ボブ・ディラン と時空のねじれ 2.幻想の河
2. 幻想の河
1/600の必然
ライブ当日は会場入り口で、突如チケットの交換(座席の交換)などがあり、開演17:00間近になっても入場がままならず、かなしいかな、会場の扉を開けたときには一曲目がすでに始まっていた。いそいで席を見つけて座り、何度か深呼吸して曲に耳をすます。『Watching the River Flow』。過去の曲はそれほど演奏しないと前回述べたばかりだが、一曲目は過去曲から始まった。
この曲は1971年にシングルでリリースされているが、のちに収録されたアルバムはすでに廃盤になっていて、音源としてはベストアルバム『Bob Dylan’s Greatest Hits,Vol.2』にしか入っていない。しかし今年リリースされる予定の、コンサートフィルムのサウンドトラック『Shadow Kingdom』に最新バージョンが収録されていて、この日の演奏はこの音源に近いものがある。(今のところApple Musicではこの一曲だけが聴ける。)
なぜこの曲をボブ・ディランは一曲目に選んだのだろう。600曲ほどもある中からボブ・ディランがこの曲を選び取ったことに、なにかメッセージがあるのではないか。
そもそも廃盤になった曲をベストアルバムに収録するということ自体、強いこだわりを感じる。この曲に注目したことのなかったぼくからすれば、「そういえばなんでベストアルバムにこの曲が入っているのだろう」と不思議にすら思えてくる。しかもあろうことか、ベストアルバムでも一曲目に配置されているのだ。これは偶然なのだろうか。その奇妙な符牒にもなにか必然性のようなものが隠されてはいないだろうか。残念ながらぼくはライブで曲の半分ほどを聴き逃してしまったのだが、歌い出しはこんな歌詞で始まる。
What’s the matter with me
I don’t have much to say
対訳)
俺がどうしたっていうの(俺になにか問題でも?)
言いたいことなんてたいしてないよ
この二行が、81歳のボブ・ディランの観客に向けての挨拶である。ことばに対して鋭敏で、ことばの化学的作用に長けたボブ・ディランが、一曲目のこの二行に無自覚であるはずがない。ボブ・ディランを詩人として捉えれば、直感的に選び取ったともいえるだろう。だが、意識的であれ直感的であれ、ボブ・ディランにとってライブの一曲目は、この二行で始めなければならかったのである。
のっけから断絶
観客の多くは、「ボブ・ディランって新曲ばっかで昔の曲はやらないらしい」ということを知っている。「ボブ・ディランは観てみたいけど、観たいボブ・ディランじゃないかもしれない」という不安を抱えて、それでも高いチケット代(一番安い席でも2万円)を払って来ているのだ。そこにはある種の覚悟が必要だ。しかも、(あとで知ったことだが)この日はなんと開演3分前にスタートしていたらしい。ぼくが見たかぎりでも、席についていない人はまだ数百人はいたと思う。
「早えよ」。腰を落ち着けてまず思ったのはそれだ。おかげでぼくは歌い出しを聞き逃してしまった。まったくふざけているとしか言いようがない。「俺がどうしたっていうの?」じゃない。大問題だ。親切心もなければホスピタリティの欠片もない。(とまあ、それはこちらの勝手な事情なのだけど)。
なにはともあれ、「What’s the matter with me」は、なかなかどうして食えない台詞である。よくよく考えてみると、「What’s the matter」には「with you」がつくのが一般的で、(意味は「どうしたの?」「なにかあった?」というような感じ)「with me」をつけるのは、なんか変だ。普通は他者に対して使う「What’s the matter」に、あえて「with me」を合わせるのは、まちがいなく恣意的である。意識的に組み合わせたのか、それとも直感的にひらめたのかは知りようがないが、この歌詞を書いたとき、ボブ・ディランはなにか“ことばの面白さ”を感じ取ったのだろうと思う。その“ことばの面白さ”は、当然誰もが自由に、好きに感じ取っていいのだが、ここではその作用を探ってみたい。詩性を持つボブ・ディランが、どのようにぼくたちを悩ませ、振りまわしているのかを知りたいのだ。
まず「What’s the matter with me」という台詞は、自身をmatter(問題)だと感じている誰かへの返答である。誰かとは個人的な相手かもしれないし、広く世間と捉えることもできる。いずれにせよ、なにかしらトラブルめいたものが見て取れる。なぜなら「What’s the matter with me」は、初めて自分がmatterかもしれないと感じたときのリアクションだからだ。「え、俺、なにか問題あるの?」「俺がまさかmatterなわけないよね?」という驚きと開き直り。おそらくボブ・ディランはこのことばで、空気を読めない自分、読むつもりなどさらさらない自分を高らかに肯定しているのだ。一言でいうなら、世界に対する「は?」である。
別の角度から見てみよう。「俺がどうしたっていうの?(俺になにか問題でも?)」を噛み砕くと「(俺に関する問題は)たいした問題じゃないだろ?」や「俺のなにが問題なんだよ」という反発も見てとれる。もっと噛み砕くと「(あなたにとって、もしくは世の中にとって)問題かもしれないけど(俺にとっては)問題じゃないんだよ」と言い換えることができる。あらわになるのは、ボブ・ディランと世界の、価値の相剋である。
ここでいう価値とは、ボブ・ディラン自身の価値だ。つまり、ぼくたちにとってのボブ・ディランと、彼にとってのボブ・ディランはすでに断絶していて、「俺は、君たちが知っているつもりになっている俺じゃないんだよ」と暗に伝えているのだ。前回の記事で述べた「脱栄光主義」の観点からいえば、「ここにいるのは過去の俺ではなく、今の俺だ」という表明なのである。
皮肉の奥深くへと
そして続くのが、「言いたいことなんてたいしてないよ」という一言だ。デビューしてから絶えず胸のうちを探られ、なにかにつけて意味や理由を求められてきたボブ・ディランだからこそ、この一言は痛烈な皮肉として響く。
その皮肉の効果は遠大だ。なぜなら、「言いたいことなんてたいしてない」と言ったあとに、十数曲を歌い上げることを観客は知っているからだ。
ぼくは思う。「ボブ・ディランはここで、自身と観客との間にひとつの“問い”を置いたのだ」と。「このライブで歌うことばに、意味はあるのだろうか」と揺さぶりをかけたのだ。
言いたいことがない曲を聴くとはどういうことだろう。有益なのだろうか、それとも無益なのだろうか。そもそも、歌のことばは有益でないといけないのだろうか。言いたいことがない曲のことばに、なにかを感じることはあるのだろうか。あるのではないか。「言いたいことなんてない」と彼は言うが、本当は無意識の領域でなにか言いたいことが歌詞に反映されていることもあるのではないか。とさまざまな疑問が浮かび上がる。
「言いたいことはたいしてない」と言ってから歌うことは、「創作物とは虚構である」と宣言することだ。しかし創作物に触れる者(聴衆)は、そこになにかしら真実の手触りを感じることがある。歌詞に意味があろうとなかろうとかまわない。真実を見出すことはできるし、虚構を見出すこともできる。虚構のことばの真実性。真実のことばの虚構性。両方が頭をもたげるのだ。
この歌い出しの二行に、確かに言いたいことはなかったかもしれない。だがその二行は、どうしても言わなければなかった。常に「今」を志向するボブ・ディランだからこそ、ライブの最初に自身の価値の固定化を無効にしなければならなかった。つまり、観客が求める過去、自身につきまとう意味を液状化することで「構造的な今」をライブ空間に立ち上げたのだ。
幻想の河を見つめる
もうひとつ付け加えておきたい。『Watching the River Flow』の文法についてだ。ぼくたちが中学校で習う英語では、三人称単数の主語のあとにつづく動詞には「s」がつくのが常識だ。正式な文法で表記するなら「River Flow」ではなく「River Flows」である。なのに「River Flow」と書かれている。ここにもボブ・ディランなりのフックが隠されているようにぼくには思える。
歌詞全体を見渡してみると、最初の二行のあと、深夜のカフェで座っている主人公の空想めいた独白や世の中に対する毒っけのある吐露がつづく。さまざまに交錯する心情と柔軟に飛躍する心象風景が散文詩的に綴られるなかで、主人公はふいに砂岸(bank of sand)に腰かけ、河の流れるさまを見つめる(watch the river flow)。その幻想の河に「s」がつかないのだ。
カジュアルな英語では、三人称単数に「s」をつけないことがもしかしたらあるのかもしれない。その軽く砕けた感じがなんとなく気持ちいい、歌のトーンと合っている、というような理由があるのかもしれない。
だけど、誤解をおそれず深読みすると、主人公は「River」に自身(I)を投影しているのである。深夜のカフェで物思いにふける、その孤独の最中に見つめる河の流れは、ボブ・ディラン自身の過去・現在・未来の流れを表しているからこそ、主語が「River」であっても「Flows」ではなく「Flow」なのである。そう考えると、『Watching the River Flow』はきわめて「内省の歌」である。
深夜のカフェは万能だ
この曲を発表してから50年以上の時を経てもなお、いや、そうだからこそ、自身の過去・現在・未来を見つめる意義は大きいだろう。膨大な過去を、固定化された価値の呪縛から解き放ち、未来へと流れつづける河を見送るため、ボブ・ディランはライブ空間に構造的な今を立ち上げたのだ。おおげさな言い方をすれば、ボブ・ディランはこのときステージにいながらにして、深夜のカフェの一席で憂鬱な空想にふける孤独な主人公として魂を飛翔させたのである。
このようにしてライブの一曲目で行なったアクロバティックな仕掛けは、ベストアルバムでも同様に展開されている。彼はこの曲を一曲目に配置することで、その後につづく代表曲たちが過去の価値にとどまるのではなく、現在、未来へと流れていくことを願っているのだ。ぼくはこのライブを観るまで、ベストアルバムに仕掛けられたその企みに気づくことはなかった。
ボブ・ディランはこの曲を演奏することで、会場に居合わせる者たちの世界の様相を一変させた。共有していると信じていた過去が粉々に砕かれたとき、観客が頼りにできるのは、いまこの瞬間の感受性と想像力だけだ。たしかにぼくはこのあと、演奏を聴きながら時空のねじれやめまいを感じ、ふいにいくつもの景色の中にいた。その景色の質感は、いまでも覚えている。
そのように思い出しながら、あらためて『Watching the River Flow』の最新音源を聴いていると、どこか壊れたパレードのようで、ドクター・ジョンの初期のような呪術的な響きも遠くから聴こえてくるから不思議だ。