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短編連続小説

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mille nuits⑩

キラキラしていた海が遠くに広がる窓を背にして彼女は立っていた。
彼は教室を出て真っ直ぐに靴箱へ向かった。
スニーカーを履くのがもどかしくて、かかとを踏んだまま、校庭へでた。
先輩に遅いぞと言われバスケットボールを取りに行きながら三階の窓を見上げると、彼女は、まだそこにいて遠くを眺めていた。すぐ下の彼に気づくことなく、彼女は、ずっと遠いところを眺めたままでいた。
心がぎゅっとした。視線を空に移すと、

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mille nuits⑨

mille nuits⑨

彼にしたら、最初の訳も分からない傷だけが痛むだけで、集まってこようとも、離れていこうとも、気にもならなかった。どうせ、最後にはだれものこらない。誰もずっと友達では、いてくれなかった。
彼は握りこぶしで鏡を叩いた。鏡は大きな音を立てて砕け散った。いくつかが彼の頬をかすめ、頬を傷つけ血を流させた。そのうちのひとつのけが砕けた残りの鏡の破片の、一つ一つに彼が映りこんだ。
翌日彼は名刺の男のもとへ出かけて

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mille nuits⑧

mille nuits⑧

この名刺の男は何かを熱心に話していた。
思い出せないけれど、彼自身に関わる何かを熱心に話していた。
「ちょっといい男だからって。」
唐突に、さっきのカフェの女の子の言葉が耳に蘇る。映画女優のような彼女の、リンゴのように赤く色づけられた唇をもい出す。
起き上がって、ユニットバスへ行き鏡を見る。いつもと同じ顔が鏡の向こうからこちらを見ているに違いない。
まともに自分の顔を見たことが数回しかない彼は目を

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mille nuits⑦

mille nuits⑦

一緒にいる男は、左手で右肘を支えながら、右手を顎のあたりに添えて彼を少し面白そうに見ていた。
男は始終にこやかで、最後には次に会う場所や時間まで細かく書きこんだ名刺を握らせ、じっと彼を見つめていった。
「今度は、なくさないでよ。」
彼は、といえば、昨夜このカフェに入ってくつろぐ『静けさ』と『風』のことを思い出していて、実際には男の話などまともに聞いていなかった。
男が熱心に話しているあいだ中、最初

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mille nuits⑥

mille nuits⑥

人と目が合わないようにポケットから小さなサングラスをとりだし、慣れた手つきでかけると、彼は猫背で歩きはじめる。サングラスをかけていると、誰かと肩がぶつかっても軽く会釈しただけで、上手に逃げられると思っていた。
結局は、どんなことをしてもひと目についてしまい、猫背もサングラスも役には立たないということに、うすうす気づきだしてはいるものの、頼るものがほかになかった。むしろ完全な夜に近づきつつある時間の

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mille nuits⑤

mille nuits⑤

年末を前に、街は色とりどりのイルミネーションで華やぎ始めていた。
磨き上げられたショーウインドの中で、飾られているマネキンが着ている服は、どれも温かそうに見えた。彼は、その中の一枚のセーターに心をひかれた。乳白色のセーター。アラン模様でしっかり編まれている、見ているだけで暖かそうな、いや、見ているだけでもきっと高額に違いないと分かるセーター。もっとよく見たい。彼は、回転ドアをくぐって、外のマネキン

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mille nuits④

mille nuits④

夜間作業のあとの朝日は、やたらと目に眩しかった。途中のコンビニでドーナツと牛乳を買い、うちに帰りつく頃には、近所の人たちが会社へ行く時間になる。隣の部屋から出てきた人と、目があった気がしたので軽く会釈をし、顔を上げると、それまで住んでいた男性ではなく女性だった。今住んでいるアパートは人の入れ替わりがめまぐるしかった。
彼は、部屋に入りそのまま倒れるように眠った。その眠りはいつもと変わらず永遠に目覚

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mille nuits③

mille nuits③

黄昏時に彼は、アパートを出て、皆が出勤に急ぐ時間に帰宅する。
西に傾く太陽の美しさなんてどうでもいいような喧騒。帰宅を急ぐ人たちの間を泳ぐようにすりぬけ、すりかわしながら、彼は仕事場に向かう。
時々、彼は立ち止まり太陽が地上を立ち去る瞬間の空で、繰り広げられる様々な色の駆け引きにどうしょうもなく惹かれて足が動かなくなる。ビルのあいだに沈んでいく夕陽は、家族と住んでいた街で見た夕陽とは色も大きさも違

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mille nuits②

mille nuits②

彼の生活の拠点は空想の世界であり、現実の生活こそ彼の悪い夢の様だった。
日中は人の群れや切れ間ないクルマの喧騒で目眩がする街も、ひとたび夜になると、鏡の中に迷い込んだ別世界、深い海の底のような気がした。ここではないどこか、別世界に迷い込むような感覚が好きだった。彼は、寝静まった真夜中や、街がまだうたた寝してるような早朝を、空想しながら歩くのが好きだった。彼は一日中誰とも離さなくても平気だった。一日

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mille nuits①

mille nuits①

彼は人が苦手だ。
けれど街の人混みは好きだ。特にこの街の人混みは、彼を気にしない。彼に違和感を覚える人もいなければ目を止める人もない。だから、この街の人混みにいると、寄る辺ないけれど、一人ぼっちではない気がする。人の中にいて、誰にも気にかけられることなく、人を見ているのは心地よかった。彼は人と関わるのが、とにかく苦手だった。うまく言えないけれど、面倒だったのだ。
なるべく人とかかわらなくて良い仕事

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