たどり着いたレベルはこんなもん
先日、息子の小学生サッカー最後の公式戦が終わった。
組合わせ的にも上位進出のチャンスがあったが、思わぬ伏兵に負けてあっさり終わった。
試合の結果はともかく、もう少し意地であったり、チームを引っ張る堂々とした姿であったり、が見れるようなドラマチックなものを想像していたが、ただただ良さを封じられ、やりづらそうに苦しんだだけで、あっさりと試合は終わった。
結局、息子が小学生サッカーで積み上げたものはこの程度だったということだ。
ちょっと相手が強いと何も出来ない。
その程度。
怒ったり、落胆したり、呆れたりしたわけじゃない。
単純に事実としてそうなんだという話。
おれは息子の頑張りを知っている。
良いところやストロングポイントも知っている。
何よりサッカーを始めてから、ずっと自分の弱さや悔しさや情けなさから逃げずに向き合い努力をしてきた息子を誇りに思っている。
だけどそれは結果を競う試合においては何も関係がない。
もちろん勝てば何でもOKといった成果主義ではないし、結果より過程が大事だと思うが、過程「だけ」を重視するのでは試合をやる意味がないとも思う。
積み上げた息子を誇りに思うが、その積み上げたものは競技においてまだまだ未熟でしかない、ということだ。
それはそれでいいのだが、難しいのはそれを踏まえた上で息子にどれくらいのレベルのものを求めるのかということ。
やるからには可能な限り上を目指してほしいが、そうすると未熟さが目につく。
その未熟さだけに目を向ければ叱責ばかりになってしまう。それは楽しくないよなあ。
かと言って誉めてばかりじゃ息子は満足してしまってハングリーさがなくなってしまう気がしてしまう。
褒めたいような褒めたくないような。
責めたくないが責めるような形になったり。
何とも微妙なバランスが必要だが、親のおれのこの振りきれなさが息子にも影響してんのかなぁ、とか思ったり。
良くも悪くも子どもの試合にシビアに結果を求める親の子の方が強かったりするしなあ、と思わなくもない。
ただそれで子どもはハッピーか?ともやっぱり思ってしまう。
いくつになろうと子どもは親に褒められたいだろう。
父としてどれくらい息子にポジティブな影響を与えられるのかなぁ。
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