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つくり手がいいと思うものを、僕は欲しい。〜『パプリカ』に寄せて〜

オーディションによって集まったメンバーからなるユニット・Foorinがパフォーマンスする『パプリカ』という曲がある。作曲者は、ボカロ曲プロデューサーという経歴を持ちつつ自らステージに立つようになったという、ミュージシャンでソングライターの米津玄師だ。

Foorinのメンバーは、子どもである。おそらく小学生くらいと思われる。そのわりに、『パプリカ』の旋律の歌唱はそこそこ難しい。跳躍進行(となり合った音以外への進行)が随所にみられる。また、歌詞にもあまり口語的(平易)でない単語や表現が含まれている。

子どもがパフォーマンスすることを前提に曲を提供するとなった場合、子どもの歌いやすさに配慮したメロディや、理解しやすい詞を書くというのは自然ななりゆきに思える。しかし、米津玄師はそれをしなかった。この曲を一聴した瞬間に僕は「米津節だぁ」と思った。米津玄師のこれまでの曲について僕は多くを知っているわけではないけれど、それでも耳に届いてくる範囲の彼についての知識でもそう思わせる雰囲気をこの『パプリカ』は備えている。

メロディの跳躍進行が醸し出すのは、「ヨナ抜き音階」である。

ド(1)
レ(2)
ミ(3)
ファ(4)
ソ(5)
ラ(6)
シ(7)

という音列のうち、ファ(4)とシ(7)を用いないでメロディを構成すれば、「ヨナ抜き音階」らしさを醸し出せる。これはよく、郷愁を誘ったり、懐かしさを感じさせたりすると評される。そういった印象を聴き手に与えやすいようだ。ファ(4)とシ(7)は、和声音として属和音中に含められると、音楽理論でいうところの限定進行音となる。ファ(4)はミ(3)に下降、シ(7)はド(1)に上行する性質を帯びる。小難しい話だと感じる方がいたら、申し訳ない。ここで僕が言いたいのは、このファ(4)とシ(7)があることによって、「予定調和」「既視感」「決まり手」「ご都合主義」といった要素を感じさせる可能性がある、という点についてである(なので、小難しい理論の話は忘れてもらって良い)。

その「予定調和(以下ウンヌン)」を感じさせるリスクをはらんだファ(4)とシ(7)を抜いてメロディを構成すると、次にどの音に進行するかといった点での自由度が高くなるのではないかと僕は睨んでいる。聴き手からすれば、予定調和的でないぶん、「どうせ次はこの音程にいくんでしょ」という邪推をしないで聴いていられるのではないかと思うのだ。「ヨナ抜き音階」に従ってド・レ・ミ・ソ・ラ各音を適当なリズムと長さで適当に配列して奏でてみると、なんとなくそれなりのメロディに聴こえてしまうだろう。ボタンを押すとランダムにそれらの音が再生される、弦楽器の形をしたおもちゃがあったのを思い出す。

米津玄師作曲の『パプリカ』は、子どもに媚びていない。僕はそう思った。あとでこの曲について調べたとき、米津本人の言葉で、「子どもを舐めないように」といった記述も出てきた。なるほど、「舐めないように」となるのか、と思ったが、示唆の根底にあるものは違いないとも感じた。

勝手な慮りで、提供するものを劣化させてしまうことはない。受け手は、そんな馬鹿な優しさは求めていない。受け手本人がそのことに気づいておらず(深層的にはそうした欲求を抱いていたとしても)、表層的にはユーザビリティのようなものを求める態度をとってしまうことがある。その表層的なニーズに迎合したつまらない提供物で世の中が満たされてしまうと、ますます深層的に僕たちが欲しいものは見えなくなるだろう。

他にも語りたくなる点がいくつもあるくらい、『パプリカ』は味わい深く良い曲だと僕は思っている。歌いやすくない曲は、練習のしがいもあるのだ。

長く関わり続けることのできるもの、寿命の長いものの提供を前提にものをつくれだなんて言うつもりもない。はじめから決めてかかることに何よりの危険があるとも思っている。人知れない苦しみがどこかにあるとしても、『パプリカ』を作っていて、楽しくて仕方なくなってしまった瞬間が米津玄師にもきっとあったであろうことを、僕は想像する。「つくり手がいいと思っている」ものを、僕は欲しい。

お読みいただき、ありがとうございました。


こちら(bandshijinブログ)にも、音楽レビュー記事ほかを載せています。どうぞご覧ください。

青沼詩郎


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