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答えは結局、自分次第


 先日、友人と魚釣りに行く道中で、哲学者って面白いって話をした。 いろんな哲学者、 思想家、 心理学者たちがいるが、 それぞれ自分が思っていることを人々に唱えている。 一方で物理学者や数学者は、 未知の答えに対して、 それぞれで考え、 答えを導き出したもの勝ちだ。

一見、 物理学者、 数学者の方が競争社会に生きているようで窮屈に感じるのだが、 彼らたちは、 誰かがその答えや数式を導き出した時、 ライバルでありながらも、 その人を称賛し認めるのである。 それが、 哲学者ってのは厄介な生き物で、 自分の提唱を曲げない頑固者が多い。
なので、 師弟関係であろうが、 意見が食い違うとたとえ師弟関係が裂けようと折れない人もいたようだ。 学のあるいろいろな哲学者たちがそれなのである。 私たちアホな一般人がわかるわけがない。 哲学者の言い分をうまい具合にまとめられていたら、 おそらくこの世にいじめも戦争も無くなってるんじゃないかと思う。 じゃぁ、 なぜ戦争がいまだに行われるのか?まぁ、この話はまた別の機会にして、本題に移ろう。

 さて、 私が読んだ本だが、 全国の子どもおやこ劇場でも名前をご存じの方も多いし、 むしろ 「私、 大ファンです!」 って方もいるだろう、 劇作家の平田オリザさんの著書を 2 冊ほど読んだ。 最初に読んだ本の方が発刊が新しかったため、 若干理解しにくいところはあったが面白い発見もあったのでお話しようと思う。

 どちらの本も対話についての著書なのだが、 まず、 最初の本の中で、 会話と対話の違いについてこう述べていたと思う。 会話は知っている人とするたわいもない話。 対話は知らない人もしくは多少知っている程度の人と意見を言い、それを基に互いの意見をすり合わせる話。たしかこんな感じのニュアンスだったと思う。

 そしてもう一冊の本は今から 20 年以上前に出版された本だったが、 そこの前半部分では、 会話は知ってる人とする話。 対話は知らない人とする話。というようなざっくりとした説明だった。だが、 後半になるにつれ、そこ
には 『意見を出し合い、 それを基に互いの意見をすり合わせる』 などの一冊目と同じことが書いてあったのだ。

 前半を読んでた時、 正直 「一冊目と言ってること違いますやん!」とツッコミを入れながら読んでいたのだが、 後半になりさらに 「考え方変わってますやん!」 とツッコんでしまった。 (笑) もともと、3 年分のコラムをまとめた著書だったのだが、それにしても 3 年で、しかも一冊にまとめている本の中で、前半と後半で解釈がかわっているのだ。 後半で解釈が変わったのは、オリザさん自身も他の人の著書を読み、 学び、そこから引用すると書いてあったが、 一冊の本の中で解釈が変わっては、 読者側からしたら 「なんやねん!」である。実に面白い。 (笑)

 有名な劇作家で数々の著書を書いている平田オリザさんでさえ、 3 年で解釈が変わり、 それが一冊の本にまとめられてることが私にとって非常に面白かった。 なにが面白いって、 人の言葉への解釈などその程度のものなのである。 会話の中に対話があってもいいし、 対話の中に会話があってもいいじゃないか。 そもそも、 話をするということには変わりないのである。

 会話はたわいもない生産性のない話だと決めつけ、 したがらない人も世の中には一定数いる。 冗談の一つも言えない対話で相手の何が判るというのだろうか?それこそペルソナを被った社交的な薄っぺらい会話と腹の見えない上っ面の交渉を世の中では対話と言ってるなら、 私は滑稽でたまらない。

 会話と対話、 この2 つを 2 つのそれぞれ違う概念と考えないといけないか?いやはや、 それこそ哲学的答えのない論争になるのでやめておこう。 話がなかなか進まないのだが、 次回こそ平田オリザさんの考えるペルソナについて話を進めよう。

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