強者な兵
たくさんの、傷つきやすくて繊細な人々が、「こんなことで動じないくらい強くなりたい」と言うのを見てきた。だいたいの出来事は、その人がわるいのではない、事故、ただの事故、だけどあまりにも多い、蔓延している負の感情を、ぶつけられては、ぐっとたくさん溜め込んで、自分から連鎖が続かないようにと必死に必死に、静かに浄化しようとしている。排気ガスを酸素に換える、道端の植物みたい。
かく言うわたしもそのようなことを言ってきた、しかし、強くなればなるほど傷つかなくなっていくわけではない気がしてきた。
故意に傷つけるときも、不本意に傷つけてしまうときも、きっとわたしたちは相手を選んでいる。こんなこと言ったら、嫌われてしまいそうだな、とか、あとで泣いてしまうんじゃないか、怒ってしまうのでは、とか、そんな考えがすこしでも頭をかすめるような相手には、人はとても慎重になる。なぜなら大抵の人間は臆病だから。
真理!強い人よりも、弱い人のほうが、周りは傷つけようとはしてこないのだ。大抵の赤さまは護られる。それなりに健全な自己愛が育った人間なら、赤さまを鬱憤晴らしや、からかいの標的にはしない。だって弱いとわかりきってる相手に、力を誇示する必要なんてないのだ。こいつなら、これくらい言ってもなんとも思わないだろう、とタフな人間に思われるから、奇襲される。
今にも消えてしまいそうな空気を纏った相手には、対峙する側も無神経にはいられない。映画でよく見かけるような、権力や体力でもって"力が強い人"が恐れられるのは、感情の制御器が弱そうだから。結局、誰もが気を使い、頭を下げる相手というのは、大抵弱そうなのだ。
物に当たりそうなくらいハラワタが煮え繰り返っているとき、わたしはたぶん、花よりも石に当たる。当てないけど。この例えで不快になられた石愛好家のみなさま、すみません。
弱いから舐められるんじゃない、何を言っても刃向かわなさそうなくらい、感情を制御する力が"強そう"だから、舐められるのだ。
感情をコントロールする力というのはすごく、すごく大切だ、間違いない、それでも、感情を制御する力ばかり強くなって、こころの硬度と釣り合わなくなってしまうと、いつか壊れる。感情とこころは、相関はあっても、ちがうものなのだ。そしてこころというのはそう簡単に変わったり強くなったり壊れにくくなるものではないし、わたしは強いだとか、大丈夫だとか、こころになにかを言い聞かせた瞬間、あなたはこころの声を聞いていないことになる。こころとの付き合いかたはとってもむずかしい。自分のこころだからといって、自分の意志でなんとかできるものだと思うのはやめたほうがいい。
強くなりたい。そう願うのは素晴らしいことだ。強くなればなるほど、自分が誰かを傷つけることは、減っていくだろう。だからこそ、真の強さをもつ者ほど、痛みを向けられることを、知っておかなくてはならない。その覚悟でもって、強くなりたいと、言えるのか。
爆発せよ!強いだけじゃ、闘えない。
闘うには、弱さが必要なのだ。
※すみあいかは、年下への敬意を忘れないために、最大の年下、通称「赤ちゃん」を赤さまとお呼びしています。