『かそけき彼の地のエリクシル』 #3
視界が、陰る。
ついに真上に陣取られた。
心臓を締め上げるような沈黙。
腫瘍艦の両側面にびっしりと生えるフジツボめいた突起から、ずぬるっと湿った音を立てて、何かが這い出てきた。
それは――手、だ。
金属ともプラスチックともつかぬ材質の籠手に包まれた、ほっそりとした手。
それが肉をかき分けながら、徐々に姿を現しはじめた。手首、腕、肘と外気に晒してゆき――
白い貌が、現れた。水中から顔を出したかのように赤紫の髪を振り乱し、ゆっくりと眼を開く。
――にたぁ、と。
漆黒の眼球に紅い瞳を浮かべた禍々しい視線が、地べたを這いずるセツ人らを見下ろして、怖気の走るような笑みに歪んだ。
他のフジツボからも、一斉にカイン人らが這い出てくる。
不可解なことだが、彼らは腫瘍艦の中に「居た」わけではない。
かつて、撃墜した奇形クジラを解剖する試みが幾度となく行われ、恐ろしい数の犠牲者を出しつつもなんとか成功していたが、その内部構造に人間大の生物が潜んでいられるような空間などなかったのだ。
では、彼らはどこにいたのか?
どこにもいないのだ。カイン人は、今まさにこの瞬間、この世界に「受肉」しているのだ。
腫瘍艦とは輸送手段などではなく、カイン人の虚構領域とこちらの物質世界を繋ぐ門なのである。想像を絶するテクノロジーと言えた。
惨麗なる人影が、一斉にフジツボを蹴って、宙に身を躍らせた。
「撃ェー!」
そしてこの瞬間が、カイン人と相対して有利に戦闘を展開できる唯一の好機であった。
槍衾のように掲げられた無数の小銃から、一斉にマズルフラッシュが瞬いた。分隊支援火器や分隊重火器の咆吼が大地を揺るがし、錬成イリジウム弾が大気をイオン化させて致死の光線を描く。
空中に、ドス黒い血の花が咲いた。幾輪も、幾輪も。
全身に銃弾を浴びて、悪鬼らは次々と絶命してゆく。
さしもの彼らとて、空中を自在に移動できるわけではないのだ。
しかし――その青白い美貌には、恐怖や苦痛の色など微塵もない。これより始まる虐殺への期待と、すぐ隣で死にゆく同族への嘲笑。それだけである。
さらに、上空に向けられた指向性地雷も一斉に火を噴く。第一陣のカイン人らはほとんどが全身をバラバラに引き裂かれ果てた。
だが、腫瘍艦があとからあとから黒き人影を出産しつづける。到底すべては落としきれない。
黒い血の雨とともに。大量の死骸とともに。――彼らは、地上に、舞い降りた。
片膝立ちで着地の衝撃を逃すと、その甲冑が硬い音を立てて変形。全身から禍々しい刃や棘を生やした戦闘形態にシフトする。
そのまま麗貌をこちらに向け――
――次の瞬間、掻き消えた。
一瞬遅れて、兵士らの手足や首が、大量の血飛沫と共に乱れ飛ぶ。
斬撃の軌跡だけが空中に灼き付いていた。防疫軍の制式戦闘服は錬成強化繊維の防刃仕様だが、単分子の刃を壮絶な速度で振るうカイン人の前では気休め程度の効果しかない。
虐殺が、始まった。
あっと言う間に陣中に切り込んだ殺戮の申し子らは、奇怪にねじくれた刀剣やポールウェポン、びっしりと棘の生えた鎖などを存分に振るった。
その動きは流れる水よりもなめらかで、吹き抜ける風よりも俊敏。関節の可動範囲がセツ人より明らかに広く、常識外れの軌道で斬撃を叩き込んでくる。そのたびに、血煙が大気を穢した。
彼らの甲冑は、防具というよりは武器の一種のようだ。びっしりと邪悪な秘文字が刻み込まれており、見る者を惑乱する。どうも規格品ではないようで、個体ごとに意匠や形状が微妙に違っていた。中には女のカイン人もいて、豊かな乳房と陰部だけを露出させた扇情的な鎧を着装していた。しかしそれに見惚れる男などここにはいない。かつて野蛮な兵士がカイン人の女を捕えて組み敷いたことがあったが、彼は数時間後全身が腐り溶けて悶え苦しみながら死んだ。この世界の生物がカイン人の体液に触れるというのはそういうことなのだ。
ある者は、バースト射撃された銃弾を、こともなげに首を傾けてかわした。
彼らは、銃弾が見える。軌道予測ですらなく、見てから反応して回避方法を選んでいる。セツ人とは動体視力と反射神経が根本から異なっていた。
ただし――
「おぉっ!」
銀の流線が瞬きながらのたうち、禍々しい甲冑に絡み付いたかに思えた瞬間、細切れに分解されてどす黒い体液を撒き散らした。
フィンは即座にカイン人の黒き血で汚染された斬伐霊光を破棄し、錬成し直す。
視認しづらく、曲線的かつ不規則な軌道で襲いくるこの錬金兵装だけは、彼らにとっても読み難い攻撃であった。
フィンは腕を薙ぎ払う。銀糸が生き物のようにくねり、周囲に拡散してゆく。
斬伐霊光に触れる敵と味方の動きを、大局的に理解してゆく。敵に触れれば即座に斬り裂き、味方に触れれば切断力を最小にして通り過ぎる。危機に陥っている者には高速で巻きついて引っ張り、凶刃から逃れさせる。
――戦況は、予想通りであった。
つまり絶望的ということである。
カイン人の接近を許した時点でセツ人側にできることなどそう多くはない。どれだけ多くの敵を道連れにできるか。これはそういう戦いなのである。
「それでもっ!」
アバツ連隊はフィンの居場所で、帰る家だ。共に生き、共に戦い、共に死ぬ。その誓いが規律を生み、献身を生む。
銀閃を指揮者のごとく駆り、次々と悪鬼を血祭りにあげてゆく。
だが――
「っ!」
斬糸が、いくつか切断された。
フィンは戦慄する。
――近くに戦士長格がいる!
こちらもオススメ!
私設賞開催中!
小説が面白ければフォロー頂けるとウレシイです。