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note −「書く」という行為

5月の終わり頃からnoteを使い始めた。
きっかけは近くのお店の人が少し前に始めていて、たまたまそれを見つけたからだ(noteの存在もそれで知った)。
FBの店舗ページ上で不定期コラムをやっていたから、もうちょっと定期的に、そして外に向けて書いてみたいという欲求からだった。

…正直に言うと…集客に繋がるんじゃないかという淡い期待もあった。けど、1本目から完全に集客向けでない内容でスタートした結果、ただ書きたいことを書いていく、承認欲求と自己顕示欲を満たすだけのものとなっている気がする。しかもネットにしてはそれなりに長文である。
わざわざ読んでいただいている方々には感謝しかないです。

そもそも書き手が何処の馬の骨ともつかぬのに集客に繋がるわけがないことは3秒も考えればわかることであったはずなんだけど、あの時は考えなかったのか思い上がりが強かったのか。そんなわけで集客には全く影響がない。たぶん。
影響が無くとも(ポジティブな影響があればもちろん嬉しいけど)、「書く」という行為はとても楽しい。
まあ同時に自分の思慮の足りなさやら偏見やらリテラシーの低さやらも下手をすると晒すわけで一概に「楽しい」のひと言で片付けるわけにいかない部分もけっこうある。
だけどまあ日頃うだうだと頭の中でひとり考えているものを文章化するのは思考の整理になるし、それによって自分では予想もしていなかったことが言語化されるのはとても面白い。シュルレアリスムの自動筆記みたいだ。
そうやって、わりと手に任せて進めていくと自分内における未消化部分の発見、思考や視点の別展開が起こったりする。それも面白い。

本当はペンを持って紙に書きつける方が好みだし、僕はその方がより思考を整理できる。
こうやってデジタル機器で文章を書く(果たして「書く」という言葉が適当なのかいまいち疑問ではあるが)のは便利だけど、代わりにそれらに重みが無くなるような気もする。
それは消すにも書き直すにも労を要せず、思ったことをとりあえず文にしてしまうというところにあるような気がする。僕は、だけど。
あの、紙に文字を書きつける時にある、一種の躊躇いや惑いという瞬間がない。 その時点における思考のフィルターがないのだ。これは良くも悪くもある。
しかしそのおかげでこんなペースで更新できているんだけど。

これが紙に書いてから、なんてやってたら筆不精な僕はひと月に一度でも更新をすればいい方だったろう。そして3回も更新せずに放り出すと思う。昔の人は凄いなあ。もちろん、今のようにデジタル機器があったら多くの人は移行していたであろうことは想像に難くないけど。

また長文になってしまった。
小学生の時にやらされた要約文はとても苦手だった。それは今でも変わらないようだ。

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