見出し画像

人生に殺された男【芥川龍之介考】

 パスカルの『パンス』の中には、「人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である」とある。それを聞き付けた彼方の誰か曰く、「そんなことは、自明の話だ、実際私たち自身が人間であるのだから。これは、動物図鑑の説明とは違う。」これから論ずる(というのも大仰な物言いである。実際は、一人の阿保学生が、年中鼻を垂らし、糞尿を垂れ流しながら、指を咥えて机に少し向かって考えただけである。)のは日本の大正期を代表する文豪芥川龍之介についてである。

 文豪と自殺という関係性は、いくら断とうと試みても、強靭なゴムの如くこちらの刃を跳ね返す。そして、その自殺の事実を無視し、彼らのイメージを語ることなどは、不可能に等しい。御存知の通り、芥川も、その晩夏のような狂気を浮かび上がらせる名簿の一人として名を連ねている。彼の自殺の動機は、「ぼんやりとした不安。」

 先に記したパスカルの引用は、人間と人生の関係を的確に表現した名文だと思う。そこにもあるように、私たちは思考をして、現に私なぞはこんな駄文をしたためて、生きている。勉学に勤しんだり、仕事をしたり、白目剥いて遊蕩に身を堕としたり。世の中には、色んな種類の人間がいる。しかし、その中でも、それらの思考をかなり直接的に生活へと繋げる人種というものが存在して、それが作家である、と私は考える。ある程度の形をもった思考というものは、言葉なしにはあり得ない、そして、その思考を言葉をもってして、何らかの容器に包み込んで、提供する仕事。作家、中でも純文学の小説家というものは、そういうことをしてきて、今もしているのだと勝手に思っている。まあ、思考があって、それを物語に落とし込むのか、物語る内に思考の外壁が完成するのか、という順序の問題は分からないが。

 芥川というのは、そんな小説家の中でも、特に優れた一人として名のあがる人物であり、彼の双眸が見据えていた人間の本質みたいなものは、並大抵ではなかった。それは、彼の諸作品を読めば、直ぐに分かることだ。そしてまた、作家の人生と対面する時間というものも、常人の考えには及ばない領域だろう。それも芥川のような天才であれば、どうであろうか。

 ここでまた、先のパスカルの方に思考を翻すと、私たちは、自然の内にあるということがあって、その中での存在の大きさが一本の葦に過ぎない、ということは、相対的に見て、自然の図体とか神力みたいなものは強大だ。そして、人生とは、ある意味で自然の内にある、人間がその航路とか仕組みに触れ得ないものだろう。そうなってくると、私たちは、いくら考えたところで、人生に対する一つの正解も導きだすことは出来ないし、そもそも解答があるのかすら分からない。なので、私たちは、自分で考えたり、本を読むなりして、一応の方針や決意を取り決めているに過ぎない。そして、これは言うまでもないないことだが、それらの一応の結論というものは、行く水の如く常に揺らぎを続け、また、直ぐ一つに定まるものでもない。むしろ、考えれば考えるほど、その振動は激しさを増すだろう。そうなってくると、作家のような人種、それも特に、芥川のような思考に対する天賦の才をもつ人間であったらどうなるか。私が思うにこれは、暴発するのであろう。何もかも信じられなくなるかもしれないし、逆もあるかもしれない。でも、この暴発は、ある意味で、人生と誠実に向き合った末といえるのではないだろうか。世には、単に、その事実だけで、自殺者を非難する者がいて、彼等の心理も分からぬことはないが、自殺というのは、そう簡単なことではない。私たちにとって人生とは、麻薬に近い。私たちの生きる意味は、人生にのみ求められるのであろう。しかし、考えすぎれば気が狂う。