#72 恋に落ちたくて落ちたわけじゃない
こんばんは。id_butterです。
人生で最高に不幸な時に恋に落ちた話 の72話目です。
急に、あるときふと思った。
あれ、わたし、がんばってたな…?
わかっていても、腑に落ちたわけじゃないんだな、ということを今回書く。
先週くらいから、ずっと考えこんでいた。
目の前にあるものがよく見えないような、たしかに掴んでいるはずなのに掴んだそばから消えていくような、よくわからない感じだった。
このときあたりだ。
書き終わった瞬間に、なぜか何個か降りてきた。
降りてきたひとつめは、「しょうがなくない?」だった。
過去のnoteに連続でいくつかスキを残してくれた方がいて、その記事を読み返していたら、わたしの中の誰かが言ったのだ。
こんなの、恋に落ちてもしょうがなくない?そりゃあ、落ちるよ、と。
そうしたら、涙が止まらなくなった。
「40を過ぎて」とか、「母親なのに」とか世間の目ではなく、わたしが許せなかったのは自分の弱さだった。
自分が弱いから、隙を作って、恋なんてものを呼び込んだのだ。
わたしは、こんなことを思っていた誰かAがいたことを知らなかった。
ひとは誰でもそうかもしれないけれど、わたしのなかには何人もの自分が住んでいる。今回の一連のあれこれについても、過半数の同意は得られていたかもしれないけど、全員が賛同していたわけではなかったのだ。
わたしの中では、意見を封じ込められた誰かAが、ずっと抗議を続けていた。
次に降りてきたのは、「しょうがないよ」だった。
彼を愛しきれなかった、でもしょうがないよ。十分がんばったよ。
わたしは、結婚する前から決意してきたことがあった。
このひとがのたれ死んだら、ちゃんとお葬式をあげてお骨は故郷に持って帰ってあげよう。それまでは生きていよう。
なぜだかわからないけれど、20歳くらいからついこの前までずっとそう思っていた。バカみたいだけど、彼はわたしにとってそういう存在だった。そうとしか言いようがなかった。
でも、できなかった。
手を離した。
あきらめた。
、、、最後までやりきれなかったなぁ。
やっぱり、涙が止まらなくなった。
どの曲がり角を間違えたんだろう。
そもそも、わたしじゃなかったのかもしれない。
わたしじゃない誰かなら、彼を幸せにしてあげられたかもしれない。
もしくは、わたしに関わるひとは全員不幸になるんじゃない?
わたしの中の誰かBは、答えが永遠に出ない問いを抱えて今でも泣き続けている。
その誰かBを、別の誰かCが「しょうがないよ」となぐさめている。
さらには、だってこのまま死にたくなかったんだよ、と呟く別の誰かDは泣き続ける誰かBを遠くからふてくされたように眺めている。
今まで、その誰かたちをいないものとしてきた。
前に進みたいわたしたちの声の方が大きく、その泣き続ける誰かBは前を向いて歩こうとするわたしたちの総意には邪魔な存在だったのだ。
わたしは、誰かAも誰かBもいないものとして無視をしてきたことに気づいた。
でも、無視をした誰かEだって、前に進もうと必死だっただけだ。
誰も間違ってない、それぞれ全員のわたしは正しくて、でもだからこそそれぞれの苦しさを抱きしめたまま離せないのだ。
そう思ったら、そうかわたしがんばってんだなと思えた。
自分でそう思った、というより最後にそのひとことが降りてきてくれた。
今まで、そういってくれた人はいたのだけれど、上手に頷けなかったのだ。
頭じゃなくて、腹で理解する、そんな感覚。
そういうとき、いつも急に涙がボロボロ止まらなくなる。
弱さは罪だと思っていた。
弱い母親は、悪だ。そういう母親を守れない父親も、くずだ。
自分の繊細さも呪っていた。
だから、誰かの優しさにつまずいて、うっかり恋になんて落ちてしまうんだ。
まだ、残っていた。
実在する母と父への怒りかというと、少し違う。
わたしは、母と父のようにならないことを目指している自分を捨てられなかったのだ。怒りというより、子どもにいつか害をなすのではという恐怖に支配されていた。簡単に怒りを捨てるわけにもいかなかった。
これまで、その怒りに支えられて歩いてきたのだ。
さまざまなわたしの気持ちのかけらが歩こうとするわたしの足に刺さる。
母としてこうありたいと思う自分と、もともとの素材そのままの自分は乖離して、ひとつの世界を構築できそうもない。ふたりの利害が一致することはあるんだろうか。
例えば、セックスをしているときに頭の隅で母としての自分が責めたてているのに、ゆったり快楽に浸れるはずもないのだ。
どの瞬間にもすべてのわたしが存在していて、そのときに真ん中にいるわたしを監視し評価している。
彼に恋をしたことを後悔しているわけではない。
けれど、したくなかった、そういう自分になりたくなかったという気持ちを抱えているわたしがいる。
この気持ちを知らなければ、こんなに世界はバラバラにならなかったんじゃないの。知っていたはずの世界がいつの間にか残酷で澄んで色づいて鮮やかに目まぐるしく変化していく。
こんな世界は知らない。
怖いよ。
なんで今なの、と思ったりする。
自分がこんな状況じゃなくて、3年後とかだったらよかったのに。
なんで彼なの、とも思う。
社内で上司で年下で、めんどくさすぎる。
あるいは。
恋をするかしないかを最初に選べたとしたらどうしただろう。
どの自分が真ん中を勝ち取っただろう。
わたしらしく生きる。
なぜか、ずっとそれを求められてきた。
その言葉だけを聞いたら、誰もがいいことじゃんと言うだろう。
けれど、わたしはひとりではなく、世界なのだ。
たくさんのわたしが生きるこの世界を平和に保つこと、それがわたしらしく生きることだ。
目的は勝つことではない、全員が平和に暮らせる優しい世界を創ること。
恋をするわたしも母であるわたしも過去を悔やむわたしも抱きしめて、矛盾や不条理を抱えたまま、それでもみんなでのんきに笑えること。
ずっと、その方法がわからなかった。
すべてのわたしは平等で、尊重されなくてはならない。
全員オープンに主張できる環境が整備されていなくてはならず、我慢を強いられることもない。
利害が不一致であるときもあるが、しょうがない。
それでも、戦わず、お互いに認め合い、上手に赦し合いながら共存していかなくてはならない。
結局のところそれは全部わたしなのだから。
表に出るわたしは限られた数人のわたしだけかもしれない。
けれど、そのわたしは世界を縛らない。
どのわたしも誰にも縛られない。
わたしとわたしは一致していなくてもいい、矛盾していてもいい。
こういうことを自分に問い続けるとき、果てしなくひとりだと感じる。
頭がシンとしてくる。
答えはどこにもなく、見つかるあてもない。
わかったところで、得られるものがあるかもわからない。
また次の問いが待っているだけかもしれない。
ただただ、孤独だ。
そんな時にこのnoteを開く。
実はこのnoteだって、ヒリヒリしながら書いている。
万人受けしないことは百も承知だし、誰かを傷つけるかもしれないと思いながらどうしても消せない一行を書いては消し書いて結局どうしても消せずに、投稿ボタンを押すときがある。
届くべきひとにだけ届くはずだと信じて。
ここまで読んでくださってありがとうございました。
嬉しいです。
あなたの世界が今日も優しくありますように。
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