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缶コーヒー2

 時間には限りがある。大学3年の夏が過ぎて、自販機に赤いマークが増え始めた頃、周囲が騒がしくなってきた。僕達は、就職活動という現実に向き合わなければならなかった。

それでも僕達は、いつものように缶コーヒーを飲みながら、どうでもいい話を続けた。だけれど、今まで気にも留めなかった瞬間に、例えば、会話が途切れて、ふと訪れた短い空白の時間に、なんとなく気だるい空気を感じていた。互いに口には出さなかったものの、それは可視化できない将来に対する不安だった。

「今」に焦点を当てて生きてきた。それが楽しかったし、心地よかった。だけれど、いつしか「未来」「先」「1年後」「これから」など、聞き慣れない単語が、会話のふとした隙間に組み込まれるようになっていった。

ある冬の日の夜、いつもように公園で缶コーヒーを飲んでいた。友人は、飲み終わったブラックの缶を灰皿代わりにして、煙を燻らせながら、はっきりと「不安」という言葉を口にした。僕は迷った。いつものようにくだらない話に変えようと茶化すのか、それとも真剣に受け止めるべきか。

僕は後者を選んだ。でも、なんと言ったのか全く覚えていない。きっと、ありきたりなことしか言えなかったのだと思う。当たり前だ。僕だってすごく「不安」だったのだから。この時のことを、僕は未だに後悔している。どうして、嘘でもいいから、少しでも前向きになれるような言葉を言えなかったのだろう。

友人とは、卒業後、しばらくは連絡を取っていたけれど、徐々に疎遠になっていった。今では連絡することもない。微糖のくせに、やけに甘ったるい缶コーヒーを飲みながら、今でも時々、あの日のことを思い出す。

あいつもどこかで、あの日みたいに、ブラックの缶コーヒーを飲んでいるのだろうか。僕達は今、あの日怯えていた「不安」の遥か先にいる。だけれど、未だに時々「不安」を感じている。口の中に残る甘さに懐かしさを感じながら、互いに元気であればそれで良いと思った。

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