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小説 カレー

カレーにはバターを忘れない。鶏肉に野菜、ルーを入れて溶かした後、バターを入れてまた溶かす。この長方形のバター、全部を入れてしまいたい時もあるけれど、温めたナイフで2回刃を入れてすくう。ドロドロした茶色い液体の中で乳白色が少しづつ溶けてなくなる。

その瞬間いつも切なくなる。いつだって先輩を思い出してしまうから。もう10年も経つのに。


武藤先輩は高校の時の、部活の先輩だ。入学して文化部に入ろうと考えていたら「ハイキングができて楽しそう」と友人に誘われ「野外活動部」に入部、体育会系登山部だとわかったのはその後だ。

しかも友人は急な引っ越しでいなくなり、7月に3年生が引退したら、女子は1人になってしまう。夏休みの登山合宿を前に辞めようと考えていたある時、先輩に呼ばれて部室に行くと、ドアを開けた瞬間カレーの匂いに包まれた。

「カレー作っているんですか?」

先輩がガスコンロの上に置かれた小鍋をかき混ぜている。

武藤先輩は2年生で、もうすぐ部長になる人だ。中学の時ハンドボール部だったからか、体育着から伸びる二の腕は太く、手も大きい。その手でお玉を持ちアルミの鍋をかき混ぜている。

「練習で作ってみたんだ。ちょっと食べてみてよ」

白いプラスチックの深皿に少しのルーが盛られ、渡された。湯気が私のメガネを曇らせる。

スプーンですくって食べると、良く知っているカレーの味に、小さく刻まれたにんじんとじゃがいも、ヒラヒラした豚肉が続く。でも何だろう。何か違う。もう一口食べてみる。

「・・・先輩、何かすごく味がくどいんですけど、何か入れました?」

「これはね、ペミカンカレーていうんだよ」

「ペリカンですか?」

水族館で見た、黄色いくちばしの鳥が思い浮かぶ。

「違う違う、ペ、ミ、カ、ン」

今度ははっきりと言ってくれる。笑うと大きい目が三日月になることを初めて知った。そういえばこんな風に2人で話したのは、初めてかもしれない。

ーペミカンとは保存食を作る調理法。刻んだ野菜や肉に火が通った所に、溶かした大量のバターを入れる。混ざったら、それを冷めない内に保存袋に入れ、凍らせたら出来上がり。鍋に、昨日家で作ったペミカン、水、カレールーを入れて作ったものが、このペミカンカレー。ー

説明しながらペミカンカレーとやらを皿に大盛りによそい、パンと一緒に食べ始めた先輩を前に、私はスプーンが進まなかった。

「これはさ、山頂で食べるとすごくおいしいんだよ。疲れた身体にバターが最高なんだ」 

そっか。私の辞めたい気持ちにも気づいてるんだ。一緒に合宿に行こう、山に登って最高のカレーを食べようって、誘ってくれているのかな。考えすぎ?

先輩はカレーが入っていた鍋にペットボトルの水を入れて、コンロの火をつけた。温まったその汁を、食べ終えたプラ皿によそい飲み干した。

「それ必要ですか?」

「当然。こうやって鍋も皿を綺麗にして持ち帰るのが登山部のやり方」

「やっぱり登山部なんですね、野外活動部じゃないじゃないですか」

前々からの疑問を、ようやく口に出す事ができた。

「それには、理由があってね〜」

あの日、部室には誰もこなかった。皆は頼まれて教室で課題に取り組んでいたと、合宿の時に知った。しばらくして、先輩は私の事を名前で呼ぶようになり、私達はそれから〜


「今日はカレーなの?」

いつもより帰りが早かった彼が、ブルーのネクタイを緩めながら聞く。ジャケットを脱ぎ白い半袖のシャツ1枚になると、胸板が薄いことがよく分かる。

「今日は鶏肉にしたの、もう食べられそうよ」

彼が側にきて鍋を覗きこむ。フツフツ煮立つルーの中に、大きめに切った鶏肉と野菜がいくつも浮かんでいる。私の腰に回す腕は相変わらず細い。

「おいしそうだね、先に風呂に入ってくるよ」

そういって離れた。

シャワーが流れる音が聞こえる。

出会って一緒に住むようになって2回目の夏を迎えようとしている。少し頼りないけど優しい彼を、私はとても愛していると思う。

彼のために、何十回カレーを作ったんだろう。食べる度に「おいしい」と言ってくれ、私はその一言で、いつだって幸せな気持ちになれる。

でも未だに彼は、その隠し味を知らない。



※この小説は、エッセイから着想を得て書いたフィクションです。登場する人物に実在するモデルはいるかどうか、それにはお答えできません・・・。








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