自分の内面をほったらかしにしちゃっている君へ
僕らは、人の気持ちを考えましょう。とは教わるが、自分の気持ちを見ましょう。大切にしましょうとは教わらない国で育った。
だから、僕らは自分を大切にすることが下手だ。
と言うより、慣れていないんだと思う。
多くの時間とエネルギーを自分の外側の人や社会に注いできたから。
そう。調和することを優先してきた。
なんて優しいのだ。
なんて愛おしい人々なんだ。
ただ、自分を欠けさせたままの調和は苦しい。
そして、調和しようとしているのに相手によって、外の状況によって、それが難しいことが多い。
それがどうしてなのか?
なぜ?
をもがきながらずっと考えてきた。
多くの人が自分の心や自分のことを大切にしようと気付くのは、社会に出てからになる。
それも、挫折を味わったり、他人から嫌な思いをさせられたり、身体を壊してしまってから。
自身もそうだった。
挫折を味わい、人にムカつき、身体を何度も壊した。
それでも多くを学び、試し、今、この記事をあなたに届けたいと思う。
自分自身というものは、自分の母親にも、父親にも、親友や友達にも、優しい上司や恋人にもなれる。
自分にどうした?と優しく聞ける相手になれる。
自分に寄り添える人に。
自分の機嫌は自分でとれる人に。
俺はそんなことカッコ悪いと思っていた。
そんなことするの男らしくないと思っていた。
その考えがカッコ悪かった。
自分のことも愛せないことの方がよっぽどカッコ悪かった。
そんなことも出来ずに何が大人だ!と思ってから恥ずかしくなった。
子供に何を伝えるの?
子供に何を教えるの?
日本では、メンタルヘルスはまだまだカッコ悪いことなのだろうか?
そんなの病んでいる人だけのものだとお考えだろうか?
その考えが病んでいることにお気付きだろうか?
自分さえも見れない人が自分を大切に出来ることはない。
自分を雑に扱っている人を大切に扱ってくれる人もいない。
だけど、人は本能的に愛されたくて、どこかマインドでお母さんやお父さんを求めているのかもしれない。
けど、もうお母さんにもお父さんにも頼れないから、恋人や職場の人やファンの人に愛を求める。
無償の愛を。
存在価値を。
自己を肯定する言葉を。
無意識に求める擬似的な愛が歪みを生む。
自分に与えていないものを人から欲しがるのは奪う行為だ。
愛であれ、エネルギーにしろ、時間にしろ
奪ってくる者を好むものなどいない。
自分に愛を与えられる存在は1番身近にいる。
自分だ。
自分に愛を与えられるものは、奪うことをしない。
しなくて済むから
だって愛があるから。
そして、自然に与えるという行為を行う。
以前の自分は、こんな記事を書こうとも思わなかった。
今、書ける。
あなたに伝える為に。
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