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ラッセル『幸福論』と星野源『化物』が、みんな平等なんだと教えてくれた。


幸福に対する考え方は人それぞれだが、過去の著名な人物がどのように考えていたのか知りたいと思い、ラッセルの『幸福論』を読んだ。

数ある『幸福論』の中からラッセルを選んだことに特に理由はない(たまたま本屋で目に付いた)が、幸福獲得の条件を「己の関心を外部に向けること」と説く視点は、非常に興味深いものだった。

17章に及ぶラッセルの考察のほんの一部を切り取るかたちになってしまうが、一読して心に引っかかった部分を文章にしておきたい。

ラッセル幸福論は、「不幸の原因」について考察する第1部と、「幸福をもたらすもの」について述べる第2部からなる。ここでは、第2部の中の「愛情」についての記述をピックアップする。

しかし、人生に対する一般的な自信は、ほかの何にもまして、正しい愛情を、必要なだけ、ふだん与えられているところから生まれる。
(中略)厳密に言えば、こういう結果は、愛情だけではなく、賞賛によってももたらされる。
(中略)一般大衆の賞賛という正当な報いを受けるとき、彼らの人生は熱意にみちあふれる。少数者の一段と集中した愛情がほかの人にしてくれることを、大衆の拡散した好意が彼らにしてくれるのである。

人生を幸福たらしめる要因の1つである自信は、愛情を得ることにより生まれ、その愛情は大衆からの賞賛というかたちで代替可能だというのだ。

上記の「賞賛」は、別の箇所で「拍手かっさい」とも表現されている。この「拍手かっさい」という文字列が、脳みその奥から星野源の楽曲『化物』を引っ張り出してきた。

星野源は、エッセイ集『いのちの車窓から』で、『化物』の製作について少しだけ言及している。舞台で中村勘九郎(故・中村勘三郎)と共演した際に、本人から聞いた話をもとに詞を書いたという。

「たくさんの人に拍手もらって帰るでしょう。でも、家に帰ってシャワーを浴びながら髪の毛洗ってるとねえ、本当にひとりなんだ」
公演当時、演技について、心底悩んでいたと後に聞いた。あんなに輝いていて、スタッフからも出演者からもお客さんの全員から好かれ、愛され、悪いところなんて一つも見あたらない人なのに、満足せず、まだ目標を持ち、戦い、心底悩み、故に孤独になるのか。

たくさんの拍手が好意のあらわれであることは言うまでもない。芝居を観た人たち、つまり一般大衆から演者に向かう好意である。拍手をもらうということがとても喜ばしいであろうことは、容易に想像がつく。しかし、大きな賛辞をその身に受けたあとでも、家でひとり孤独に苛まれるという。


なぜそんなことが起こるのだろう。


おそらく拍手は、中村勘九郎の持つ無数の要素の中で、主に「芸」に対して向けられた好意だ。しかし当の本人は、その「芸」という部分に対して全く満足していない。引用した内容によれば、自分の「芸」はまだまだこんなものじゃない、もっと上に行きたいという想いでいたはずだ。いくら賞賛が得られても、賞賛が向けられている部分を自分で認めていなければ、かえって「誰も自分のことを理解していない」と感じられてしまうのかもしれない。そしてその無理解は、「皆、自分にさして関心がない」と思わせてしまう場合もあるだろう。
自分自身で認められていない部分に対して赤の他人から向けられた好意は、その量が多ければ多いほどに、かえって孤独感を誘起してしまう。


そんな想いを吐露するような、『化物』サビの「誰かこの声を聞いてよ」という悲痛な叫びが好きだ。


ラッセルの『幸福論』に戻ろう。

自信を生み出す要因となる愛情は、賞賛により代替可能だという記述があった。
ラッセルは、理想的な愛情のかたちについて、以下のように述べている。

二人の人間がお互いに対して真の相互的関心をいだいているという意味での愛情――つまり、お互いを幸福のための手段として見るだけではなく、むしろ、一つの幸福を共有する結合体だと感じる愛情は、真の幸福の最も重要な要素の一つである。

マザーテレサも「愛の反対語は無関心」と言っているが、同様に、相互の関心こそが真に幸福に貢献できる種類の愛情なのだという。

この言説によれば、上の「大衆の拡散した好意」は幸福に寄与する種類の愛情たり得ないのも納得できる。
まず第一に、どうしても一方向的でしかあり得ない。大衆に向けて個別に関心を抱くことは難しいからだ。
そして第二に、その好意は、自分が理解されていないという感覚、ひいては深く関心を持たれていないという感覚を生み出し得る。


大衆に好意を向けられるということは、まごうことなく1つの成功のかたちである。しかしそれでもなお、その人なりの苦悩があることを忘れてはならない。あなたが今何かしらの問題を抱えているように、誰も皆問題を抱えている。たとえ完全無欠で憂いなどないように見えるとしても。
そんな相手に、嫉妬ややっかみの感情を振りかざしたところで何も得られない。相手を下げようとして、自分自身も同時にずり落ちていく。

だから、目に見える立場に対してフラットにいこう。輝かしいほど、目が眩んでその本質をちゃんと見られない。


反対に、好意を向けられる側(上の例での中村勘九郎側)の視点から言うなら、自分自身の長所を認識することは、無用の孤独感や不安を避けるのに非常に重要だ。
自分の長所は自分では気づきにくいもので、なかなか他人に指摘されてもピンと来ない。しかし自己評価と同じかそれ以上に、他者評価も信頼すべきだ。自分にとっては当たり前だが他人に評価されているという部分こそが、その人の真の強みであることは多い。
向上心はより良く生きていくために確実に必要なものだ。しかしそれが行き過ぎて自己否定になると、その感情だけではやっていけないし、自分の外側に心が向かいにくくなってしまう。上を見据えつつも、自分の現状を肯定する意識を持つのは大切なことだ。

自身の現在地を肯定する目線と、自己否定とともに高みを追求する目線。両方を自分の中に持ち合わせておきたいものである。



ラッセル『幸福論』を読んで、星野源『化物』を思い出した。
なぜ無意識にこの2つが繋がったのか、乱暴気味ながら考えてみた。



▼今回のテーマとなった書籍です。


▼自己紹介です。せっかくなので見てみてね。


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