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【レポート】「何もしない優しさ」と「知らないふり」

自己評価:主観的なのでレポートにふさわしくないテーマ

こんな苦しみに耐え、なぜ生きる必要があるのか?

必死で生きる人の悲しい眼と向き合うためには、何をどう学べばいいんだろう。

言葉にできない悩みに寄りそうためにも、心理学、人類学、死生学、哲学、文学、神経生物学、仏教などを学べば自分自身の死生観を育んでいけるのか?

人間関係の悩みは、例えば、以下の様な本を読んだとしても、科学的人間観等だけで解決できる様なものではないと感じます。

【参考図書①】
「心理学大図鑑」コーリン,キャサリン(ほか著)小須田健(訳)池田健(用語監修)

「“わたし”はどこにあるのか―ガザニガ脳科学講義」ガザニガ,マイケル・S.(著)藤井留美(訳)

「私の親鸞―孤独に寄りそうひと」(新潮選書)五木寛之(著)

「「つながり」の精神病理―中井久夫コレクション」(ちくま学芸文庫)中井久夫(著)

「人間をみつめて」神谷美恵子(著)

その人、その人の、そこに至る前提条件が、何一つ、同じものはないのだから・・・・・・

ただ、優しさを感じられるちょっとした出来事って、日常の中で出会ったりします。

例えば、音楽ってその時、その時期の事を鮮明に記憶しますよね。

皆さんにも思い出の曲がきっと1つや2つあると思います。

その曲を、もう1回再生して聴いてみると・・・・・・

歌詞がじ~んと胸に優しく響きませんか?

優しさには色んなカタチがあるけど・・・・・・

形には残らない、でも自分の心の中で揺るがない一つの指針のように、自分が何かをしたことで、誰かが幸せになってくれて喜んでくれる。

そのことが一番の自分の幸せであると・・・・・・

人は、そんなに、みんながみんなキレイ(腹黒●まくり(?)な自分もいたり、裏の部分も激しい時もあるけど・・・・・・)なもんじゃないと思います。

そうであったとしても、それは、決して自己犠牲ではなく、人間の本質的な部分でもあるのでしょうねぇ(^^)

今、みなさんは優しさを感じていますか?

与えていますか?

時間あれば、この曲でも聴いてみて、もう一度、優しさについて想い返してみるのも良いかも知れませんよ(^^)

槇原敬之「僕が一番欲しかったもの」
https://www.youtube.com/watch?v=1eQ1UKChkuU

そうだなあ~

「これひとつに、すべてをかける」とか「このために生きている」と思えるほど打ち込めるものが見つかれば、幸せかもしれません。

しかし、ひとつのものに人生をささげるのは、大きな賭けでもあり、そのひとつが、そうでなかった場合、総崩れになってしまいます^^;

こうなってしまうと、立て直すのが容易な事ではなくなります。

逆に、ひとつには決められないけど、色々な生き方ができる、色々な趣味がある、色々な支えがある、保険があれば、ひとつが倒れても、大崩れはしません。

そう、今を、どう生きるかは、選ぶことができます。

みなさんなら、どちらを選びますか?

色んな思いが届かなかった時の事にも目を向けて、自分に優しくするセルフケアやセルフ・コンパッション等で、苦しみに気づくことも大切ではないかと思います。

ここで、優しさに関する先人たちの考えを、紹介すると・・・・・・

【優しさとは、わからないことをわかろうとすること。】

ある「宗教と精神医学の会合」で、一人の学生が諸先生方に質問。

「人が、宗教的な物事を想うことが、なぜ必ずしも病気なのか。

自分を超えたものを想い、畏れ、救われたいと願うことがなぜ病気でなければならないのか。」

散会後、お偉い先生方かく語りき。

「彼は、すでにハマっている。」

「彼は、○○型の、××症である。」

以下は、池田晶子さんの嘆きです。

■残酷人生論 池田晶子

「この場合、私もまさしく患者である。

しかし、患者のひとりとして、私は痛くもこう感じたのだ。

ああ、愛がない

精神分析という、かりそめにも人間の「精神」を扱う学問あるいは臨床の現場に、かくも愛があってはならないということを私は知らなかった。

患者は、癒され得るのだろうか。

難しいのではないかと思う。

患者は、医者にはわからない考えや感覚や感情を持っている。

自分にはわからないそれらについて、なぜこの人はこんなふうに考えるのか、なぜこの人はこう感じざるを得ないのか、わかろう、わかってあげようとするのが医者の仕事だ。

しかし、このとき医者の側が、自分のわかっているわかり方によってのみわかろうとする、すなわち「○○型」というわかり方によって、自分にはわかっていない人のそれをわかったことに、はたしてなるのだろうか。

かくして患者は、オウムに走る。

ところで、「わかろう」という意志、これは何か。

言うまでもない、優しさである。

わからないものをわかろう、自分ではない他人をわかろう、この想像的努力のまたの名は、ほかでもない、愛である。

愛のない人にはわからない、愛のない人が、わかっている以上のことをわかることは有り得ない。

わかる気のない人に、なぜわかるわけがあるか。

愛していないものを、なぜわかる気になれるか。

齢をとらなきゃわからないとか、君は何にもわかってないといった、自らする線引きの非論理性と狡さとを私は憎んだ。

それで、どうしてほしいのよ。

なら、世の中の皆が皆、君は私でないからわからないと言い合ってごらん。

わかる力は愛である。

えてして人は気づいていない、真の知力とは、愛する力であることを。」

自分のモノサシで他人も世界も測れるならば、この世で分からないことはもっと少ないはず。

分かったつもりは、分かっていない証拠であり、「知の無知」というか、一知半解は、自惚れの産物であり、相手を傷つける刃にもなり得ます。

分からないことを、分からないと認める謙虚さ、分からないことを、分かろうと努力すること、「無知の知」こそが、学問の出発点であり、優しさの原点なのだと、そう感じます。

「Education is what remains after one has forgotten what one has learned in school.」(教育とは、学校で学んだことを忘れた後に残るものをいう。)

専門のことであろうが、専門外のことであろうが、要するに、ものごとを自分の頭で考え、自分の言葉で自分の意見を表明できるようになるため。

たったそれだけのことです。

そのために、私たちは勉強するのだから。

【参考図書②】
「残酷人生論」池田晶子(著)NPO法人わたくし、つまりNobody(編)

【優しさとは、人間として一番優れていること。(太宰治)】 

「私は優という字を考えます。

これは優(すぐ)れるという字で、優良可なんていうし、優勝なんていうけど、でももう1つ読み方があるでしょう?

優(やさ)しいとも讀みます。

そうしてこの字をよく見ると、人偏(にんべん)に、憂ふと書いています。

人を憂(うれ)へる。

ひとの寂しさ侘しさ、つらさに敏感な事、これが優しさであり、また人間として一番優(すぐ)れている事ぢゃないかしら。」(1946年4月30日付け 河盛好蔵あて書簡より)

とか、まだまだ、色んな考え方があるのだろうと、そう思います。

また、身体の、そして、心の健康の測り方って、色々な定義の仕方があると思います。

心に余裕が持てること、言い換えると、優しさの度合いが、心の温度計なのかなって、そんな風に感じています。

余裕があるとは、自分の状態を振り返る余裕を持てること。

自分の状態を振り返るとは、自分の辛さに気づけること。

余裕がないときほど、反省や振り返りができず、ひたすら走り続けることになりがちです。

もちろん、ガムシャラに取り組むのがいい場合もあるとは思いますが、余裕がないと、どこかで無理がかかって倒れてしまいます^^;

確かに、涙の数だけ、強くなれる場面も、時には、あるとは思うけど・・・・・・

自分が疲れているとき、辛くなっているときは、ちゃんとそれに気づいて休むことができる能力を身につけて、それを使うことも、大切にして上げてくださいね(^^)

そう、伸びるためには、縮まないと、ね^^;

自分の辛さに気づける力も、自己回復力のひとつであり、自己管理の基本ですから(^^)

また、余裕がないことの弊害は、人の辛ささにも気づきにくくなってしまうことです^^;

自分のことだけでいっぱいいっぱいになると、見て見ぬ振りをしてしまったり・・・・・・

自分だって大変なんだからと言い訳をしたり・・・・・・

自分の心が小さく、セコくなってしまいますから、注意しないとね^^;

辛い経験の分だけ、優しくなれるのだとしたら、自分に優しくあるためにも、人に優しくなるためにも、心に余裕を持つことは、とても大切なことだと思います。

だから、心に余裕を持つためのセルフケアをすることは、自分のためでもあり、相手のためでもあるから、くれぐれも、ココロもカラダも、みなさん、ご自愛ください、ね(^^)/

逆に、何もしない優しさというものもあって、見守ることは、何かをするよりも、暖かく、大きな優しさとして相手に伝わることがあります。

人間関係の悩みや、耐えがたいダルさや吐き気や痛みが襲う病気など・・・・・・

辛く、打ちひしがれている時、何かをしてもらいたいわけでも、アドバイスがほしいわけでもないけれども、そばにいてほしい、独りでは居たくないこともあります。

そんなとき、そんな気持ちを察して、ただ、そこにいてくれる、寄り添ってくれることが、何よりもうれしく、あたたかい気持ちになります(^^)

「doing」よりも「being」がありがたいという事実も、心でまいたタネに、大きな力があることの証ではないでしょうか?

そうなれれば、素敵だけど。

じゃ、「何もしない優しさ」と「知らないふり」って、どう違うんだろう?

「自立とは、依存しないことではなく、依存先を増やすこと。」

脳性麻痺という障害を持ちながら小児科医として活躍し、現在は東京大学先端科学技術研究センターで障害と社会の関係について研究する熊谷晋一郎さんの言葉ですが、これは本当にそうだなと思います。

【参考図書③】
「リハビリの夜」(シリーズケアをひらく)熊谷晋一郎(著)

また、映画『ホリック xxxHOLiC』の中で、以下の会話は、示唆に富んでいましたね。

四月一日「この世でたった一つだけ、対価なしにやりとりできるもの・・・・・・それは、おもい。人の想い・・・・・・」

侑子「そ。そして忘れないで。あなたはあなただけのものじゃないってことを。」

侑子「この世に自分だけのものなんてひとつもないの。みんな誰かと関わって、何かを共有している。だから自由にならない。だからこそ面白くて悲しくて・・・・・いとおしいの。」

でも、誰しも、そんなに依存先を多く見つけられるとも限らないし、いつも関わって欲しいわけじゃない(^^;

この微妙なココロのさじ加減が合わないことの方が、なんと多いことか思い知らされる毎日。

だったら、知らない権利を認めて欲しくなります^^;

人は自分の信念に反する事実を突きつけられると、過ちを認めるよりも、事実の解釈を変えてしまう生き物だと、例えば、英国のジャーナリスト、マシュー・サイドは、次のように指摘しています。

「失敗の数々は、どこで間違いが起こったのかを特定し、司法制度の欠陥を精査するいい機会になる、と普通なら思う。

しかし、警察・検察・裁判官の姿勢はまったく違う。

彼らは自分たちと異なる意見はまるで受け付けない。

「司法制度は完全無欠であり、それに異議を唱えることこそ思い上がりだ」と考えている。(中略)」

また、マシュー・サイドは「多くの場合、人は自分の信念と相反する事実を突きつけられると、自分の過ちを認めるよりも、事実の解釈を変えてしまう」と述べています。

これを、心理学の分野では「認知的不協和」と呼んでいます。

【参照サイト】
認知的不協和理論とは? 豊富な例で即理解!
https://studyhacker.net/cognitive-dissonance-theory

真実は、人それぞれが考える本当のこと(事実)で、客観的なものではなく、主観的なものだから、真実は残酷なんだよね^^;

この点について、前述の池田昌子さんは、以下の様に言われていた事が印象的でしたね(^^;

【真実を知ることほど残酷なことはない】

映画『THE FIRST SLAM DUNK』が公開されましたが、

映画『THE FIRST SLAM DUNK』予告【2022.12.3 公開】
https://www.youtube.com/watch?v=9o7-Cgetho4

The Birthday「LOVE ROCKETS」
https://www.youtube.com/watch?v=EEWVJ4RZ4Xg

スラムダンクの安西先生の名言。

「下手糞の上級者への道のりは、己が下手さを知りて一歩目。」

バスケの哲学も、人生の哲学も、基本は同じです。

■残酷人生論 池田晶子

「考えることは、悩むことではない。

・・・

「わからないこと」は悩むことはできない。

「わからないこと」は考えられるべきである。

・・・

普通に人が、「悩む」という言い方で悩んでいる事柄は、内容としては、人さまざまである。

人さまざまに、じつによく人は悩んでいる。

しかし、その内容においていかに人さまざまであれ、その形式においては、それらはすべて「私とは何か」「なぜ生きているのか」「死ぬとはどういうことか」といった、いくつかの基本形に、必ず集約されるのである。

「哲学」というものの考え方は、誰がどのように考えてもそのように考えられるという仕方で、これらの事柄を「考える」のであって、これらの事柄を難しい言葉でもって「悩む」のではない。

これらの事柄を「個人の悩み」として悩むのでは決してないのだ。

だからこそ人は、より自由に、より力強くもなれるのである。

右のような事柄を、考え方の筋道に沿った仕方できちんと考え、納得と確信を手にし、さらなる段階へと進むという道程は、少なくとも私にとっては、切なる悦びなのだった。

そして、私がそうだということは、無論ほかの誰もがそうなのだと、こう思っていたのだった。

ところが、なんと、人は言うのだった。

「それは、残酷だ」

ならば、私はこう言おう。

考えるということは、残酷なことである。

ぐずぐず悩むことに人を甘やかさない、ありもしない慰めで人を欺かない、人生の真実の姿だけを、きちんと疑い考えることによって、ハッキリと知るというこのことは、なるほどその意味では残酷なことである、と。

むろん、残酷なる真実を知るよりも、甘たるい悩みに憩っていたい人は、そうすればよろし。

人は、自分の望むようにしか生きられないというのも、これはこれでまた残酷な真実であろうからである。

ところで、真実を知ることを残酷だと言えるためには、人は、知られる真実が残酷であるかどうかを、先に知っていなければならないのではなかったか。

ただ真実知ることをのみ願うのなら、さらに、疑え。」

苦しむ相手を見たくない、どうフォローしていいか分からない、そんな自分の言い訳を、「相手が可哀想、残酷すぎる」と、さも「人の為」のようにして誤魔化すことこそ、偽善であり、相手の苦しみを見て見ぬふりをする残酷な行為ではないでしょうか。

本当のことを伝えることは、相手を苦しめるためではなく、あくまで、後悔してほしくないからであり、幸せになってもらいたいからです。

そんな想いで告げた言葉には、意味があると信じられませんか?

真実を知ることは、残酷なことかもしれないけど、じゃ、人間の真実とは?

人は、100%分かり合えることはなくて、孤独に生きていること。

人は、どんな楽しみも喜びも、いつまでも続かないこと。

人は、100%、必ず死ぬこと。

これらは確かに、残酷な実相であるかもしれません。

でも、残酷だからといって誤魔化しても、それで解決にはなりません。

現実から目をそらす方が、未来の自分にとっては、とても残酷な仕打ちであると、そう、感じます^^;

何故、辛くて現実と向き合わなかったのかと後悔する姿が目に浮かびます^^;

大切なのは、やはり、終わりを胸に、今から生きねばならない事実を知るところから始まる気がします。

それがたとえ、残酷な真実であったとしても。

自身を知ることが第一歩ですね(^^)

ただねぇ、殆どの人間は、大した能力を持っていなし、誰もが羨む成功とも程遠い、今を生きています。

唯一できることは、その様な自分の主観的な世界をなんとか整えて、また、どうにか折り合いを付けていくことだけしかできない・・・・・・

だからこそ、言葉は時に、人の心を追い詰め、切り刻むほどの威力を持ちえてしまうのでしょう、ね^^;

けれどもまた、たった一つの言葉で、心が呼吸し、乗り越えられる夜があることも事実だと、そう、想っています。

私たちは、今、誰かの明日をつなぐ一言を、紡げているだろうか?、と・・・・・・

知りたくもないことを本人に突きつけて、現実を見せるなどというのは、エゴであったりするから、自分にとって本当に大切な人であれば、知らないふりをするのも一つの対処の仕方なんじゃないかって、そう想うんですよね、矛盾してるところもあるけど。

そう、知らないふりも、人間関係には必要な大人の技なんだよ、ね(^^)

【関連記事】
心と書いてウラとも読みます。
https://note.com/bax36410/n/n7f3ab8e3370b

最後に、良ければ、こんな曲達でも如何ですか?(^^)

中島みゆき「銀の竜の背に乗って」
https://www.youtube.com/watch?v=AoToyjajWq0

ドラマ「Dr.コトー診療所」の主題歌として耳にした人も多いはず。

人は弱い生き物だと言われます。

知っているのに知らないふりをして、弱さから目をそらして、適当にごまかして生きている時間が意外と多いことにさえ、気が付かないこと多いですよね。

中島みゆきさんの唄がこんなにも痛いのは、そんな自分の弱さに気づかせられるからなんでしょうね。

この曲の主人公は、自分の非力を嘆きながらも決して諦めはしない。

悲しみを翼に、傷跡を羅針盤に変えて、前へと進んでゆくその姿は、Dr.コトーにも重なってきます。

銀の龍を呼べるほどの強さが自分の中にもあると信じたいものですね。

馬場俊英「ただ君を待つ」
https://www.youtube.com/watch?v=qNsHRi1X7WE

「たとえば 僕が仕事で 少し苦しんでるとき

うまくいかずに悩んで 出口見つからないとき

テレビドラマを眺めて ただ何も言わずに笑って

知らないふりも そんな君の愛し方」

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