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『ベーコンレタスサンドとカルボナーラの券売機』

駅ビルの3階には大きな書店があり、そこにはベストセラー作家の新刊が平積みにされていた。私は一冊手に取って適当にめくってみた。
小説の中で主人公の男はパスタを上手に茹で、サンドウィッチも器用に手早くこしらえていた。

〈三角に切ったサンドウィッチの切断面はかなりセクシーだ。それを横向きではなく手で縦方向に持ち、ハムやレタスなどの具材の一層一層の重なりを愛おしむようにして食べればモアセクシーだ。具はハム、ベーコン、トマト、レタスなど。カツサンドやコロッケサンドはダメ。セクシーではない。〉

「パスタとサンドウィッチという至極シンプルな料理を描写することにより、現実味のあるセクシャルな描写を盛り込むよりもより一層の深いエロスの雰囲気を醸し出すことに成功している。その辺りの演出の塩梅とか絶妙さが他の作家にはない趣向なのだ」

と、どこかの新聞か雑誌の書評で読んだ気がする。

例えばダリの描いたシュールレアリスム絵画のように、読者の潜在意識に強く働き掛けてくるものがあるのだとか。様々なメタファーが盛り込まれているとか、ダブルイメージが駆使されているだとか、必ずメンヘラが出て来るのだとか。
言われてみるとそんな気もしないではないのだが、あまり説明的になり過ぎては作品が身も蓋もないものになってしまわないのかな?


(サンドウィッチではなくおにぎりではダメなのか?海苔を巻いた三角にぎりは日本が世界に誇るセクシーファーストフードと言えるのでは?)


〈ダメだ!あれは露骨にエロくて文学的な情緒に欠ける。サンドウィッチとかパスタくらいが丁度よいのだ。パスタにも色々あるが、一番セクシーなパスタはカルボナーラだ。パスタにソースがねっとりと絡み付くその見た目やテイストやフィーリングがグッド。フォークに巻き巻きして食べるというのもセクシーだ。パスタに合わせる酒は白ワインくらいが丁度良い。芋焼酎でも麦焼酎でも泡盛でもダメ。ウーロンハイも緑茶割りもダメ。ウィスキーでもダメだし、バーボンやウォッカやジンもダメ。だがシャンパンは良い。シャンパンとかスパークリングワインはセクシーだ。〉


(ラーメンは?豚骨ラーメンの白濁したスープの色、あれはそれなりにエッチくないか?)


〈白味噌ラーメンや白海老ラーメンも捨てがたい。麻婆ラーメンも好きだ。〉


オッと、これはいけない。私の中の雑念だか潜在意識だか超自我だかオルターエゴだかが取り留めもなく色々と思考にちょっかいを出して来て、どうも本の立ち読みに集中出来なくなってきた。




私はその日、美術館に行った帰りなのだった。
マリー・ローランサン展。
彼女の色彩感覚が私の性分に合っているらしく、彼女の描いた淡い色調の絵画を見ると必ず心が落ち着き清々しい気分になる。
美術館にはローランサンと同時代を生き影響を与えた画家として、ピカソの絵も同時に展示してあった。
ローランサンの描く女性よりもピカソの描く女性の方が女性の本質をより分かり易く描いているが、世の中がピカソの画のような女性ばかりで溢れてしまってはかなわない。
そして私にはピカソよりもローランサンの絵の方が見ていて飽きが来ない。



立ち読みしていた本を置き、店を出て駅の券売機に向かった。すると、


「これまだ使えるで、買ってくれへん?」


券売機の前で見知らぬおじさんに声を掛けられた。背は私のみぞおちの所くらいまでしかなく、物腰も言葉遣いも謙虚な初老の男性だった。彼が持っていたものは使い掛けの少し汚れのあるテレホンカードだった。


「これ700円くらい残っとるし、ワシは使わへんから買ってくれへん?捨てるのも勿体ないで、500円でどうかね?」


私は自分の財布を見た。小銭の方は500円玉が1枚と100円玉が3枚、それに10円玉が何枚か入っていた。


「切符買わんとあかんし、300円でどう?」と私は言った。


どうせこのおじさんも拾い物を売り付けてる訳だし、値切ってもバチは当たるまい。


おじさんは少し渋い顔をしたが、「お兄さん得したね」「お兄さん上手いね」「お兄さん今日は本当に得したね」と同じような事を繰り返し言ってから人混みに消えてしまった。

おじさんが立ち去る時気が付いたのだが、彼は足が不自由で左足を引き摺りながら歩いていた。しばらくその後ろ姿を私はボンヤリと眺めていたのだが、ハッとして急いで券売機にお金を入れた。


お金が足りないのなら、切符を買ってからそのお釣りで払えば良いだけの話だった。おじさんもそのタイミングを見計らって私に声を掛けてきた筈だ。それなのに私は値切る事だけに妙にこだわって、釣り銭のことには全く頭が回らなかったのだ。つくづく気の利かない私なのだ。
広い駅の構内、そこには何百人もの人々がいた。その中で私だけがたった一人そのおじさんに選ばれたのだ。
使い掛けのテレホンカードを売るのに最適な人物として、そのおじさんのお眼鏡には私は好人物に映ったのだ。そこら辺の若造ではなく、人を見る目に肥えているであろう年嵩のおじさんに選ばれし存在が私だったのだ。

それにもかかわらず私は全くうっかりし過ぎていた。


おじさんは硬貨を受け取ると足を引摺り引摺り人混みの中をゆっくりと歩いていった。そして私が券売機で切符を買って精算してから振り向くと、そこにはもうその老人の姿はなかったのだ。人混みに紛れてしまい見付け出すことは出来なかった。
私はなんてバチ当たりな事をしてしまったのだろうと思った。とんでもない人から値切ってしまったと後悔した。



まだスマホも電子マネーもない時代の話だ。今はきっとその老人も亡くなってしまっている事だろう。幾つも季節は過ぎ去ったけれど、不思議に忘れられないでいる。




おしまい

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