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【連載小説】「雨の牢獄」問題篇(前篇)

 登場人物一覧


 綾川黎司 (あやかわ・れいじ)……マジシャン、瀬奈の幼馴染
 音寺瀬奈 (おとでら・せな)……雑誌編集者、黎司の幼馴染
 月島太郎 (つきしま・たろう)……劇団〈ムーン=アイランド〉主宰、蘭の夫
 月島蘭  (つきしま・らん)……太郎の妻、元俳優
 佐藤寅男 (さとう・とらお)……舞台監督
 能登亜良多(のと・あらた)……俳優
 枝野麗乃 (えだの・れの)……俳優



 断章 ~殺人~


 殺人者は兇器から手を離した。
 相手の身体に突き立てたばかりの兇器の根本から、鮮血がじわじわと被害者の服に滲んでいく。
 冷静を取り戻した殺人者は、固く拳を握りしめていた自分に気づく。
 深呼吸をし、震える指で、指を、ゆっくりと揉み解す。
 その間に被害者は完全に動かなくなっていた。
 絶命を確認すると、殺人者は鈍器を頭上に掲げ、それを死体の頭部に力いっぱい叩きつけた。
 そして、これから完成させなければならない〈足跡の密室〉の作成手順を、脳裏で確認した。



 一章 ~邂逅~


 黎司は改札口を出ると、大きく伸びをした。
 自宅から地下鉄を経由し、始発の新幹線から地方の駅で特急に乗り換えて最短でここまで来たが――出発から約六時間、もう午後になっている。
 脳が、舌が、身体が、エスプレッソを欲していた。
 駅構内のいくつかの喫茶店の中から空いている店舗を選び、暗めの落ち着いた店内を進む。人目を気にせず休みたかったが、奥のソファ席にはあいにく先客がいた。おもわず漏れた溜息が聞こえたのだろう、その女性が顔を上げた。
 みるみる表情に驚きが満ち、瞳に光が宿る。
 胸元に手をやり、息を飲む。
 呼吸の仕方を忘れたかのように女性は息を吸い込んだままだったが、それは黎司も同じだった。
「綾、川、君……?」
 記憶が過去に飛ぶ。目的の名前はすぐに見つかった。
「瀬奈ちゃん」
 音寺瀬奈。中学校の同級生だ。
 旧く、甘く、苦い想い出が黎司の胸に甦る。
「嬉しい、覚えててくれたんだ……こんな場所で会うなんて」
 人気劇団〈ムーン=アイランド〉主宰の月島太郎が次回公演でマジックを用いた演出を構想している――
 相談に乗るためにマジシャンである自分が招かれた――
 母校の教授と月島太郎が旧知の仲で僕の存在が耳に入ったらしい――
 そんな諸々を黎司は説明した。
 一方、瀬奈は中学生の頃に親戚に引き取られるかたちでこの地方に転居、高校卒業後すぐに働き出し、今日は休日だと言う。要領よく整理された話の断片にこれまでの苦労が偲ばれた。
「それで……ここからはどうやって……」
 月島邸は複数の市町村を隔てた山間にあり、一時間弱で行ける直通バスは朝と夕方の二本のみ。この時間帯は市バス・ローカル鉄道・自治体のコミュニティバスと乗り継ぐ必要があり、しかもそれは直通バスの何倍も時間がかかるとのことだった。
 マジシャンである黎司は全国各地を飛び回っている。アシスタントを使わないソロパフォーマンスが身上で、小規模の仕事ならトランク一個で充分だから、移動には公共機関を利用するが、事ある毎に、地方都市とは自家用車の利用に最適化された社会なのだということが痛感させられる。
「仕方ないなあ、送ってあげる」と微笑む瀬奈。
「いいよ、せっかくのオフなのに」
 それでも黎司が地方で公共機関を利用するのは、その土地の風土に触れることができるからだ。電車やバスに揺られ、はじめての風景や住人同士の会話の訛りを愉しみながら、依頼に応じたショーの構成をゆっくり再検討する――そんな時間を黎司は愛して止まなかった。
「いいのいいの、こないだのお礼もしたかったし」
 訊くと、瀬奈は地元出版社の編集部勤務であり、以前から頻繁に〈ムーン=アイランド〉の取材を行っているとのことだった。劇団関係者ともかなり親しいらしい。
「それにね」瀬奈は嬉しそうに「綾川君とね、もっと話したいから」

 駐車場に向かいながら、携帯電話で月島邸に連絡を入れる。
 数回のコールの後、女性が電話に出た。
 車で送ってもらう旨を伝えると、
「あら、音寺さんとお知り合い!」
 と電話の向こうの月島夫人も驚いている様子だった。
 助手席に置いてあった荷物の整頓が終わったらしく、歩道の脇にあったポストに封筒を投函し終えると、瀬奈は運転席に乗り込んでキーを回した。

 月島邸に向かう道すがら、想い出話に花が咲く。それが落ち着くと、話題は自然と〈ムーン=アイランド〉の次回公演のことになった。脚本の詳細については月島太郎しか知らないらしいが、先日の取材の際、瀬奈はその作品設定を聞いたのだという。黎司も相談を持ち込まれた段階で知らされていたのだが、そのときからずっと、不思議な心境に囚われている。
 ――タイタニック号の事故から生還したイリュージョニストの数奇な運命――
 なんだろう、この強烈な既視感は。
 この物語を以前、僕は、確かに聞いたことがある。
 いつ、どこで、だれから……

 話に疲れ、話題が途切れた頃、車は狭く深い渓谷を跨ぐ錆ついた橋梁を越え、左右に岸壁が迫る隘路に差しかかった。
 そろそろ月島邸よ――と瀬奈が言った。



 二章 ~追憶~


 助手席で揺られること、一時間弱。
 月島邸の駐車場に着いたのは午後二時近くになっていた。
 疲れのせいか、手が滑り、携帯電話を助手席の下に落としてしまう。それを拾おうとした黎司は足元に光るものを見つけた。細身のシルバーのチェーン。覗き込んだ座席の下。さらにあるものを見つけ、驚いた黎司がそれを取り上げると、
「そんなところにあったの……」
 と、瀬奈が感慨深げな表情で見つめた。
 そのアメリカの旧い50セント銀貨は、上端に小さな穴が開けられ、ペンダントトップに加工されていた。
「ごめんね……綾川君の物を、勝手に……」
 やはりそうだ。
 一〇年前、中学二年の夏休み。
 瀬奈と最後に会ったときのものだ。

***

 黎司は伯父の手で育てられた。
 父親は黎司が生まれる前に病死したと母からは聞かされて育った。その母を交通事故で亡くしたのは黎司が一〇歳の頃だった。事故に遭ったバスには黎司も同乗しており、いまも左頬にはそのときの大きな十字型の傷跡がある。
 心の傷を癒してくれたのがマジックだった。夢描いた自分の理想を具現化できることになにより喜びを覚えた。魔法の再現に没頭している間だけは悲しいことを忘れられた。他人に披露することはほとんどなかった。恥ずかしがりだったことに加え、頬の傷のせいで初対面の相手から距離を置かれることが日常茶飯事だったからだ。
 小学校の頃こそ周囲の理解に恵まれたが、進学に合わせて都会に引っ越すと、過去を知らない中学校の連中は露骨に彼を、怖れ、嫌い、遠ざけた。マジック、ミステリ、パズル、そういった狡猾な知の世界、歪な象牙の塔にますます黎司は傾倒した。だから図書室は知の宝庫であり、そして学校にあった唯一の桃源郷だった。

 中学二年の夏、黎司は少女と出逢う。
 図書館で、同じ本に同時に手を伸ばしたのだ。
 ともにミステリが好きだと知り、すぐに意気投合した。
 冬休みに借りた本を返しに自宅を訪れた折、一度だけ彼女の父親と話す機会があった。彼女は不在だったのだ。その寡黙な男から、少女もまた幼い頃に母親を病気で亡くし、父親と二人暮らしなのだと聞いた。
 マジックが好きなことを彼女にだけは告白し、そして人目を忍んでは披露した。
 ――図書室では静かに――
 その張り紙を気にして歓声を押し殺しながらも、彼女は本当に嬉しそうだった。特にコインマジックが好きだと少女は言った。両翼を広げた双頭の鷲が裏面に刻印された美しく光輝く異国の銀貨は夢と自由の可能性の象徴なのだ――と。
 春休み唯一の登校日。
 二人だけの図書室。
 黎司は銀貨を消してみせ、それをこっそりと少女のポケットに移動させた。それを告げて驚かせるだけ……というタイミングで、生活指導主任の女教師がやってきた。度の強い銀縁眼鏡を指で摘んだ教師がこちらを睨む。見つかれば私物の没収は確実だ。音がしないように奇術道具を片付けるのに必死で、銀貨は一枚足りないことに気づいたのは夜になってからのことだった。
 部屋で一人、制服のポケットに魔法の銀貨を見つけ、声を上げて驚く少女。
 その様子を想像して、黎司は愉快だった。
 三年になり始業式が終わると、唐突に担任教師から瀬奈の転校を知らされた。
 冬の終わりに、売れない小説を書いていた男が首を吊り、残された可哀想な一人娘は遠方の親戚に引き取られた。
 そう人伝てに聞いたのは、桜が散る季節のことだった。

 周囲と打ち解けていたならもっと早くそれを知ることができたかもしれない。
 だが、一人の少年に、一体、何ができただろうか。
 そんな後悔と無力感と寂寥に苛まれた日々の記憶を、黎司は苦々しく想い出した。

***

 ごめんね――を瀬奈は繰り返している。
 無断で銀貨を加工したことを詫びているのだ。
 気分を害してなどいない。黎司はただ、感動していた。あの日の少女が、いままでずっと、魔法の銀貨を肌身離さず身につけていたことを。
「謝ることなんか」
 失くしたと思っていたから。
 いや、最初からプレゼントするつもりだった。
 そう、だから、ポケットに入れたんだ。
 銀貨を無理矢理に握らせ「車を出してもらったお礼、どうしようか考えていたけど……これでもう悩まなくてよくなった」と言うと、ようやく、瀬奈は申し訳なさそうに微笑んだ。
 車から降りながら、もっと気が利いた言葉があったのでは――との後悔が始まったが、かといって思いつくのは「二人の再会を祝して」とか「大人になった記念に」みたいな気障な台詞ばかりで、そんな自分に閉口した。

 雨が降ったらしく、一体の地面が泥濘んでいる。
 月島夫妻の別荘はホワイトの外壁にダークブラウンの梁と柱が印象的な、急勾配の切妻屋根が載った北欧風の建物だった。
 ドアベルを鳴らした直後、ようやく本当に言いたかった言葉を見つけた。
 きっと、ただ、こういえばそれで充分だったのだ。
 ――ありがとう、大切にしてくれて――



 三章 ~事件~


 爪先まで隠れるほどのロングスカートの黒いワンピース。腰まで伸びた黒髪のストレートヘア。そんな黒づくめの女性が玄関の扉を開けた。
「マジシャンのかたね」
 さっき電話で聞いた声だ。月島蘭夫人である。夫の月島太郎と同年代で四〇代のはずだが、三〇代、いや二〇代後半にさえ見える。出で立ちも相まって魔女のようだ。

 玄関ホールに入る。正面には上階への階段。右手に伸びる廊下は途中に段ボール箱が山積みになっていて先がよく見えない。廊下のすぐ左側の扉を月島夫人が開け、三人で中に入る。リビングのソファに腰掛けていた女性が、くるりとこちらを向いた。
「あら、瀬奈ちゃんも!」
 毛先を赤く染めた黒髪のショートボブ。真紅のブラウス。黒のショートパンツ。すらりと伸びた脚。極太のアイラインに真紅のリップ。ゴシック調のメイクだが健康的なイメージがある。華やかなその女性が「枝野麗乃です」と笑った。資料で見た劇団の看板女優だ。
 銘々に自己紹介をすると、夫人が時計に目を留めた。
「ちょうどいいわ、お茶にしましょうか」
 夫人の指示で、麗乃と瀬奈がキッチンでコーヒーの準備を、その間に黎司と月島太郎が引き合わされることになった。

 夫人に導かれるまま、黎司は一階の廊下を奥に進む。
「ごめんなさいね、狭くて」
 劇団関係の道具類が詰まっているのだという大量の段ボール箱の横の隙間を身体を捻って通り抜けると、その陰にあった扉を夫人がノックする。中は月島太郎の書斎とのことだが、返事はなく、扉には鍵がかかっていた。
 ちょっとここで――と黎司を待たせ、廊下を戻っていく夫人。
 階段を昇り降りする音。
 しばらくすると、白いTシャツにタイトジーンズ姿の長身の男性とともに夫人が戻ってきた。男性は能登亜良多と名乗る。
「またお籠もりかい」
 やれやれ――と眉と両手を上げる亜良多。麗乃とともに劇団の二枚看板である彼だが、言動がどことなく芝居がかって鼻につく。
「困ったもんだよな。夢中になると書斎に閉じ籠もっちゃって。ヘッドホンまでして完全にシャットアウトなんだぜ」
 寝室から持ってきたという鍵で、夫人が書斎の扉を開ける。暗い室内。カーテンが閉められている。扉脇のスイッチで夫人が照明を点けるが月島太郎の姿はない。机には書類が広がっていた。
「離れじゃねえの」と亜良多。
 裏庭にある離れが資料庫として使われているらしい。書斎を出て、右側の扉を夫人が開ける。そこは裏口だった。軒先に置かれた足拭きマットがべっとりと泥で濡れ、そこから右前方の建物に向かって、庭に一筋の足跡が伸びている。予想通り月島太郎は離れにいるらしい。夫人がなぜか廊下を戻ろうとするので訊くと、裏口のサンダルは太郎が履いていったと思しき一足だけしかないため、離れに行くには履物を取りにいかないといけないらしい。
 廊下を戻り、玄関で靴を手に取る。このまま外から行きましょう――と夫人が言った。なるほど、また段ボール箱の脇を抜けて裏口に行くよりも、玄関から庭に出たほうが楽なのだろう。靴を履く三人。
 その服装じゃ歩きにくいだろう――と夫人に配慮した亜良多が先頭になり、ついで黎司、夫人の順で縦一列に庭を歩いた。玄関から反時計回りに、別荘の北側を迂回するかたちで、三人は泥の海と化した庭に点々と足跡をつけながら、母屋の西側にある離れへと向かった。

 亜良多が離れの入口を開けると、土間には何足もの靴が乱雑に脱ぎ捨てられていた。そういえば書斎の机も散らかっていた。月島太郎は片付けが苦手な質なのかもしれない。
 靴を脱ぎ、離れの中に向かう亜良多。
「太郎さん、マジシャンのご登場だぜ」
 離れの玄関から室内へ向かう扉を亜良多が開けると、部屋の奥の大きな黒い革張りのソファの上で、月島太郎らしき人物がこちらに背を向ける格好で横になっていた。被った毛布から頭だけが見える。仮眠しているのだろうか。
「お疲れのところ悪いんだが……」
 月島太郎の身体を揺すろうとした亜良多が、怪訝な声を上げた。
 背中越しに覗くと、月島太郎の頭部が血塗れだった。
 資料を収めたスチール棚の前の床に、血のついた金槌が転がっている。
 立ち竦んだ亜良多を押し退け、月島太郎の頬に触れる。
 口の周囲に手を翳すが、呼吸がない。
 首筋の脈も動いていない。
「すこし……冷たいですね……」
 と言うと、背後で物が落ちる音がした。
 振り返ると、夫人が離れの土間に崩れ落ちていた。
「救急車……救急車だ」
 そう言って母屋に向かおうとする亜良多に、
「あと警察も」
 と、黎司は言い添えた。事故ではない。そう直観した。
「そうだな、わかった」
 亜良多も同感のようだ。
「太郎さんの足跡は踏まないほうが」
「ああ、玄関に回る。先に戻るぞ。奥さんを頼む」
 放心した様子で座り込んだままの蘭夫人を黎司に委ねると、亜良多は靴を履くももどかしく、外に駆け出していった。

 顔面蒼白で虚脱した様子の夫人の手を引き、黎司が母屋のリビングに戻ると、亜良多が電話を終えたところだった。
 その様子を、寄り添い合った麗乃と瀬奈が見ている。
 騒ぎが気になったのだろう、半袖のワイシャツにベージュのロングパンツ姿の男性がリビングにやってきた。月島太郎の訃報を亜良多が告げると、黎司の存在に当惑していた様子の男性の眉間の皺が、一段と深くなった。
 一同がリビングに腰掛け、麗乃と瀬奈が準備しておいたコーヒーを形ばかり運ぶと、ワイシャツの男性は舞台監督の佐藤寅男だと名乗ったが、話はそれきりとなった。
 無言のまま、ただ時間だけが過ぎていった。

「遅い、遅いな」
 冷えきった珈琲を一口で飲み干し、亜良多が吐き捨てた。
 救急車はいつ来るのだろうか。
 そう思った瞬間、月島邸の電話が鳴る。
 それを受けた麗乃の表情がみるみる曇る。
「川沿いの道が崩れて……雨で水嵩さが増して地盤が緩んだんだ、って……復旧しないと警察も救急車も来られないって……」



 四章 ~疑念~


「雨なんかこの数日、降ってなかったじゃないか!」
 亜良多が大声を張り上げると、寅男が溜め息雑じりに、
「あの川の上流は山の向こうだろう? あっちの県は大雨だったって昨日の夜もニュースでやっていたじゃないか」
 沈黙が場を支配する。
 微かに遠雷が響いた。
「あの、差し出がましいのは重々承知なんですが……」
 事件性が強い――
 もし雨が降ってしまうと足跡が流れてしまう――
 いまのうちに最低限の記録を残しておくべきではないか――
「伯父が弁護士で、こうしたことには詳しくて」
 黎司が一思いに言うと、寅男が黙って頷いた。
「仕事用のカメラが車にあるわ」と瀬奈が立ち上がる。
 協議の結果、黎司・瀬奈・寅男が離れと母屋の周囲を、蘭・亜良多・麗乃の三人は母屋の中を調査することとなった。

 キッチンにあったビニール手袋を填め、事件発見時に玄関を迂回したときの複数の足跡が重なった上を歩く。そうやって余計な指紋や足跡を残さないよう注意しながら、三人は離れに向かった。
 離れの土間に散乱した履物の中にあるサンダルを指さし、別荘の裏口のものだと寅男が断言する。折り重なった靴の位置関係を変えないよう注意しながら、瀬奈がシャッターを切る。離れの周囲、特に室内は細心の注意を払って撮影された。
 念のため、もう一度、被害者に触れてみたが、やはり月島太郎が絶命していることに間違いはなかった。

 母屋に戻り、リビングで全員の前に紅茶が揃ったのを見計う。
 言いづらいんですが――と黎司は切り出した。
「裏口から離れに向かう足跡があったということは、太郎さんが殴られたのは雨が降った後ということです。ですが、この別荘の周囲一帯の地面に不審な痕跡は一切ありませんでした」
 瀬奈がデジタルカメラを操作する。次々とディスプレイに映る別荘の周囲の濡れた地面は足跡を除くと、どこも漆器の表面のように雨で綺麗に均されたままだった。
「つまり、犯人は、この別荘を離れていない」
 犯人が自分たちの中にいるであろう可能性を指摘され、全員が沈黙した。
「ただ、説明できないことがありまして」
 重い空気を払拭するように、黎司は話題を転じる。
「僕たちが事件発見時につけた足跡を除けば、離れの周囲に残されていた痕跡は、裏口から離れに向かう一筋の足跡だけでした……犯人はどうやって離れから立ち去ったんでしょうか」
「事故だったのよ」と亡霊のようにつぶやく夫人。
 スチール棚に置いてあった金槌が何かの弾みで落下し、仮眠していた月島太郎の頭部を不運にも直撃した――たしかに現場の状況はそのように見えなくもない。
「一度……状況を整理しませんか?」

雨の牢獄 平面図


 劇団の主要スタッフである月島夫妻・寅男・亜良多・麗乃の五名は新作の打ち合わせのため、昨夜この別荘に集い、日付が変わった後に各自に割り振られた部屋で就寝した。
 午前十一時過ぎに五人全員で遅めの朝食を終えた後、月島夫妻がともに離席。被害者の月島太郎は一階廊下奥の書斎に、蘭夫人は二階の寝室に向かった。
 正午前後の約一〇分、バケツを引っ繰り返したような激しい雨が降る。それまでは寅男・亜良多・麗乃の三人でリビングで話し続けていたのだが、降雨をきっかけに、寅男が二階の客間に引き上げた。
 午後一時頃、亜良多も二階の客間へ向かい、麗乃だけがリビングに留まった。
 それから午後二時前に黎司と瀬奈が到着するまでの間、風邪気味の蘭は仮眠、寅男は事務作業、亜良多は読書、麗乃は映像資料の視聴にそれぞれ没頭しており、互いの行動に注意は払っていなかったという。
 手洗いなどのごく短時間の離席を除けば、劇団関係者の行動は下記の表のとおりで間違いないという。

雨の牢獄 タイムテーブル

 
 そこまでの確認が終わったところで、心労や体調不良を訴えた蘭夫人が、二階の寝室に引き上げていった。そしてそれがきっかけに誰からともなく立ち上がり、にわかに解散めいた雰囲気になった。
 まるで何かの魔法が解けたかのようだった。



 五章 ~断絶~


 各自一旦は自室に戻るなどしたようだが、落ち着かないのだろう、気づけば蘭夫人以外の全員がまたリビングに集まっていた。
 麗乃が自分にインスタントコーヒーを淹れたのをきっかけに、各々がそれに倣う。
「念のためにもう一度、状況を整理しておきたいのですが……」
 場違いを承知で、そう、黎司は強引に議論を蒸し返した。夫人の不在をこれ幸い――というわけでは決してないのだが、些細な違和感や疑問を放置できないのが自分の因果な性分なのだ。マジックの実演で培った場の主導権を自然に掌握する能力は、こういったときに便利だった。
「警察が来れば事情聴取で色々と訊かれるわけで……疑問点についてちゃんと話し合っておいたほうが」
「それで。具体的には」と、訝しげな表情の寅男。
「たとえば、シャワーのようなもので洗い流すようにすれば地面についた足跡を消すことができると思うんです」
「それなら離れの入口の横に立水栓がある」
 花壇に水を撒くためにシャワー機能のある散水ヘッドがついたホースが繋がれている――と寅男。
「はい。ですが事件発見時、そのホースは綺麗にドラムに巻かれて離れの入口にありました……そして」黎司はデジタルカメラのディスプレイを指差し「水漏れ防止のためでしょう。立水栓に挿したホースの根本が針金で固定されていますが随分固く巻かれているようで、しかも錆びているんです。ホースが外せないとなれば、このシャワーホースを使った後、犯人はそれを片付けに離れに戻らないといけません」……疲れのせいか、コーヒーがやたら苦く感じられる……「結局、犯人は別の手段で足跡を残さずに離れから立ち去らないといけなくなるわけで」
「犯人がそんな七面倒臭いことをする意味がわからない。誰かに見られたら終わりだろう。足跡を誤魔化すなら、たとえば摺り足で歩くとか、もっと手っ取り早い方法があったはずだ」
 思いついたんだが――と亜良多が割り込んだ。
「離れから裏口に向かって後ろ歩きした、ってのはどうだ」
「それだと普通に歩く場合と違って爪先から踵に体重が移動することになるので、警察が足跡を調べればわかるはずです。それ以前に、さっき写真を撮りにいった時、サンダルは離れの土間にありましたから」
「ああ、後ろ歩きだとサンダルが裏口にないといけねえのか」
「シャワーホースと反対の矛盾が起きるわけですね……同様の理由で『まず裏口から離れに向かって歩き、その足跡の上を後ろ歩きで踏み重ねながら裏口に戻る』という手段も却下されます」
「その場合も裏口にサンダルがないといけない、と……」
「そうです。写真にもあるとおり、注意深く見ましたが足跡が重なっている様子はありませんでした。あれだけの歩数をまったく足跡がずれないように踏み歩くというのは、まず不可能でしょう」
「じゃあ……まず裏口から離れに向かう時、爪先歩きをしたってのはどうだ。それなら最初の足跡が小さくて済むから、その上を後ろ歩きで踏み重ねていくのは難しくない」
「ですが、サンダルが裏口にないといけないのは同じなんです」
 黎司が反論すると、
「じゃあやはり事故ということだな」
 と寅男は納得した表情をした。
 なるほど……場違いな黎司の疑問を諫めるどころかそれに丁寧に応じたのは、殺人、しかも身内が犯人という最悪の可能性を払拭したかったから……
 そのためだったのかも……しれない……
 どうしたんだ……
 睡魔が、
 抵抗できない、
 全員の様子が変だ、
 コーヒーに睡眠薬か何かが入




 ※【問題篇(後篇)】に続く


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