってからの勉強では、意味合いが全く異なる。

他者と比較されるものでもないし、それで順位がつくこともない。

自分の人生を豊かにするという目的の上で、自分の好きなこと、やりたいことを実現するためにするものなのだ。

なので、高校生のうちに学ぶことに対してネガティブな印象を持っていると、また苦しみながら勉強することになる。

学ぶことの本質は、席次や点数ではないのだ。

③考える機会の喪失

学校の授業は、基本的には全て受け身である。

教師が教壇に立って、生徒に一方的に、数学の公式だとか、現代文の常識や読解方法、英語の単語や文法を解説していくような形だ。

生徒はそれを聞き、ノートに記録したり、理解しようと頑張る。

しかし、それは本当に「学ぶ姿勢」としてあるべき姿なのだろうか。

ただ教科書に書いてあることをありのまま暗記したり理解することは、学ぶことではない。

例えば、歴史の教科書をただ読んで暗記するのではなく、「この人物はこうやって国を治めたけど、こんなやり方もあったんじゃないか?」とか「なんで彼らはこんな過ちを犯したのか?」と、教科書に書いてある史実を踏まえてあれやこれやと自分の頭で考える。

そして、それを他の生徒とシェアしたり、ディスカッションをする場を設けることが、「学ぶ楽しさは」にも繋がるし、受験勉強に役立つことは勿論、一生使える「智慧」として残るモノになると思う。

もっと生徒に、自分の頭で考える機会を与えるべきだ。

近年、ディスカッションが中心の授業をしてくれる教師も最近は増えてきている。これは良い傾向だと思う。

ただ黒板に書いてあることを理解するという味気ない授業ではなく、生徒たち自身が能動的に学び、楽しさを見出せるような工夫もしてあげるべきなのだ。

おまけ: 謎校則

これは、学ぶ姿勢とはあまり関係がないが、私がずっと思っていたことなので述べさせてもらう。

まず言いたいのは、学校は本当に謎校則が多い。

私の学校にはこんな校則があった。

〇髪を染めたりピアスを開けるのは禁止
〇授業中の飲食は禁止
〇女子のスカート丈は膝より下

全く意味がわからない。

髪を染めたりピアスをしても誰にも迷惑はかけないし、授業中に飲食をしても、ゴミを出さず、大きな音を立てなければ問題はないはずだ。

映画館なら、少しでも音を出したら他人に迷惑なのでまだわかる。

しかし、学校の授業は映画でもなんでもない。

女子のスカート丈に関しても、ただでさえみんな同じ制服を着せられ、年頃の女子はファッションなどにも関心を持ち始めるのに、スカートの丈でさえ縛られる。

しかも男子である私としては、やはりスカート丈は短ければ短いほd…

とにかく学校には、教育という本筋からずれた、「昔からそういうルールだから。」と、古い慣習にとらわれている謎校則(拘束)が存在するのだ。

さいごに 学校教育はもっとゆとりを持ったほうがいい

これまで偉そうに学校教育に物申してきたが、「そうは言っても、受験で大変なのだから、勉強を楽しむ余裕なんてあるはずがないだろ!」という反論がありそうなので、これについても述べておく。

先ほども言ったが、受験勉強を重視するような教育や、メディアの扇動はやめたほうがいい。

「受験勉強を頑張らないと人生終わる…!」みたいな危機感で勉強する高校生が増えるからだ。

教育も、社会も、人も、みんな緩くていい。

その「緩さ」がなければ、学ぶことの本質的な意味を考えなくなってしまい、何より自分の人生が豊かにならず、社会に閉塞感が生まれてしまう。

「学び」はもっと自由で、緩くて、楽しくあるべきだということは間違いないのだ。

今回はこれで終わる。

私の主張に「それは違うんじゃないか?」とか、何か気になることがあれば、些細なことでもよいので、どんどんコメントしていってほしい。

それでは。

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