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👤HSS型HSPを知って。

ほんの少しだけ救われた気持ちになった話をしたい。

私は昔から、とてつもなく群れるのが苦手だった。学校の『クラス』の存在が苦痛で、人間関係を自由に構築したいと願っていた。授業を受けること、体育祭などの行事で人と協力することが嫌いなわけではない。狭い空間で『仲良くしなければならない』という強制された空気が嫌だった。

具体的な例でいうと、休憩時間によくみられる「お手洗い一緒に行かない?」という会話。それすらとにかく煩わしい。好きなタイミングに、一人でいけばいいじゃないか。トイレにまで友達と行かなければならないのかという鬱陶しさがあった。

学校の行き帰りも同様だ。朝家を出て、学校までの道のりは私にとって『考えをまとめる時間』だ。自分の世界に浸っている。まぁ、ほぼ空想だが。誰かといると、至福の時間を邪魔される。そんなふうに思っていた。

実際はどうだったのかというと、人に合わせていた。人というより学校という空間ともいえるだろうか。妥協というか、自分の考えが世間に受けないことを知っていた。みんなと仲良くすることが正義で、場の空気を乱してはいけない。つかず離れずのちょうどいい距離を求めていたけれど、狭い世界でそれは叶わなかった。

毎日とにかく疲れていた。唯一休めるのは自宅に帰ったとき。人の前に立つことも、誰かと話すことも嫌いではない。むしろ、どちらかというと積極的に前に立つ(立たされる)方だったと記憶している。本当の自分は一人でいたいのに、目立つことが好きではないのに。根は明るいけれど、いつも元気なわけではないんだ。明るくて元気でいいね。その褒め言葉でさえ、ストレスを感じた。本当の自分はそんなものではない。矛盾と葛藤する日々だった。

誰にもいえなかった。場を乱す思考だし、常に誰かと一緒にいることが当然という流れの中で、この考え方はマイノリティだ。若干18歳くらいの自分でも、それはちゃんと理解していた。だからこそ物凄く悩んだ。私は人と比べてとても変なのではないか。何か精神的におかしな部分があるのではないか。むしろ病気なのではないか。親にも相談できず、友達にも共感を得られず、悶々した。

大学に進学し、そのストレスは一瞬消えた。クラスという雁字搦めの空間がなくなり、自分で人間関係を選べるようになったからだ。自分で考え行動する。主体性を求められることが、こんなにも心地良いものかと幸せな気持ちになった。

でも一瞬だった。

社会に出て、再びその葛藤を味わうなんて思いもせずに。

―――

社会人になって仕事も慣れた頃、かなねーさんというアカウントを立ち上げた。野球を通じて、たくさんの人と交流を深めたいと考えたからだ。おかげさまで人に恵まれ、多くのチャンスを得ることができた。自分の強みを再確認し、達成したい目標ができた。今後もますます、楽しいことが待ち受けている。そんなふうに前向きに感じられる日々を過ごしている。

と、全てが順調であればよかった。


それはいきなりやってきた。学生時代に感じた違和感と再会したのだ。野球に行っても心が休まらない。体力的な疲れではなく、明らかな精神的な疲れ。いや、気疲れだ。一人でいたい、一人になりたい。


誰も私に話しかけてくるんじゃねぇ。



年に二度くらい、こんなふうに爆発するときがある。誰も近寄るな、話しかけてくるなと。それこそ牙をむく狼のような様子。私に味方なんていない、きっと誰にも理解されない。何がかなねーさんだ、持ち上げてくるな。ゴマすってくるな。あなたに私の何が分かる。過激的な書き方だが、メーターが振り切ってしまう。どうしようもない、本音そのままだ。


やばい、まずい。このままでは誰かを傷つけてしまう。


対処法はなんとなく理解していた。それは休むこと。平日は仕事、休日は野球で常に動きっぱなし。それを一旦やめる。どこかで丸一日休息日を設けると、心が健やかになる。そこで私は自分との折り合いをつけ、調整した。この性質をわかってくれる友人の存在にも助けられた。誰にも理解されないと思う中で、光のありかを認知している。矛盾する考えではあるが、落ち着けば冷静に判断できるのだ。

また、唯一の救いであるのはそれで誰かを攻撃しないことだ。もう少し若かったらと考えると、かなり恐ろしい。この波がやってくるたびに、自己嫌悪に陥った。やはりどこかおかしいのではないか。どうしてこんなにも人が大好きなのに、人を拒絶してしまうのか。

散々悩みに悩んだ挙句、色々な本を読み漁った。それでも当てはまらないし、どこにも該当しない。暗闇の中を歩いているようだった。私は一体何なのだろう、どうしたらいいのだろうと。


―――

私にとって『かなねーさん』とは、自分の理想像である(いって完ぺきではないけれど)。いつでもニコニコ笑顔で対応し、目標を達成するために頑張る人。自分がそうでありたいという理想を作り上げ、一生懸命演じている。全てが架空とはいわないが、だいぶ無理をしているなというのは時々感じる。かなねーさんと本来の自分を引き離す必要はないのに、できる自分を見せたくて自然とそうなってしまった。そんなときに、ある言葉と出会った。


HSS型HSP

HSS型HSPとは、HSSの「刺激を求める気質」と、HSPの「繊細で内向的な気質」両方を併せもった人達のことをいいます。

これだ、私が疲れる原因は。

要するに好奇心旺盛で行動的なくせに、内心はビビり(繊細)で内向的である。アクセルとブレーキを同時に踏んで生きているのだ。野球観戦や写真展開催、文章などを書いて外に発信する行動力がある。その上、人も大好きなので対応ができる。しかしその裏で、びっくりするほど精神がすり減っている。活動的な時間が多くを占めると、爆発してしまう。

この言葉と一冊の本に出会って救われた。もう悩まなくていいと。これだと型にはめるつもりはないが、私が今後どうやって生きていけばいいのか『ヒント』を得た気がした。同じように苦しんでいる人がいることを知り、マイノリティではあるけれど、一人ではないと解放された。

もちろんこの性質を知ったからといって、私に対して『気を付けて対応してね』と強要するつもりは断じてない。自分の性質を知り、どうやって対処していけばいいかを学ぶ機会を得たという話だ。今まですんなりこれたのも、周囲の存在があってこそと思っている。家族や友人には感謝の気持ちでいっぱいだ。

人より少し繊細な部分がある。そのくせ、人より行動力がある。
私はきっと、そんなものなんだ。


細心の注意を払っていても、誰かを傷つけているかもしれない。隠しているつもりで、牙をむいた姿を見せているかもしれない。そんなことを頭の隅にいれておきながら、どうしたら爆発せずに済むだろうと考える。今よりさらに生きやすくするために。背伸びせずに、ありのままの自分を受け入れるために。


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