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絶罪殺機アンタゴニアス 第一部 #35

  目次

 唖然とするゼグを前に、アーカロトは据わった目つきで淡々と語り続ける。
「宇宙は意識なしには存在できない。意識も宇宙なしには存在できない。人間原理とはそのような考えかたのことだ。ヴァ―ライドはその構造に意図的なメスを入れた」
 ゼグは機動牢獄の人工筋肉を乾燥させたジャーキーをもそもそかじりながら、胡乱な目つきを返す。
「さっっっっぱりわかんねえ」
「箱の中の猫のたとえ話は知っているかい? あれは実は箱の中に限った話ではないんだ。真実と虚構の重ね合わせの状態こそが森羅万象の本来あるべき状態であり、我々が宇宙と呼んでいるこの厳然たる物理法則に支配された世界は、曖昧な夢の海に浮かぶちっぽけな気泡のようなものだ。偶発的に発生した、異常な領域。大した理由もなく存在し、大した理由もなく消滅する可能性を孕んでいる」
「はぁ……そうなの」
「いやいや、これはこれは! 盛況だねえ、実にこう、心が浮き立ってくるじゃあないか! 私は昔からこういう客層が血の気の多そうな酒場が大好きでねえ! 香しいトラブルの匂いでぷんぷんだねえ! いや実に好ましい! マスター、この店で一番高い料理と酒を頼むよ。私と連れの二人分だ! 私は吝嗇家の誹りだけは我慢ならなくてねぇ!」
 隣に別の客が座ってきた。他に空席もないので仕方なかろう。
 ゼグはちらりとそちらを見る。かっちりとしたスーツを着こなした伊達男風のおっさんと、のっぺりと白い顔をした青年だった。
 完全なる無表情。宇宙のように澄み切った虚無の瞳。長くのばされた黒髪が肩に垂れ下がり、その面は女と見まがうほど秀麗だったが、首から下は隆々とした筋骨のうねりが見て取れた。
 一瞬〈原罪兵〉かと思うほどの屈強さ。だがここにトラブルもなく入ってこれた以上、この青年は常人のはずだ。連れのおっさんの芝居がかった長セリフに一切反応を示すことなく、「腰掛ける人間」の見本みたいな姿勢でまっすぐに前を見ていた。その視線の先には、何もない。
「……聞いているのかい、ゼグ。ジャーキー食べていいかい、ゼグ」
「好きにしろや。おめー、無表情で酔っぱらうタイプだなオイ」
「むぐむぐ。それでだね、ヴァ―ライドは、この対称性が敗れた奇妙な領域における時間の不可逆性、および真実と虚構の二律背反性をかき乱す量子的波形パターンを解析し、ごく小さな範囲で「物質に因らず精神が存在できる空間」を創出することに成功した」
「おー、そうかそうか」
「だけどその空間は、一瞬だけしか保たなかった。あまりに小さすぎたからだ。シュレディンガー・エフェクトによる現実改変は一種の自己言及構造を孕んでいるからね。小さな歪みでは修正されてしまうんだ。そこで彼はもっと遥かに巨大な空間を改変することにした。人類が持てるなけなしのリソースを惜しげもなく注ぎ込んでね」
「そいつはすげえなー」
「選ばれたのは、月だ」
「つき……? なんだそりゃ?」
楽園チキュウの周りを回っていた衛星だよ。直径三千四百七十四キロメートルの、ごく小さな星さ。それを、僕たちが今いるセフィラとほとんど同じメガストラクチャーで覆い尽くし、内部を「禁断の聖域フォビドゥン・セフィラ」と成した。すべては人々の魂を救うために。醜い争いも、哀しい別れもなくさせるために」

【続く】

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