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【創作】文字通り喉から手が出て店の高級革靴を盗んで食べた泥棒が、巨万の富を得た話(7,017字)【投げ銭】

【原題:To Have and Have Not(2009.10.27.)】

「喉(のど)から手が出る」という心理状態の人間が、具体的な行動を起こしたときの非常に極端な場面に、私は遭遇してしまったように思う。

その男は最初、物欲しそうな目で、駅に続く通りにあるショップのショーウィンドウを見ていた。それはオードリー・ヘプバーン主演の映画なんかにも出てきそうな、オシャレな感じのブランド店だ。飾られていたのは、つま先のとがった光沢のある黒いローファー。医者か弁護士か、自分を偉く見せようとするタイプの人間が好んで履(は)きそうな靴だ。

男の服装は、みすぼらしいとまでは言えないまでも、あまり人が好感を持てる印象ではなかった。地味な色の安っぽそうなネクタイと、くたびれてヨレヨレのスーツ、それに泥と傷だらけで光沢が無くなってしまったローファーは、きっと色々生活に苦労しているのだろうな、という周りの人間の同情心を募(つの)らせてしまうようなものだった。そんな男が、一月の生活費を丸ごと持っていかれそうな高級靴にあこがれを抱くのも無理はなかろう。

実際、私もその靴がほしいと思っていた。仕事の帰りに店の前を通るたび、いつも立ち止まって、その靴をながめるのを習慣にしていたのだった。自分がそれを手に入れ、履いているところを想像するだけで、自分が何やら偉くなったような気分を味わっていた。けれど、しょせんはただの妄想。すぐ現実に立ち戻り、その場を後にしていた。

その場所に今、私と同じように、いやそれ以上の執念を持った目で靴を見つめている男がいる。それは私にとって、正直あまり愉快と呼べるような状況ではなかった。ライバルの登場、とでも言うべき事態だ。だが、私は努めて冷静を装い、こっそり彼のことをフンと鼻で笑って、いつもと同じようにその場を立ち去ろうとした。

人と競うことを、私はあまり好まない。それに彼は、私に及ぶような相手ではなかろうと思った。私はそれほど裕福な方ではないが、まさか彼ほどにもくたびれた生活を送っているつもりはないと、そんな自負があったのだ。あんな男に、あの靴を手に入れるような力が備わっているハズは無い。

しかしその直後のこと、とても現実には考えられないような事態が起こった。男は急に、無精ひげの下で「へ」の字に曲げていた口を開いた。それもただ開いたのではない。カメレオンが獲物を発見したときのように、ガバッと上下に大きく開いたのだ。そしてなんと、口の中から人間のものとは思えないような、太くて長い舌をにゅっと伸ばしたのだった。

いや、その太くて長いものは、舌ではない。よくよく見ると、その先にゲンコツのような大きさの硬そうな物体が生えており、鋭いパンチをショーウィンドウのガラスに繰り出した。その映像は、いつぞや私がテレビで見た、ジェームス・J・ブラドックをモデルにした映画のボクシングシーンを思い起こさせた。まるで現代社会を覆うすべての闇を打ち破るかのような、快い衝撃音が辺りに響く。周りに飛び散ったガラス片は、ダイヤモンドダストの如くきらきらと、まばゆい輝きを散らせた。

次にそのゲンコツは、ショーウィンドウの中の革靴まで伸びると、本当に手のようにガバッと開いた。そして革靴を、左右そろえてつかんでしまった。スパイダーマンの糸が標的を捕らえるように、はたまた、プレデターの口が獲物を捕食するかのように。

実際、男はその革靴を巨大な口の中に取り込み、ばりばりとけたたましい音を立てながら噛み砕き、飲み込んでしまった。ほんの一瞬のできごとだったが、私にはまるで新手のマジックショーか、それともエポックメイキングなテレビコマーシャルを見せられているかのように感じられた。

しかし私や、また同じ光景を目にしていた周りの通行人たちがそれを現実のものと受け止めるには、さほど時間がかからなかったように思う。それもまた、普段から我々がキテレツな広告や、「スペクタクル映像」などと冠されるCG映画を見慣れてしまっているからだろうか。違うのは、その映像がスクリ-ンの中で起こっているのではなく、目の前で起こっているということだけである。

「泥棒だ!」

私や、私につられて同じことを叫んだ人々の声に反応して警察が駆けつけてくるまで、5分とかからなかった。その間、店の靴を奪った男は、逃げるどころか、どこからか取り出したつまようじで食後の歯の手入れにいそしみ、そのあとは、おいしいものを食い終えたという満足感に浸るように、口笛なんぞを吹いていた。それもエディット・ピアフの「ラ・ヴィ・アン・ローズ」なんかをだ。

「泥棒が出たとの声を聞いて駆けつけたのだが、いったいどいつだね?」

駆けつけた警官の中の、口髭の多い巡査部長風の男が、私に尋ねた。一瞬、何を訊かれたのかと思って閉口してしまった私だが、

「……あ、あいつです!」

何とかそう冷静に答えると、割れたショーウィンドウ前に立っている男を指差した。しかし巡査部長は、その男に視線を移しながらも、怪訝(けげん)な表情をしていた。

「あいつがか……いったい、どうやって? 何を盗んだ?」

「店のショーウィンドウを打ち破って、展示品の革靴を奪ったんです!」

見て、想像つかないのだろうか? 答えながら私は呆れてしまった。だが巡査の質問は、なおも続く。

「その盗んだ革靴とやらは、一体どこにある」

「あいつの……腹の中です」

この回答には、一瞬詰まってしまった。先ほどのスペクタクル映像を見ていない巡査に、この答えが伝わるのだろうか?

だが、と言うか、またしても、と言うべきか。私の予想に反し、巡査は納得したように大きくうなずいた。彼は私のそばを離れると、革靴泥棒の男に近づき、声をかけた。

「ちょっとお尋ねしたいのですが、署までご同行願えますかな?」

心なしか巡査の言葉づかいは、先ほど私に対するものよりも若干丁寧になっていた。が、それを気にするよりも前に、ふたたび先ほどの衝撃が繰り返されるようなことが起こってしまった。革靴泥棒の男が、またもや口から太い舌――いや、もはやそれは、手であると認めてしまうべきだろう――を伸ばし、巡査の、両袖に銀色の斜め一本線の袖章(そでしょう)が入っている立派な制服をつかんだのである。

巡査部長は慌てて、腰の警棒に手を回す。しかし泥棒は、口から伸びた手でそれより早く警棒を奪い取ると、またそれを食べてしまった。抵抗手段を失くした巡査部長。それから泥棒が彼の制服を剥(は)ぎ取るのは、たやすいことだった。

泥棒はくちゃくちゃと、まるでキャラメルでも噛むかのように巡査部長の制服を平らげてしまう。もはや、巡査部長からただのランニングシャツのオヤジとなってしまった男は、おびえたチワワのような顔で泥棒を見つめていた。そして震える手で頭から警察の帽子を取ると、どうかこれだけは取らないでくださいとでも言うように、それを両手で胸の前に掲げた。

だが、それを泥棒は、ついでにこれも食べちゃってくださいだと誤解してしまったのだろうか、またひゅっと口から手を伸ばしたのだった。もぐもぐ、ごくん。

帽子を食べ終えた後で、泥棒は私を見た。その表情は、彼を泥棒呼ばわりした私のことをあざ笑うかのようだった。ぎょろりとした目玉、顔の両端いっぱいに広がる口、その上に生えた意外に形の整った無精髭。最初はみすぼらしいと感じただけの彼が、恐怖さえ感じさせてしまうような存在になり変っていた。

「何をしているんだ、早く誰かやつを捕まえろ! やつは、犯罪者なんだぞ!」

私は、ありったけの声を出して叫んだ。しかし巡査部長を含め、警官は誰も動こうとはしなかった。私は、もう一度叫んだ。「やつを捕まえろ、やつの自由にさせておくわけにはいかない!」と。あんな芸当が、できていいハズは無い。それを言うのは、間違ったことでは無いと思った。けれど、正しいことを言っているという感覚でもなかった。その声は、少し感情的に響いていた。私は単に、おびえていたのだろうか。

そんな私を見て、泥棒はあきれたのだろうか、やがて何も言わず、その場を離れた。去っていく彼を引きとめる者は、やはり誰一人いなかった。泥棒の姿がすっかり無くなってしまうと、警官たちは快い声で「異常なーし」と叫び、帰っていった。

そして傍観者たちも、止まっていた時が動き出したように、これまでの歩行を再開し、どこかへと消えた。これまでのできごとが、ただの白昼夢であったかのような、あっさりとした幕引きだった。私の叫んだ声だけが、行き場を失って、ぽっかりと宙に浮かんでいるままのようだった。

ショーウィンドウが割れた店は、しばらくそのままだったが、やがて店の人間が電話で呼んだのだろう、窓の取り付け業者がやってきて、修繕作業が行われた。ついでに保険会社もやってきて、店の人間と、保険が下りるかどうかの口論を色々と始めたようだが、その結果がどうなったのかは私の知ったことではない。とにかく、その場にいたほとんどの人間が、泥棒のことなど忘れ、それぞれの生活に戻っていってしまったのである。

戻ることができなかったのは唯一、警棒と制服、帽子を奪われた元巡査部長、現ランニングシャツのオヤジだ。他の警官たちが帰っていくのを呆然と立ち尽くしたままでただ見送ったオヤジは、事件の現場から離れることのできなかったもう一人の人間である私のことを、複雑な表情で見つめていた。何だかうらむような、同情を請うような。

けれど私にオヤジのことをどうにかする力は無く、かけてあげる言葉すら思いつかず、逃げるようにその場を立ち去るしかなかった。

オヤジは今、商店街の路地裏に段ボールを敷きつめ、ホームレスとして生活を送っている。そのとき剥奪されたオヤジの地位は、それから一生戻ることはなかったと聞く。

それから10年の歳月が過ぎ、私は今、この思い出を書き記している。

この事件のことを書こうと思うまでは、私もほかの傍観者と同じように、事件のことなど忘れて普段の生活に戻っていた。人間とは忘れっぽい動物であると言うがまさにその通りで、あれほどの衝撃的な事件も、一昨日食べた夕食のように記憶の彼方へ葬(ほうむ)り去られようとしていたのだ。

けれど、つい昨晩のある哀しいできごとをきっかけとして、まるで今その現場に居合わせているかのような鮮明な記憶として蘇ってきた。現にこれを書いている今でも、私の頭の中であの泥棒は、巡査部長の制服を美味そうにくちゃくちゃと食べている。そんな映像が思い浮かぶ。

その哀しいできごととは、ある女性との別れであった。私はその女性と長年の付き合いの果てに、結婚しようと思っていたのだった。しかしそのプロポーズの際に、私は失敗を犯してしまった。やり方が間違っていたのかもしれない。しかしその時、ほかにどうすることができただろうか。

「あたしと結婚したいと思うなら、それができる証明をしてよ。ただの言葉じゃなく、手を出して、あなたにあたしが奪い取れることを証明してよ」

好きだ、結婚しよう。ただそのありふれた告白しか出来なかった私を鋭い目で見据え、彼女はそう言ったのだった。彼女はそのとき、アカデミー賞授賞式に出席するハリウッド女優が着るような赤いドレスを着ていた。一方私はクリーニングに出す直前の、少しヨレてみすぼらしいスーツを着ていたのだ。彼女の趣味のクラシックコンサート観覧の帰りを、会社の後の私が迎えに来たときのことだった。

何も言えないでいる私に、彼女はなおも、詰め寄るようにして言った。

「あなたは、いつだってそう。口で言ってばかりで、体で何も達成できたためしがないじゃない。あなたの言葉に、最初はあたしも惚れてたわ。だけど今は違う。だって、全部ただのハッタリだってことがわかったんだもの」

私が言ったこと――確かに私は、彼女に色んな夢を語った。いつかきっと、君に見合うような富を手に入れて見せる。君に何不自由させない、幸せな生活をプレゼントしてあげる、などと。

けれど今は、まだその夢の途中だ。もっと努力すれば、一生懸命働けば、きっと今よりもっと大きな富が得られると、そう思って励んでいる最中なのだ。そのため最近は残業になることがしょっちゅうだが、それでも彼女にさびしい思いをさせたことなどは無かったハズだ。

つい最近の彼女の誕生日の日にも、彼女が欲しがりそうな、給料二カ月分のブランド物のバッグをプレゼントしたばかりだったではないか。それなのに彼女は、私にもっと求めようとしているのだろうか。

と、私がまだ黙って何かうまい反論が出来ないだろうかと考えていると、彼女は痺れを切らしたようにこう言った。

「あたし、信じてたのに。あなたはもっとできるヒトだって。あなたは、よその金持ち息子のように、楽なばかりの暮らしを送っている人間とは違う。もっと、自分自身で叩き上がるだけの度量のある人間だって思ってた。でも、結局あなたは腐ってしまったのよ。今の自分の立場に満足して、腐り果ててしまったの」

ふと諦めたような表情になり、彼女は言った。

「もう、いいわ。今日はパパのリムジンで帰ることにしているのよ。あなたの、タバコの匂いが残るオンボロの中古車に乗るのはもうたくさん。あなたなんかに、本当にあたしが奪えるわけはないわ」

私はその台詞を聞いた瞬間、彼女のドレスを私の力で剥ぎ取ることができないだろうかと思った。そう、記憶が蘇ってきたのはそのときだった。かつて、あの革靴を盗んだ男が巡査部長に対してやったように、私の口から太い腕を伸ばすことができないだろうかと考えた。彼女が身にまとう富のベールをすべて剥がし取り、丸裸にさせてやりたいと思ったのだ。

しかし私には、その力は無かった。代わりに私の口から出てきたのは、吐瀉物(としゃぶつ)だった。私の中のありとあらゆる言葉がバラバラに分断され、意味を無くしてしまった、言葉の吐瀉物だったのだ。

どろどろの液状となり、臭気を放つそれは、彼女のドレスをどす黒く汚し、彼女の口から悲鳴を上げさせた。私自身も悲鳴を上げそうになった。その直後、彼女の父親が乗ったリムジンが迎えに来ると、彼女は転げこむように、その中へと逃げてしまったのだ。

リムジンが去っていく間際、彼女の鋭い声が、サイテー、と鳴り響き、それが刃となって私の喉笛を掻き切ってしまった。傷口からは血液と共に残りの言葉がこぼれ出し、それらはその前に私が吐いた意味の無い言葉の吐瀉物と混ざり、アスファルトをきたなく汚した。

呆然と立ちすくむ私の元に、やがてやってきたのは警官だった。ちょっと、署まで来てもらおうか。私をヒュー・ジャックマンのような太い腕で乱暴につかんだ彼は、私が彼女に対して何かセクハラを犯してしまったのではないかと勘違いしたのだった。私には、その誤解を解くすべは無かった。なぜなら私の喉笛は恋人の言葉によって掻き切られ、声を発することができなくなっていたからだ。

間もなく、私は監獄に入れられてしまった。私の自由はすべて剥奪されてしまった。それよりも、最愛の女性に逃げられたことと、その女性へのプロポーズをセクハラ行為として警察に疑われてしまったという二つのできごとが、私の心を映画「スタンド・バイ・ミー」に出てきた、暗い森の中の、ヒルが住み着くような沼の奥底まで沈めてしまったのだった。

今の私は、自分の人生を酷くなげかわしく思うと同時に、かつてのあの泥棒を妬ましく思う気持ちでいっぱいだ。いや、かつてのあの男は、もはや泥棒などと呼んでよいものだろうか。

投獄された翌日、つまり今日の、昼間のことだ。他の囚人たちと共に食堂で飯を食っていたときに見たテレビのニュースで、国内のある男がアラブの油田の権益を買い取り、石油王となったと話題になっていた。その男の顔は、私がかつて見た、あの革靴を食った男にそっくりだったのだ。

彼は現在、アラブの広大な油田から得た石油を、贅沢にもサラダ油代わりにし、世界中の有名シェフたちを雇って料理させ、高級車のソテーや高層ビルの照り焼きなんかを毎日食べているのだという。もはや革靴を食べるのとは規模が違いすぎるが、あの男ならやりかねない。

あの男は、泥棒なんて生易しい存在ではなかった。彼は、持つ者だったのだ。そして私こそ、ちっぽけでくだらない、持たざる者である。私は10年もの歳月を経てようやく、そのことに気がついたのであった。かつて私が泥棒呼ばわりした彼は、己(おの)が持つ手によって、誰も届くことのできない空高い雲の上の存在となってしまったのである。そして私はというと、私の中にあった、空虚で無意味な言葉によって、暗い地下のじめじめした牢獄の中に閉じ込められている。

今や私の中には、この日記を書くよりほかは、隣人に挨拶をかけるようなわずかな言葉さえ残っていない。隣人は、ずっと黙ってばかりの私を面白がり、様々な侮蔑の言葉を投げかけるが、私には何かを言い返す力さえ残っていないのだ。やがてきっと、彼も私のことを飽きて何も言わなくなるのだろう。

だが私は、早くそうなってほしいなどとは思わない。むしろ、どうか少しでも、彼が私に興味を持ち続けてくれたらとさえ思っている。

私という存在はきっと、これから先この牢獄の中で、閉鎖された映画館に散り積もった埃のように忘れられた、無意味な存在となってゆくに違いないのである。

(完)


オリジナル版:

(画像出典:Free Images - Pixabay)

【以下、投げ銭で「あとがき」までご覧いただけます】

※あとがき※

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