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【詩論雑考】私(あなた)があなた(私)のことをどう考えられるのか?

それは鏡がないと自分の姿が分からないのと同じように、相手の意見があってこそ、自分の輪郭をくっきりと理解出来る営みとして立ち現れてきます。

但し、その鏡が、現実の世界においては、常に、クリアであるとは限りません。

仮に、曇りガラスや擦りガラスであったなら、見えてくる世界の様相も異なってきます。

この点を哲学的な解釈でアプローチしてみると、「現実の生」が「磨り(曇り)ガラスの鏡の暗い反射光」へと弱められる原因は、言語そのものの性質にあると推察できます。

人は、心の内側の像を、灼熱する色と影と光とともに話したいと望み、切り出す言葉を探して苦心しています。

だから、その時に伝えたい事(=心)を話したり、書いたりする。

でも、電撃のごとく人を打つ言葉なんて、そうそう発することなどできやしない。

そうであれば、話すことのできる語全てが、色を失い冷たい死んだものとして目に映ることもあります。

「現実の生」を、一言で把握し伝えることを望んでも、その様な言語表現は、日本語にも存在しない様に思います。

だから、私たちは、言葉を無数に連ねていくことになる。

でも、文字と語の連鎖のなかで、相手に伝えようとする印象は分散して、「磨り(曇り)ガラスの鏡」に映る光の様に弱められたものとなっていく。

例えば、日常のどこにでも「美しい」と感じる言葉はあり、聞こえてくるものです。

ただし、それをそのまま文字に書き起こしたり読み上げても、他人がそれを「美しい」と感じるかどうかはわかりません。

自分が感じた「美しさ」を他人に伝えるのは、そんな簡単ではありません。

この「美しさ」について、今話題のAI「チャットGPT」に「美とは何か」と質問してみると、その回答は、その時点での強化学習の結果に基づいて、これまでの哲学や美学の議論を踏まえた美の定義をいくつか並べた上で、人間生活にとって重要なものであると答えてはくれますが、以下の様な示唆を与えてくれます。

①正解へとつながるためのヒントを、会話(例えば、質問等)の中に散りばめることで、より目的の情報へと近づける可能性がある。

②前提となっている当たり前のことを共有していない相手と会話することを意識し、あらかじめ答えの方向を絞り込むよう会話の中に条件を散りばめておく。

③先行事例の調整、つまり、前提条件の明確化が必要である。(情報の偏りやまとめ方に問題がないか調べたり、出典や情報源について確認したりすることが必要。)

【参考記事】

但し、それよりも重要なのは、そもそものところで、どうしてそれを問い(「美しさ」)、そのことを調べたのかという部分が欠落しており、人間には、これとは質の違う「わからない」(無知の知)があります。

それが、人間が問うということの理由でもあり、相手を理解するための出発点(優しさ)だと思います。

だから、私は、自分の思い込みだけで、言葉を発するのではなく。

相手の立場に立って、相手の受け取りやすい言葉で、過不足無く伝えていくことが大切だと思っているから、書き言葉では、どうしても長くなります。

それが、逆に、伝わらなくなってしまった事(その時、選んだ言葉では足りなかった等。)も多々ありました(^^;

私達の言語が、不完全な形で伝える「磨り(曇り)ガラスの鏡」であるならば、表層に痕跡を残し続ける無数の文字に他ならなくなるため、どうしても虚しく思えてしまうこともあります。

但し、その様な状況であったとしても、自分にしか理解できない「失われた言葉」の何れかを心根から掬い出す(理解・気付く)度に、それを自分で咀嚼できた言葉で表現しながら伝える事で、少しづつ、「私らしさ」に近づいていける様に感じます。

分からないことを、分からないと認める謙虚さ。

分からないことを、分かろうと努力すること。

この想像的努力のまたの名が愛であること。

そして、この「無知の知」こそが、学問の出発点であり、優しさの原点(「わかろう」という意志)でもあり、「私らしく」あるためのひとつのアプローチが、哲学的に言うと、この点にあったりします。

この様に、自己とか自分とかいう概念の不思議さと奥深さみたいなものとの関わりを表現しようとする時。

必要なことは、どれだけリアリスティック(対象をあるがままに写そうとするさま。写実的。)であるかどうかからスタートしてみることが必要だと考えています。

人によって、その答えは、無数にあるでしょう。

その答えのひとつとして、正岡子規は、俳句や短歌を写生であると言いました。

その点について、映像が思い浮かぶ詩が心を動かすと気づいたとき、やっと、その言葉の意味が理解できます。

それは何か?

感情とは、それぞれ個人の物であるという事実。

仮に、まったく同じ経験をしたとしても、持つ感情は、人それぞれだと思います。

例えば、「悲しい」の一言は、人によって違いすぎるものです。

ある事柄から受け取る感情は個々に違う。

だから感情を伝えたい場合、感情を直接表す言葉は、抽象的すぎて人に伝わらないのだと思います。

ですが、映像は違いますよね。

映像は、ちゃんとした文章があれば伝わります。

本当に伝えたかった感情を伝えることができます。

それは、結果的に自分が伝えたかった感情とは異なる感情かもしれません。

ある人は、悲しみ。

ある人には、喜び。

ある人には、怒りかもしれません。

けれど、それで良いんじゃないでしょうか。

繰り返しますが、感情は、それぞれ個人の物だからです。

自分が見たものに何かを感じた時(情景)。

それを写し取ったもの(写生・写実的)こそが。

真に、自分の感情を伝える言葉であり、それが詩であると理解しています。

詩を作った人の感情を、映像に込めて読み手がそれぞれの感情を再現する事。

それが、詩の解釈において有効なアプローチだと思われます。

さて、詩的とはどういうことかについて、ジャック・デリダは、ひとつに「記憶の節約」ということ、と答えていました。

詩は、ある種の短さを持っているので、背景をなす物語が、大省略される代わりに、暗記。

つまり「心」に学ぶという、記憶できるほどの短さを有しています。

そこに凝縮される事態のようなものが「詩」だという趣旨です。

ここで思い出されるのがマジカルナンバー(magical number)です。

人が瞬間的に記憶できる情報の限界数のことを言います。

7±2または4±1が限界と言われています。

初登場は、ハーバード大学の心理学者、ジョージ・ミラー教授による1956年の論文「The Magical number seven, plus or minus two」であり、ここで提唱されたのが「マジカルナンバー7」です。

マジカルナンバー7によれば、7±2のチャンク(情報のカタマリ)が、人間が短期記憶に置いておける情報の数です。

つまり、人間は、同時に5〜9つの情報しか覚えていられないということになります。

それから45年後の2001年、アメリカのミズーリ大学の心理学者ネルソン・コーワン教授は、「マジカルナンバー4」を提唱しました。

マジカルナンバー4では、4±1のチャンク、つまり3〜5つの情報が、人間が瞬時に記憶できる情報の限界とされています。

このことからも、俳句や短歌、そして詩等は、感覚記憶(一瞬)や短期記憶(15〜30秒)的にも有利に働くのかもしれませんね。

さて、「心」をあらわすというところにも、ジャック・デリダは、詩の特色を見いだしていました。

長からぬ詩。

ちょうど記憶できる程度の短歌。

凝縮的な俳句。

この三者に、この様な違いがあることを気づかされます。

この「詩」を和訳すれば「うた」になります。

「うた」とは「うたふ」の連用形です。

「うた・歌う」の語源は、折口信夫によれば「うった(訴)ふ」です。

歌うという行為には、相手に伝えるべき内容(歌詞)の存在を前提としていることも、また、確かですね。

また、徳江元正は、「うた」の語源として、言霊(言葉そのものがもつ霊力)によって、相手の魂に対し、激しく強い揺さぶりを与えるという意味の「打つ」からきたものとする見解を唱えています。

このような切実な気持ちを引き摺りながら身体から発せられた言葉は、すべて「うた」になるしかないような気がします。

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