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【写真が持つ言葉の力】面影

うさだぬさん撮影

厳選した本とデザインプロダクトを扱うショップである「面影 book&craft」の” about us”には、

以下の様に記載されています。

「「面影」という言葉を分解してみると、「面」つまり表と、「影」こちらは文字通り「面」に光が当たってできた影のことを示します。

言うならば、それは光の当て方の違いなのです。

一方が正しいということではなく、「面」も「影」のどちらも、それ自身であるということ。

ただ事象や事物に対して、見ている方向性や視点、枠組みの違いであるだけで、多様さに気がつくことが、これからより良く生きていくためのヒントになってくるのではないかと思っています。

また、「面影」は、人それぞれの記憶や感情と結びついています。

何か(誰か)の「面影」をふっと感じる瞬間というのは、その人にしか見えなくて、心の内側からしかやってきません。

自分自身と向き合う姿勢があるからこそ見える、「心の中に映る風景」。

こうした「心の中に映る風景」を知覚することで、ひとりひとりが感情や感覚に正直になり、自分への安心や信頼につながること。」

この面影について、松岡正剛さんは、「週刊ポスト」2013年9月13日号で、以下の様に語っており、

「私がコンセプト・ジャパンとしていちばん大事にしている日本語は「面影」である。

NHKで8回にわたって日本文化の特色を歴史的に視覚講義してほしいと頼まれたときも「おもかげの国・うつろいの国」と名付けた。

万葉集に「陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを」という、笠女郎が大伴家持に贈った歌がある。

家持が心ならずも陸奥に赴任したとき、笠女郎があなたの姿は都からは見えないけれどその面影はいつも見えていますよと詠んだものだ。

その家持が坂上大嬢に贈った歌にも「かくばかり面影にのみ思ほえばいかにかもせむ人目しげくて」とあって、人目があるのでなかなか会えないけれど、面影とはいつも会っていますよと歌っている。

面影は現実の日々を超えてイメージの中で去来するプロフィールなのである。

「俤」とも「於母影」とも綴る。

人の面影ばかりではない。

渡辺京二の名著に『逝きし世の面影』があるように、時代や国や故郷についての面影もある。

日本人はこの面影をきわめて重視してきた。

その面影が失われることを痛ましく感じてきた。

面影はたんなる記憶像のことではない。

胸中にも眼前にも浮かぶ最も大切なコアイメージであり、その束であり、その因果応報である。

それを辿れば自分や故郷や国がかつて大切にしてきた“面影ネットワーク”ともいうべきを次々に手繰り寄せることのできるものなのだ。

万葉人はそれを歌枕などにも託した。

いま、われわれは日本の大切な面影がどのようなものであったかを、いささか忘れてしまっている。

面影の候補はいろいろあるだろう。

建設途中の東京タワーであることも、「抜けられません」という看板があった横町であることも、小さいときに習った小鼓であることも、ありうる。

では日本人の集団心理としては何が面影になっているのか。

焼跡も琉歌も、幕末維新も室町文化も、静御前もアテルイも面影だったはずだ。

そろそろこれらを束ね、つなげた“面影ネットワーク”が浮上すべき時が来ている。」

以前、この記事の中で、

本書をテキストとして、

「日本という方法 おもかげの国・うつろいの国」(角川ソフィア文庫)松岡正剛(著)

「日本という方法」について考えたことがあったけど、これら日本の面影について、小泉八雲は、アイルランド人の父とギリシア人の母の間で自らのアイデンティティを引き裂かれながらも、世界中を旅することを通じて、どんな土地にでも溶け込んでしまえる

「オープンマインド(開かれた心)」

を獲得するに至り、その類い希なる感性で、あらゆる音に耳をすませ、全身で世界と共振しながら、自分とは全く異なる文化の深層(面影)を感じ取り、言葉にして、本書に記しています。

「新編 日本の面影」(角川ソフィア文庫)ラフカディオ・ハーン(著)池田雅之(訳)

この作品は、多様化し対立し合う現代の世界にあって、

「異なる価値観」

「異文化」

を理解するための、大きなヒントを私達に与えてくれます。

更に、この面影が、人生に、私をプラスする。

例えば、ただ一枚の写真(面影)と問いかけから・・・

対話することで、

「花びらを掬ふてのひら染み透る面影はまだ指のあひだに」
(尾崎まゆみ『酸つぱい月』より)

“わたし”が見えてくる事だって有るかもしれません(^^)

想像力も。

記憶も。

感覚も。

感情も。

人・モノを使って対話をすることは、世界が

“視点”

で、できている事を、何時でも気づかせてくれます。

物事を、

「どうとらえているか?」

「どうみているか?」

というニュアンスに近い感覚ですかね(^^)

視点が交差して、交わることで、

■知っていたわたし

■知らなかったわたし

■忘れていたわたし

が見えてくると思います。

わたしを、わたし自身の視点と、他者の視点が、実は、とても豊かにしてくれる可能性があるのだということに、改めて気づかされる。

それは、時に、

「痛み」

「恐れ」

を、齎すかもしれません(^^;

そう、誰にでも、蓋をしておきたいものがあるはずです(^^;

それでも、人は生きていく。

生きていこうとする。

自分が今、どこにいるのだろうかと、そんな事を漠然と思いながら・・・

たまたま、手にした本が。

毎日、使うモノが。

ふとした瞬間に。

自分の居場所になっていることも・・・

もしかしたら、あるかもしれませんよね。

誰かの感覚を知ることは、

■自分を知り

■自身の感覚に近づく

そのための大きな一歩でもあるのではないかと、そう思っています(^^)

【参考資料】

【関連記事】

【今回の極意「俳句に使えない言葉はない」】

俳句に使えない言葉はないってことなので、曲の面影を残した一句みたいなもの(^^♪

■春
「朝未(あさま)だき 白鳥引きて コントレール」

安室奈美恵「Contrail」

■夏
「きみのうた 聴く夕端居(ゆふはしゐ) 翌(あす)は秋」

安田レイ「きみのうた」

■秋
「茜さす 紅葉の帳(とばり) に初風(はつかぜ)」

Aimer「茜さす」

■冬
「シャッターを 閉ざし北窓 塞ぐ朝」

優里「シャッター」


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